七分獲一の法という考え方があります。
亡くなった亡者に供養したお供え物が、
七分の一だけ得るという意味です。
残りの七分の六はどうなるのか、
それは何とも分からないんですけどもね。
とにかく、
亡くなったご先祖に差し向けたお供物が、
向こうに届くのは、七分の一だけなんだというのです。
例えば、
籠いっぱいにリンゴを盛ってお供えしても、
向こうのご先祖様にいただくのは、ほんのわずか。
ごちそうを一杯乗せてお供えしても、
届けられたごちそうをいただけるのは、ホンの少しだけ。
ふーん?
内心、不思議だなあなんて。
そのうってつけの話に、
お盆で定番の木蓮尊者のお母さんの話があります。
神通力第一と謳われた目蓮尊者が、
まず初めにしたことは、
亡くなったお母さんが、今ごろどこにいるのか。
それを探すことでした。
自分を育てるのに一生懸命に働いて、
我が子を一人前にしてくれた、優しく愛おしいお母さん。
今ごろは、
さぞかし良いところにいらっしゃるだろうと思って、
仏界から菩薩界そして天上界を、
ざーっと見渡したのですが、
これといってお母さんらしい姿を見つけることが出来なかった。
そこで、
まさかと思いながら、
さらに下方のほうを見渡して探したのですが、
なかなかお母さんらしい姿を見つけることは出来なかったんです。
そこでさらに、
ようく目を凝らして見てみると、
賽の河原で目を泣き腫らして、
大声で泣いている老婆を発見したのでした。
目蓮尊者はさらに目を凝らすと、
確かに見覚えのある姿なのです。
そうです、
あれは確かに自分の母親である。
なぜ私のお母さんがこんなところに、
変わり果てた姿で泣き叫んでいるのだろうか。
目蓮尊者は大変混乱した頭で考えました。
そして、
急いでそばに駆け寄って、
得た神通力でお水を作り出して、
母親の口元に水を持って行ったのです。
母親はひったくるようにして、
その水を飲み干しました、
水は喉元を通りすぎると、
たちまち火となって、お母さんの喉はやけどするのです。
アチチチチ、
お母さんは水を放り捨てて、
声を上げて泣き叫ぶのです。
次に、
木蓮尊者は御馳走を神通力で作り出して、
母親の口元に現出するのですが、
彼女はそれをひったくるようにして口に持っていくと、
がつがつがつと食べるのですが、
喉元を過ぎると、
またおなじように、
火と変じてしまうのです。
お母さんは泣き叫んで、
空腹が一向に満たされないことに、
いっそう泣き叫んでしまうのでした。
目蓮尊者は一体どうしたものかと思案しましたが、
良い解決策は思い浮かびませんでした。
結局、
お釈迦さまの元を訪ねて、
母親を助ける良い方法は方法はないかと聞いたのでした。
お前の母親は、
お前を一人前に育てるために、
一生懸命働いたが、
高利貸しをして、人々を苦しめたのだ。
お金を貸したのは良いが、
お金を返せない人に対しては、
無理矢理踏んだくるようにしてお金を持って行ったし、
お金のない人には、
着ている着物まで剥がして持って行った。
そんな無慈悲な高利貸しをして、
お前を育てたのだ。
その報いとして、
お前のお母さんは今、あのように苦しんでいるのだよ。
そうお釈迦様はおっしゃるのでした。
では、
あの私の母親が救われるには、
一体どうすればよいのでしょうか?
この夏の安居に、多くの坊さんたちがやって来る。
その坊さんたちに修行の慰労や衣類を布施して、
供養するのだ。
その供養が功徳となって、
お前のお母さんに届くだろう。
そして、
その功徳はお前のお母さんを餓鬼界から救うてくれるだろう。
そうお釈迦さまはおっしゃられたのでした。
そして、
木蓮尊者のお母さんは救われたのでした。
めでたしめであたし!
そんなお話でしたね。
七分獲一の法も同じで、
どのようにご先祖を供養したいと、
いろいろな御馳走やお供え物をしても、
ご先祖にそれらのお供え物を受け取る徳がなければ、
一切受け取ることができないのだということですね。
その反対の話として、
七分全得という言葉があります。
これは、
他人のために追福をすれば、
他人には一つの部分、
おのれには七つの部分を全く得るという。
(『随願往生経』、『地蔵本願経』などによる)
他者救済のための供養は、
まさに大変な功徳をおのれに生み出すのだという、
大きな証明になるのではないでしょうか。
(つづく)
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