久しぶりに夢をみたので、
「ああ、私は一度、このことをふりかえるべきなのかも」
と以前の投稿を再録します。
2000年の出来事のため、「元夫」は「夫」、
すべて当時の呼び方で書いていいます。
関係者のプライバシーには配慮したつもりですが、
もしこれを見て不快になった方がいまりたらお詫び申し上げます。
この文章は、以前書いたものを加筆訂正しています。
書くことで気持ちの整理をする勝手ををお許し下さい。
**********
2000年の新春、結婚5年目にしてやっと子供をさずかりました。
夫にメールを送ったところ、
すぐにカワイイ呼び名をつけてくれました。
はじめて、小さな命が身体に宿り、本当に嬉しかったです。
つわりで吐きながら、会社に通いました。
満員電車は辛かったけれど、子供が大きくなるのが嬉しかった。
犬の日、はじめての胎動。
そして産休に入り、いよいよでした。
私たちは夫婦は幸せの絶頂にありました。
はじめての子供を待つ幸せで舞い上がっていました。
夫の苦心作のベビーベットには、
赤ちゃん用の布団があり、新生児用の服も水通しをして、
病院へ持っていく準備も完了。
私のお腹をよく蹴る赤ちゃんの足は力強く、
「きっとかけっこが好きになるね」
とふたりで話しました。
そして、
「自然の中で遊ぼう」「運動をさせよう」
「お受験はいらないよね」
などと、3人の暮らしについて話ましました。
私たちは、本当に、本当に、幸せでした。
予定日の少し前、前駆陣痛で焦る私をリラックスさせるために、
夫が、ドライブをして漁港でお寿司を食べさせてくれました。
赤ちゃんは2500グラムを超え、いつ産まれてもいい状態でした。
男の子だと言われました。
名前は夫がつけました。
夫の名前から一文字とったその名前は
「人を繋ぐ」という意味をこめたそうです。
2000年9月18日(予定日)
いつものように、検診に出かけました。
とてもいい天気だったのを憶えています。
いつものように、冗談まじりで先生の問診を受け、
超音波による画像診断を受けました。
ふと先生の雑談が途切れました。
超音波の画像をみると、
赤ちゃんの心臓が動いていません。
一瞬、何が起こったのかわかりませんでした。
でも、いつも、ぽこぽこと動いているはずの
心臓が動いていません。
動いていないのです。
先生がけわしい顔で、看護士さんに、
私を別室に移すよう指示を出していました。
別室に移され、おなかに機械をまいて、
看護婦さんが心音を探す機械の位置を必死で調整していました。
何度も、何度も、もうみつかりっこないのに、
それでも何度も探していました。
どんなに探しても、心臓の音は聴こえませんでした。
「どうか赤ちゃんを助けて下さい」
と私は神様に祈りました。
泣き叫び、半狂乱になりながら祈りました。
自分の命と引き換えにしてもいいと本気で思いました。
「お願いします」
「お願いします」
ずっと叫び続けました。
やがて意識を失いました。
目覚めたときには、心音を探す機械がありませんでした。
駆けつけた夫と一緒に、先生の部屋に行きました。
まだお腹は大きいけれど、
「赤ちゃんは亡くなりました」
と告げられました。
夫は驚くほど気丈でした。
私の手を強く握り締めてくれました。
「促進剤を投与して、亡くなった赤ちゃんを産みましょう」
と言われました。
「頑張って産んで、だっこしてあげようね」と
泣きながら、夫婦で話しました。
夜になって陣痛が起こりました。
練習した通りの呼吸法でしのぎました。
母親学級での練習が役に立ちました。
夫がずっとずっと腰を押してくれました。
分娩そのものも練習通りに出来ました。
助産婦さんの指示通りいきみ、
何回かいきんだのち、赤ちゃんが産まれました。
夫は死因の説明をうけました。
赤ちゃんの首には、へその緒が何重にもまきついていたそうです。
私はみていませんが、夫はそれを見なければなりませんでした。
彼はそのことを、それ以来、一度も口にしません。
どんなに辛かったことでしょう。
そして赤ちゃんはどんなに苦しかったことでしょう。
助産婦さんたちが、きれいなおくるみに赤ちゃんを包んでくれ、
やっと対面することができました。
そして最初で最後の抱っこでした。
親子3人だけにしてもらいました。
本当に、静かな、静かな時間が流れました。
静かに私たちは語り合いました。
その後、私たちに降りかかる苦悩は、
そのときだけは、待っていてくれました。
「私たちのところへ宿ってくれて有難う」
「お腹の中にいる間、とても幸せだったよ」
と言いました。
「それなのに守ってあげられなくて本当にごめんね」。
どんなに「不可抗力の事故」
「誰にも防ぐことは出来なかった」と説明されても、
赤ちゃんを守ることが出来るとしたら
母親の私以外いなかったと思いました。
そして私は、部屋から一歩もでられなくなり、
電話にも出ず、
何を見ても、聴いても、心が止まったままに
なりました。
そして、今年も9月18日がやってきます。
生きていれば、9歳です。
数えても仕方がないと思いながら、
やはり毎年年齢を数えずにはいられません。
いま、あなたを抱きしめることが出来たら。
仕事と育児に追われる中、
考え込んでしまう閑はなくなりました。
また、さまざまな人のお陰で、
9年経ち、私はやっと自分を責めなくなりました。
今でも、時に「暗い淵」へとおちそうになることがあります。
でも、それを天国の息子が喜ぶでしょうか?
断じてそれはない。
「悲劇のヒロイン」に私はなりません。
明るく、笑いながら、精一杯生き、
今の息子たちを育て、やりたいことをやり、
天寿を全うし、
母ちゃんの人生がどんなに面白かったかを
天国の息子に面白可笑しく語るのが楽しみです。
「ああ、私は一度、このことをふりかえるべきなのかも」
と以前の投稿を再録します。
2000年の出来事のため、「元夫」は「夫」、
すべて当時の呼び方で書いていいます。
関係者のプライバシーには配慮したつもりですが、
もしこれを見て不快になった方がいまりたらお詫び申し上げます。
この文章は、以前書いたものを加筆訂正しています。
書くことで気持ちの整理をする勝手ををお許し下さい。
**********
2000年の新春、結婚5年目にしてやっと子供をさずかりました。
夫にメールを送ったところ、
すぐにカワイイ呼び名をつけてくれました。
はじめて、小さな命が身体に宿り、本当に嬉しかったです。
つわりで吐きながら、会社に通いました。
満員電車は辛かったけれど、子供が大きくなるのが嬉しかった。
犬の日、はじめての胎動。
そして産休に入り、いよいよでした。
私たちは夫婦は幸せの絶頂にありました。
はじめての子供を待つ幸せで舞い上がっていました。
夫の苦心作のベビーベットには、
赤ちゃん用の布団があり、新生児用の服も水通しをして、
病院へ持っていく準備も完了。
私のお腹をよく蹴る赤ちゃんの足は力強く、
「きっとかけっこが好きになるね」
とふたりで話しました。
そして、
「自然の中で遊ぼう」「運動をさせよう」
「お受験はいらないよね」
などと、3人の暮らしについて話ましました。
私たちは、本当に、本当に、幸せでした。
予定日の少し前、前駆陣痛で焦る私をリラックスさせるために、
夫が、ドライブをして漁港でお寿司を食べさせてくれました。
赤ちゃんは2500グラムを超え、いつ産まれてもいい状態でした。
男の子だと言われました。
名前は夫がつけました。
夫の名前から一文字とったその名前は
「人を繋ぐ」という意味をこめたそうです。
2000年9月18日(予定日)
いつものように、検診に出かけました。
とてもいい天気だったのを憶えています。
いつものように、冗談まじりで先生の問診を受け、
超音波による画像診断を受けました。
ふと先生の雑談が途切れました。
超音波の画像をみると、
赤ちゃんの心臓が動いていません。
一瞬、何が起こったのかわかりませんでした。
でも、いつも、ぽこぽこと動いているはずの
心臓が動いていません。
動いていないのです。
先生がけわしい顔で、看護士さんに、
私を別室に移すよう指示を出していました。
別室に移され、おなかに機械をまいて、
看護婦さんが心音を探す機械の位置を必死で調整していました。
何度も、何度も、もうみつかりっこないのに、
それでも何度も探していました。
どんなに探しても、心臓の音は聴こえませんでした。
「どうか赤ちゃんを助けて下さい」
と私は神様に祈りました。
泣き叫び、半狂乱になりながら祈りました。
自分の命と引き換えにしてもいいと本気で思いました。
「お願いします」
「お願いします」
ずっと叫び続けました。
やがて意識を失いました。
目覚めたときには、心音を探す機械がありませんでした。
駆けつけた夫と一緒に、先生の部屋に行きました。
まだお腹は大きいけれど、
「赤ちゃんは亡くなりました」
と告げられました。
夫は驚くほど気丈でした。
私の手を強く握り締めてくれました。
「促進剤を投与して、亡くなった赤ちゃんを産みましょう」
と言われました。
「頑張って産んで、だっこしてあげようね」と
泣きながら、夫婦で話しました。
夜になって陣痛が起こりました。
練習した通りの呼吸法でしのぎました。
母親学級での練習が役に立ちました。
夫がずっとずっと腰を押してくれました。
分娩そのものも練習通りに出来ました。
助産婦さんの指示通りいきみ、
何回かいきんだのち、赤ちゃんが産まれました。
夫は死因の説明をうけました。
赤ちゃんの首には、へその緒が何重にもまきついていたそうです。
私はみていませんが、夫はそれを見なければなりませんでした。
彼はそのことを、それ以来、一度も口にしません。
どんなに辛かったことでしょう。
そして赤ちゃんはどんなに苦しかったことでしょう。
助産婦さんたちが、きれいなおくるみに赤ちゃんを包んでくれ、
やっと対面することができました。
そして最初で最後の抱っこでした。
親子3人だけにしてもらいました。
本当に、静かな、静かな時間が流れました。
静かに私たちは語り合いました。
その後、私たちに降りかかる苦悩は、
そのときだけは、待っていてくれました。
「私たちのところへ宿ってくれて有難う」
「お腹の中にいる間、とても幸せだったよ」
と言いました。
「それなのに守ってあげられなくて本当にごめんね」。
どんなに「不可抗力の事故」
「誰にも防ぐことは出来なかった」と説明されても、
赤ちゃんを守ることが出来るとしたら
母親の私以外いなかったと思いました。
そして私は、部屋から一歩もでられなくなり、
電話にも出ず、
何を見ても、聴いても、心が止まったままに
なりました。
そして、今年も9月18日がやってきます。
生きていれば、9歳です。
数えても仕方がないと思いながら、
やはり毎年年齢を数えずにはいられません。
いま、あなたを抱きしめることが出来たら。
仕事と育児に追われる中、
考え込んでしまう閑はなくなりました。
また、さまざまな人のお陰で、
9年経ち、私はやっと自分を責めなくなりました。
今でも、時に「暗い淵」へとおちそうになることがあります。
でも、それを天国の息子が喜ぶでしょうか?
断じてそれはない。
「悲劇のヒロイン」に私はなりません。
明るく、笑いながら、精一杯生き、
今の息子たちを育て、やりたいことをやり、
天寿を全うし、
母ちゃんの人生がどんなに面白かったかを
天国の息子に面白可笑しく語るのが楽しみです。