相対性理論はこれまであまり信じていなかったが、文化史論に組み込むことができて、すっかり考えが変わってしまった。 アインシュタインで評価できるのは、重力を空間の歪みとしメッシュで表したことぐらいだと思っていたが、自由落下を無重力とする慣性系からの発想も何気に凄いのではないかと今では思っている。 普通に考えると、すれ違う電車が着想で、特別な結果は導けそうにないが、そこにはニュートンのリンゴ並みの発見があるように思う。 自由落下=無重力の慣性系は、実は我々の身近に存在する。地球の中心から無限遠までの線状の空間である。 この線空間が球状にとりまく地球周辺のような領域が、いわゆるニュートン物理が成り立つ系になる。 一方で、特殊相対性理論で扱う慣性系は、この線空間の中の点上にしかない。そうなると法則の設け方と、重力の適用の仕方もおのずと変わってくるというもので、ここの発想の転換はちょっとやそっとのことで思い浮かぶものではない。 自由落下=無重力の慣性系の線空間上の点の性質を、線上のどの点でも当てはまるように表したのが一般相対性理論の重力場になる。 詳しくはウィキペディアに預けるとして。以上の考えはほぼ等価原理に基づいているといっていい。 拡大解釈な面もあり、若干補足しておくと、ニュートン物理が成り立つのは同じ慣性系が広がっているからではなく、同じ慣性系が積分されて広がっているからという考えになる。 やはり、地球の中心から無限遠までの直線空間を全体として捉え、それ以上落ちることのない無重力の慣性系とみなすのはやや強引であろうか。 強引に見える理由は、ここには2つの既知の慣性系と、1つの一般的でない慣性系が含まれているからで、これらが等価であるならば、全体も等価として認められることになるのだろう。 無重力と自由落下は、従来の慣性系で等価と認められている。 地表の物体は常に重力加速度が働いている状態にある。にもかかわらず見かけ上静止しているのは、常に反対向きの力と吊り合いが取れているからだと考えられる。すべての力が重力由来とするならば、重力加速度が重力加速度で吊り合いが取れているなら慣性系にあると認められてもよいのではないか。 自由落下中の慣性系が、反対方向の重力源にも自由落下中で、見かけ上落下していなくても慣性系であることに変わりはないはず。 これを言い出すと、どんなものも慣性系にあり、重力のあるなしは関係ないことになるが、こう考えていくと、慣性系だから等価なのではなく、等価なものを抽出した状態を慣性系とみなし、その等価なものが何かを発見したのがアインシュタインだということになる。
③粒子の⑤①を発散と収束にして、極限を扱ったみたいになったことで、④宇宙に微積が入るのは半ば必然であった。後になって気づいたことで、③粒子がフラクタルの要件であることから(フラクタルは仕組みの外にある成り行きとか状態とかパターンとかと思っていた)、宇宙を表しうる2大法則で③粒子と④宇宙が埋まるとなったことで、以降の見通しがだいぶんよくなってはいた。一般的に重要な宇宙の法則といえば相対性理論が思い浮かぶが、私はこれに疑問しか抱いていなかった。理解できないからというのもあるが、光速不変を前提としながら、その理由を示さないまま追究を諦めてしまった理論が、宇宙の根幹たりえるとは到底思えなかったからだ。とはいえ他にめぼしい理論もなく、相対性理論のすべてが否定されるわけではないのも確か。重力を空間の歪みとし、くぼむメッシュ状に表したのはアインシュタインの発明だと聞いたことがあるし、E=mc2なら重力のみで宇宙を表せるのではないかという示唆を含み、そう無碍にしきれるものではない。結局のところ⑤星に当てはめるしか残りの枠がないのと、そのままでは前後がつながらなくてどうしようもなかったので、逆に考えてみることにしたのがよかった。相対性理論が成り立つものとしておいて、だとすると宇宙には何があるのかと考えていく。我々の宇宙があって、相対性理論で導かれるような結果が起こる、と考えると理解できなくなるわけだが、逆に考えていくと、現宇宙論ではあるとみなされていて、どんなものかわかっているようでよくわからないものが、相対性理論の前提としていくつか出てきた。これが⑤星の中にうまくはまってくれた。まずは、④宇宙の②と③は微積の基礎からすぐに埋まった。②導関数:関数上の点が1次元下の導関数の性質を持つこと。関数を定義していないので、導関数が成り立つための条件がここに入るという考え方になる。③微分⇔積分:上位次元と下位次元の互換性。次に⑤星は相対性理論を参考にして、これも②と③がすぐに埋まった。②時間:相対論的な時間。時計を持ち込むわけにはいかないのでこれまで時間は想定しなかったが、通常の時間とは違うってことはわかる。③質量:重力でありエネルギーでもある。重力が量れないなら質量も量れないはずだが。いずれも相対性理論の結果として、常識とはかけ離れた振る舞いをする。計測が困難なのは共通で、以降の項目によっても定義されるものと見ておいたほうがいいという点を踏まえて、④場:一般相対性理論の重力場から。⑤系:特殊相対性理論の慣性系から。論の前提として出てくるのできちんと定義されているとは思うが、もちろんどんなものかよくわからない。こうして並べるとどれもどこか似通っている。(当面は、ちょうど④と⑤が埋まるという説得力のみを根拠とする。私にとってはこれだけで十分なのだが)現代物理学では、よくニュートン物理が通用しないという言い方がされる。新しいほうが上みたいに語られるのが通例で、ニュートン派の私としては、存在するものを成り立たせられない考えのほうが間違っていると思ったものだが。改めて考えてみると、どちらが間違いというよりかは、両パラダイムは表と裏の関係にあり、どちらかだけでは混沌としたままか固定化したままの世界になるのではないか。といったあたりで次の②主張する論理にうまくつながったものとみなし、話を⑤星の①に戻すと、これだけ相対性理論がはまると、その根本となるものがここに当てはまるような気がしてくる。つまり、光速不変の理由である。単純に考えると、時間を計るのにも、質量を量るのにも、基準となる単位が必要だったということになる。単位だから不変で計測されるのか、単位としてしか計算に用いないから不変なのか、他の基準を持ち得ないだけか、はひとまず置いておくとして、微積を調べていると、一つ基準になりそうなものがあって、ずっと気になっていて。が、その前に④宇宙の残り枠、④級数・行列:次元以外のものとの互換性。実数と自然数の関係もそうだが、繰り返しによって次元のように振舞うものに対しても、次元が互換性を保てること。⑤不確定性:微積の応用は多岐に渡ると言われているが、人類はまだその真髄を見ていないのではないか。世の中には便利な用語があるものだ。あらゆる性質、状態、計算が次元に内包されるとして、たとえば0になる性質と∞になる性質が相殺して、安定した性質が残るとしたら、相対性理論の基準にもなるのではないか?その候補としてe(ネイピア数)は、そういうものがあると思わせてくれるに足るものだとは言えまいか。基準のでき方としては、(相対性理論でネイピア数が何の意味もなさないかどうかにもよるが)A)eで安定して基準になったのか。B)安定したから基準(e)なのか。C)あるいは部分的安定の共通項として基準が現れるだけなのか。私としては、全宇宙で同じ基準と考えるのは危険と思うから、C寄りのBで、基準で計算するから不変、と考えたいところだが。もしかして、光が同じ速さで観測されるのは、eの微分係数を計算するかのような手順で光の速度を計っているからなのではないか?…やっと全部埋まった。
ほんとうは「レンゲソウ」という。ある時、街中の駐車場の片隅でレンゲが一輪咲いているのを見かけた。子供の頃によく見かけた花が、可憐に愛らしく咲いているのを見て、これはもう作るしかないと思ったのがきっかけ。翌年の春、どこにでも咲く花だと思っていたのが、同じ駐車場にも、鉄板の河川敷にもなく、1年を棒に振る。ネットで調べて、秋に種を蒔く花だと知り、ホームセンターで種を購入。冬を越す芽を危ぶみながら、不安をよそに春には繁茂し、ところが、花が咲いてようやくそれがヒナゲシ(雑草)だと気づく。またもや1年を棒に振って、秋に再度種を購入。種の大きさが全然違うのを確認し、種蒔き。先に種がばら撒かれたヒナゲシがわんさと芽を出すのを駆除しつつ、20株ほどのレンゲを守りながら冬を越す。ヒナゲシが冬の間も隙を見ては芽を出すのに対し、レンゲは秋に生えたきりなのが心許なかったが、春になって暖かくなるとぐんぐん勢力を伸ばし、やっぱり雑草だったんだと子供の頃の認識を再確認する。途中アブラムシに悩まされたが、製作期間中ずっと花を咲かせ続けてくれた。