こういうのを作っていると、いつかは「不気味の谷」という言葉にぶつかる。
思うにこれは、谷ではなく二つの山なのではないか。
そもそも、絵がどんなでも見えるようにしか見えないわけだし、作り手としてもできる範囲内でやっているわけだから、谷なんか気にしていられない…と、これまでは思っていた。
-そういえば、不気味というのは動きにも当てはまる言葉であった。
モデルに動きをつけるほどに、イメージからかけ離れていく。これはT字I字から形が崩れ、作業も難しくなるからだと思っていた。
動きにも「不気味の谷」があるとすれば、がんばって動かそうとするほど谷にはまり込んでしまう可能性だってあるわけだ。
バレエ、日舞、魅せるための洗練された動きは、そう容易く表せるものではない。自然体と動きが相反する場合、現状で谷を回避する術はない。
ところで、人の顔と人の動きとの不気味という共通点は、両者が同じ仕組みによって認識されていることを推測させてくれる。
と同時に、このことは、山と谷が図の左方向へつくられていることを示唆している。(抽象画が評価される所以か)
(直感と論理は、経験とその解釈としても当てはまるかもしれない)
私は常々、人が現象や経過を含む状態までも認識できていることを不思議に思っていた。(SOVのV)
人なら歩く、走る、座る、寝る。植物なら芽が出る、葉が繁る、花が咲く等。人がなぜ、こうした変化を認識し、言葉にして表すことができるようになるのか。
今回不気味の谷について考えてみて、写実と記号あるいは直感と論理の間に大きな溝が必ずできるのだとすれば、このような疑問が生じることにも納得がいく気がした。
もしも不気味の谷を打破することができたならば、この疑問に対する答えにも近づけるかもしれない。
認識の谷は、人の、人間的とされる心理行動の多くを説明してくれる?