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笑い(続き)

2010-05-21 12:47:42 | もの思い

 “笑い=機能停止”説とは、思考を止め、身体的に無防備であると示すことが笑いである、という考え方。
 笑いを分析するには、認識過程で緊張と緩和が再現されていることと、もう一つ、無防備になる理由に注意する。
 笑う、つまり無防備になる理由には、無抵抗であることを示して止めさせたいのか、さらに求めているのかの2パターンがありうる。いずれのために笑うのか、これらは区別できない(お笑いで「やるな」が「やれ」を意味する等)。

 区別できない理由があるから緊張し、緊張で選択が迫られ、緩和で選択される。無防備になることを選択するか、選択によって無防備になるか。無防備な選択をするか、無防備で選択するか。状況は千差万別、言い方にも色々あるが、いずれにせよ無防備になれれば、それが笑ったことになる。

 発生学的に、区別できないことを笑いで処理することは、社会性をさらに上の段階に推し進める、とは考えられないか?
 飼い犬が腹を見せるのは楽しげで可愛らしい印象さえあるが、生物学者が服従のポーズだと言うと、印象とは真逆の笑いとかけ離れたものだと思いこんでしまう。しかし、笑いについて考えていくと、この犬の行為が笑いと同源だと思えてならない。
 赤ちゃんは無防備な存在である。新生児ですでに笑う機能はあるものの、笑うのは求める理由で笑い、止めたいときはむしろ泣く。止める理由っぽい笑いもじきに現われる。
 やがて成長すると、依存するだけだったのが少しずつ自立するようになり、比較的に依存されるという状況も出てくる。そうなっても子供は何もできないので、無防備な存在となり、笑いが生まれる前提ができあがり、笑うこともあればそうでないこともある。頼られることは認められることであり、笑いにつながる関係は成長に合わせて変遷する。
(ここには共感しうる親の立場も存在する。その脳内では緊張と緩和が再現されており、そして無防備になれるなら笑う)
 さらに成長すると、区別できない選択をいくつも見聞、経験し、笑うに笑えない空間に放り込まれることもしばしば。無防備でいられる仲間があれば、遊び笑い、自ら笑いを生み出すということもあるだろう。
 以降、いくつになろうと、どんな社会にいようと、笑いにつながる関係性に変わりはない。

 区別できない選択は、他の感情「怒り」「悲しみ」などの下地、引き金にもなる。