「何しよる?」「なにも」「息しよるじゃん」という子供の言い合いがある。
不毛なうえに、“息をしようとしてしているのか、しようとしていなくてもできているのか”、気になりだすと息苦しくなってしまう。
ならばこういう考えはどうだろうか。
“記憶をしようとしてしているのか、しようとしていなくてもできているのか”
“息”と“記憶”を取り替えるのである。
人は、憶えようとして憶えたことよりも、憶えようとしなくても憶えていることのほうが多い。
息もしようとしなくてもできているし、記憶もしようとしなくてもできている。
“なぜ息をしているか”考えるよりも、“なぜ記憶できているか”考えるほうがよほどミステリアスではないか?
ところで、記憶はしようとしてもできていない、というのは誰しも頻繁に経験することだ。では息はどうか。息は意識的にすることができる、というのは本当か? 意識的に記憶するとは、記憶の契機を増やしてやることができるだけで、記憶を意識することは記憶には逆効果なのでは。だとすると息も、息をしているつもりでも、意識的にしていることは息とはいえないのではないか。
知ることに違いはなくても、何をどう記憶するかは人によって違う。