8月6日8時15分黙祷。広島は77回目の原爆の日を迎え、平和祈念式典が行われました。今年も朝から原爆が投下された日のようにじりじりと暑く、青い空が広がっていました。亡き母は、東広島市安芸津の学校のグランドから、遠くにキノコ雲を見たそうです。原爆ドームのある平和公園は、散歩したりお花見に出かけたり、ジョギング、通勤の通り道やラジオ体操をしたりと広島市民の生活の場。そのつど感謝や祈りは忘れず、慰霊碑の前で手を合わせる多くの姿が日常です。毎日朝早くからお掃除に来られる方、献花台の掃除、ガイドボランティアさんと広島平和公園は、市民に守られながら一緒に生きているのですね。
昨日、慰霊碑に献花されたお花をいただきました。これからもずっと原爆のことを忘れず、今がある広島に感謝と平和を願いたいと思います。広島市内の高校生が、原爆の子の像のモデル「貞子さん」の紙芝居を英語訳し、平和公園やオンラインで世界中の人達に原爆、戦争の怖さを発信していました。
原爆の子の像。
2歳の時被爆し白血病になった貞子さん。「生きたい」と亡くなる12歳まで鶴を折り続けていたのですよね。亡くなられて3年後、原爆の子の像が作られました。折り続けた約1500羽の鶴、今は空で貞子さんと一緒に羽ばたいているのでしょうか。体調を崩し、少々弱気になっていた私に、今まで以上に「生きたい」という言葉が重く響いた夏。1日1日を大切に歩こうと思えた広島原爆の日でした。
そう言えば体調崩し入院されてて
退院されたとか言われてましたが
ある程度回復されたのかな?
広島平和公園は何度か行き、原爆の子の像もみましたが,あまり詳しいことは知りませんでしたが
実際にモデルの方がおられたのですね~
物心ついてからは随分昔の話と思っていましたが
77年前と言うことは自分が61歳なので生まれるたっ
た16年前の出来事だったのですね~
ご心配をおかけしましたね。ありがとうございます。随分体調も戻りました😊
年を重ねる度に、原爆への思いが強くなりました。テレビで特集があると、見ては胸が痛み…。
原爆の子の像のモデル貞子さんの話は、小学校の授業で聞かされました。その頃は、そんなことがあったんだあと思うくらいだったけど、年と共にいろいろと考えさせられるようになりました。
資料館もリニューアルされましたよ。
是非また平和公園へ来てください。原爆の子の像も違って見えますよ。
心配をしていました。父が亡くなった時、市から、
台帳に、記載してもいいですか、名前を、石に掘ってもいいですか、式典に参列されますかとか、はがきが
きました。魔女も死ぬるまでには、行ってみたいのですが、1回も、参列した事がありません。
戦争の話は、あまりしないほうでした。
原爆が落ちたその日には、平和公園で、口にだしたくないのですが、作業をしたようです。
今日は、長崎ですね。暑い1日になりそうです。
心配していただいてありがとうございます。お陰様で随分元気になりました😊
原爆は、広島に生まれるといつも心にありますよね。母方の祖父は、原爆投下の翌日救済の為、市内へ兵隊で入ったそうです。叔母は被爆者の救護をした、と最近生々しい話を聞かされました。亡き父は、学徒動員で大久野島で毒ガスを作ったそうです。
やはり話したくないのでしょう。叔母も90を前にして口を開きました。
絶対あってはならない原爆、戦争。世界平和はいつ来るのでしょうね。
腹筋が自然となくなるみたいです。いつも、腹は膨らんで、お尻もムズムズで、落ち着かない毎日でした。
薬ですが、モビコール配合内用剤LD6,9g
EAファーマ株式会社。2袋を1度に、朝だけ飲みます。粉です。水にとかします。りきむ事なく、柔らかいですが、出ます。楽になりました。かなりの量が
たまっていたのでしょうか。今日は、お腹がすっきりです。