こんにちは!
開かれたハートによる印象の感受によって魂を成長させている皆様。
昼の3時まで寝ていたダメ人間豊田です、苦笑。
昨日は仕事から帰って育児家事手伝いをし、Yくんと南くんと電話で会話しました。
Yくんは会って話すことになり、21時半から亀山市内のマクドへ。
最近の気づきについて話していましたが、またしても、僕が喋りすぎてしまった。
興奮するのは抑えないといけません。
どうしても自分が感動している気づきに関しては熱狂してしまいます。
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人間の本能、動作、性、感情、思考の各中枢と、高次感情、高次思考の働きが、現在自己意識の中に入っているときに、この環境を、印象を食べることで自己を成長させることができる。
この時に、意識的努力と意図的苦悩の働きが起こってくることで、高次の側にシフトするのである。
意識的努力とは集中と開放を行うことである。
すべての中枢の活動は分裂しているわけではないので、同時に3つの観察、集中が必要とされる。
動作と感情と思考への観察とは、気を付けていることだ。
見て、感じて、客体化させていることが、意識的に努力しているということになる。
また意図的苦悩とは、苦が、この感情中枢部にあるときに、この忍耐する、耐え忍ぶことによって、ショックを利用して、理性と魂の側が、真我の覚醒を促すこと、また、覚醒した真我が、魂の成長を助けることである。
普段の生活に例えると、頭(光)、心(空気)、身体(物質)の変換点を現在自己意識の中で、常に把握しているという事になる。
天からの光が、思考センターにイメージを届け、呼吸が、感情センターに情緒を引き起こし、物質的刺激が身体センターに行為を引き起こしている。
真我はこれらの働きから離れて在る。
この在るは『主人である』が、忘れ去られた主人である。
この主人である真我は、目を覚まして、光、呼吸、物質の光合成が、人間内部で行われているのを見る。
そして目覚めた魂は、この真我の働きによって成長していくのだ。
身体の動き、心の感情の広がり、頭のイメージの受信は機能である。
人間の住んでいる環境、魂の養分を受け取っているレストランのようなものだ。
この環境を変えてしまうことで、運命さえも変えてしまうことができるかもしれない。
私は見せられているのではなく、見るべきものを見ているという状態にある。
例え、各刺激が、私の機能を、ある一定の方向へ流そうとしても、私は真我を起点にして、それに逆らう。
つまり、自然法則に逆らうわけである。
メンタル体、つまりは思考センターの受信装置が、アストラル体、つまりは感情センターの受信装置に引っ張られるのではなく、真我の方を見ていて、その声を聴いて、そちらからの声を感情センターに逆に届けるのだ。
良心の声とは、真我の至福のことです。
この至福に繋がっていなければ、絶対に無理なのです。
この至福は、激流を渡る避難場所のようなものだ、船のようなものだ。
迷い、怒り、欲望が渦巻いている連想、感情センターの変性がすべてなのである。
これを見て、耐えて、外れて、真実を見る。
真実を見たら、このショックを起点として、そちらの側にシフトすることである。
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この時に、意識的努力と意図的苦悩の働きが起こってくることで、高次の側にシフトするのである。
意識的努力とは集中と開放を行うことである。
すべての中枢の活動は分裂しているわけではないので、同時に3つの観察、集中が必要とされる。
動作と感情と思考への観察とは、気を付けていることだ。
見て、感じて、客体化させていることが、意識的に努力しているということになる。
また意図的苦悩とは、苦が、この感情中枢部にあるときに、この忍耐する、耐え忍ぶことによって、ショックを利用して、理性と魂の側が、真我の覚醒を促すこと、また、覚醒した真我が、魂の成長を助けることである。
普段の生活に例えると、頭(光)、心(空気)、身体(物質)の変換点を現在自己意識の中で、常に把握しているという事になる。
天からの光が、思考センターにイメージを届け、呼吸が、感情センターに情緒を引き起こし、物質的刺激が身体センターに行為を引き起こしている。
真我はこれらの働きから離れて在る。
この在るは『主人である』が、忘れ去られた主人である。
この主人である真我は、目を覚まして、光、呼吸、物質の光合成が、人間内部で行われているのを見る。
そして目覚めた魂は、この真我の働きによって成長していくのだ。
身体の動き、心の感情の広がり、頭のイメージの受信は機能である。
人間の住んでいる環境、魂の養分を受け取っているレストランのようなものだ。
この環境を変えてしまうことで、運命さえも変えてしまうことができるかもしれない。
私は見せられているのではなく、見るべきものを見ているという状態にある。
例え、各刺激が、私の機能を、ある一定の方向へ流そうとしても、私は真我を起点にして、それに逆らう。
つまり、自然法則に逆らうわけである。
メンタル体、つまりは思考センターの受信装置が、アストラル体、つまりは感情センターの受信装置に引っ張られるのではなく、真我の方を見ていて、その声を聴いて、そちらからの声を感情センターに逆に届けるのだ。
良心の声とは、真我の至福のことです。
この至福に繋がっていなければ、絶対に無理なのです。
この至福は、激流を渡る避難場所のようなものだ、船のようなものだ。
迷い、怒り、欲望が渦巻いている連想、感情センターの変性がすべてなのである。
これを見て、耐えて、外れて、真実を見る。
真実を見たら、このショックを起点として、そちらの側にシフトすることである。
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