こんばんは!
人間家業を純粋に楽しんでいる素直で元気な皆様。
本日は珍しく仕事の4時間前に起きたので座禅をしていました豊田です。
1時間するつもりだったのだが結佳ちゃんに30分過ぎに妨害される、笑
今、妹たちが、遊びに来ているのです。
結佳ちゃん「なにしてんの?」
僕「座ってるの」
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結佳ちゃん「なんで座ってるの?」
僕「それがいいって言う人がいるから」
結佳ちゃん「早く、向こういこー」
とにかく座りたかったので待っててを繰り返していたら静かになりました、笑
中断されると一気に集中力がなくなるなあw
でも一瞬、浮かび上がる空間になった。
浮かび上がる夢のワールドは意識の変化だけなんだな、たぶん。
で、1時間やってみて思ったことは、左と右の体のバランスが悪すぎる!
左側の感覚がかなり薄い。
また集中力の持続力が短すぎる。
意識の注力は物理的な作用があると前々から思っていたが、間違いない。
意識のふれあいが、人間の出会いなのだろう。
家へ戻って、ご飯食べようとしたら妹が「結佳がお兄ちゃん地蔵さんになってたと言ってたよ」
じ、地蔵さん?w
なんか、おもしろいな(爆笑)
結局、何があるって空の状態と夢のワールドがあって、すべてがここにあるってことだね。
魂と肉体と感情体と思考体が夢のワールドに浮かび上がる。
記憶は魂に保存されており、ここから、ロードされて、延々と世界が回っていく。
のかもしれない。
肉体は誰でも知っている、この感覚のことですね。
眼、鼻、耳、舌、触、意識の6つの感覚のことを肉体と呼びます。
感情体は呼吸の流れから血液の流れに従って機能している、ほぼ体の形にそっている精妙なエネルギー体です。
中心は心臓の辺りにあって、ここに神経が集中している。
しかし、実際は物理的なものと心理的なものを繋げる役割、不可視のハートを含んでいる。
物質と非物質の間にあるわけです。
しかし、この物質、非物質というのは科学では物質として扱われないという意味での区分ですね。
呼吸をして胸に落ちて、また胸から呼吸が出ていく、この箇所に中心点があって、身体の全体に広がっている確実に感じることが可能な、精妙なるエネルギー体のことです。
思考体はイメージを形成する身体ですね。
これは身体とは全く形が違います。
頭部の後ろ側に、後頭部の後ろ辺りに、少し大きめの円を描いてあります。
この中心点は背骨であって、この背骨からエネルギーが上昇して後頭部の大きい円鏡ができています。
その大本は、もちろん魂のデータバンク、潜在意識のデータ形成です。
この円は目の前に映っている現実や自分、また脳内で働いている比較、想像等々を、この円内で展開させます。
宇宙の光を第三の眼を通して受け取っているのは、この円鏡が意識の光と繋がっている状態です。
そしてこれらの3つの体が人間の全てであるわけです。
世界がすべて自分であったというのは、この円光の反映がすべてここにあるということでありましょう。
しかし、この幻である世界は実は幻ではないのです!
以前に、何かの記事で、そのようなコメントをくださった方がいましたが、やっと分かりかけてきました。
悟りと迷いは別物ではないという道元さんの言葉がありますが、幻と実体は、即、その目の前の現実として一体化しているのであって、一方からの視点、体感だけでは全体を表さないのです。
このところ精神世界ブログで、よく不二一元論主義が批判されていますが、この不二一元論が非難される理由が、此の世は幻であるという認識ですね。
苫米地博士も著書の中で仮観と空観のバランス云々と書いている通り、この幻である、空であるという価値観が今、もっとも批判されやすい主張だと言えます。
では、この批判の根本的なところは、人間性の否定というところにあるのではないかと思います。
つまりすべてが幻なら、生に価値がないではないかと導かれるというのです!
これは、実際に空を体験していない人が言う批判なのです!!!!
幻があり、空であるからこそ、人間性の花火に美しさや価値が生まれているのです。
なぜなら空があるとき、それは満ち満ちた空だからです。
現実が幻になるというのは、この幻が、凄まじく新鮮に、いとおしく、愛に包まれた世界になるという事だからです
今、この目の前にある現実の中に『我はない』が体験があるわけです。
生きている限りにおいて、すべてが、体感されていくのだが、それでも、それは幻であって夢である。
夢のワールド、神のプレゼント、なのです!
人間の生を否定するどころか、この生を生き切ることが、この不二一元論の先にあると思うのです。
ですから、これを虚無主義ととらえる人の主張は、どうにも胡散臭いと思います。
認識される対象は我ではないと否定したら、残るのは、この今の、眠り、目覚め、夢見の世界だけでしょう。
各機能が映し出す、この幻は、魂の見る夢。
この夢のワールドの魂とは、神と同根であって、この神は常に顕現しているわけである。
目の前に!
しかして、それは幻なのである。
幻であるからこそ、よりリアルに、繊細に生きることができるのである。
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本日は珍しく仕事の4時間前に起きたので座禅をしていました豊田です。
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今、妹たちが、遊びに来ているのです。
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僕「それがいいって言う人がいるから」
結佳ちゃん「早く、向こういこー」
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でも一瞬、浮かび上がる空間になった。
浮かび上がる夢のワールドは意識の変化だけなんだな、たぶん。
で、1時間やってみて思ったことは、左と右の体のバランスが悪すぎる!
左側の感覚がかなり薄い。
また集中力の持続力が短すぎる。
意識の注力は物理的な作用があると前々から思っていたが、間違いない。
意識のふれあいが、人間の出会いなのだろう。
家へ戻って、ご飯食べようとしたら妹が「結佳がお兄ちゃん地蔵さんになってたと言ってたよ」
じ、地蔵さん?w
なんか、おもしろいな(爆笑)
結局、何があるって空の状態と夢のワールドがあって、すべてがここにあるってことだね。
魂と肉体と感情体と思考体が夢のワールドに浮かび上がる。
記憶は魂に保存されており、ここから、ロードされて、延々と世界が回っていく。
のかもしれない。
肉体は誰でも知っている、この感覚のことですね。
眼、鼻、耳、舌、触、意識の6つの感覚のことを肉体と呼びます。
感情体は呼吸の流れから血液の流れに従って機能している、ほぼ体の形にそっている精妙なエネルギー体です。
中心は心臓の辺りにあって、ここに神経が集中している。
しかし、実際は物理的なものと心理的なものを繋げる役割、不可視のハートを含んでいる。
物質と非物質の間にあるわけです。
しかし、この物質、非物質というのは科学では物質として扱われないという意味での区分ですね。
呼吸をして胸に落ちて、また胸から呼吸が出ていく、この箇所に中心点があって、身体の全体に広がっている確実に感じることが可能な、精妙なるエネルギー体のことです。
思考体はイメージを形成する身体ですね。
これは身体とは全く形が違います。
頭部の後ろ側に、後頭部の後ろ辺りに、少し大きめの円を描いてあります。
この中心点は背骨であって、この背骨からエネルギーが上昇して後頭部の大きい円鏡ができています。
その大本は、もちろん魂のデータバンク、潜在意識のデータ形成です。
この円は目の前に映っている現実や自分、また脳内で働いている比較、想像等々を、この円内で展開させます。
宇宙の光を第三の眼を通して受け取っているのは、この円鏡が意識の光と繋がっている状態です。
そしてこれらの3つの体が人間の全てであるわけです。
世界がすべて自分であったというのは、この円光の反映がすべてここにあるということでありましょう。
しかし、この幻である世界は実は幻ではないのです!
以前に、何かの記事で、そのようなコメントをくださった方がいましたが、やっと分かりかけてきました。
悟りと迷いは別物ではないという道元さんの言葉がありますが、幻と実体は、即、その目の前の現実として一体化しているのであって、一方からの視点、体感だけでは全体を表さないのです。
このところ精神世界ブログで、よく不二一元論主義が批判されていますが、この不二一元論が非難される理由が、此の世は幻であるという認識ですね。
苫米地博士も著書の中で仮観と空観のバランス云々と書いている通り、この幻である、空であるという価値観が今、もっとも批判されやすい主張だと言えます。
では、この批判の根本的なところは、人間性の否定というところにあるのではないかと思います。
つまりすべてが幻なら、生に価値がないではないかと導かれるというのです!
これは、実際に空を体験していない人が言う批判なのです!!!!
幻があり、空であるからこそ、人間性の花火に美しさや価値が生まれているのです。
なぜなら空があるとき、それは満ち満ちた空だからです。
現実が幻になるというのは、この幻が、凄まじく新鮮に、いとおしく、愛に包まれた世界になるという事だからです
今、この目の前にある現実の中に『我はない』が体験があるわけです。
生きている限りにおいて、すべてが、体感されていくのだが、それでも、それは幻であって夢である。
夢のワールド、神のプレゼント、なのです!
人間の生を否定するどころか、この生を生き切ることが、この不二一元論の先にあると思うのです。
ですから、これを虚無主義ととらえる人の主張は、どうにも胡散臭いと思います。
認識される対象は我ではないと否定したら、残るのは、この今の、眠り、目覚め、夢見の世界だけでしょう。
各機能が映し出す、この幻は、魂の見る夢。
この夢のワールドの魂とは、神と同根であって、この神は常に顕現しているわけである。
目の前に!
しかして、それは幻なのである。
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