こんばんは!
現象の奇跡の中で寛ぎ、楽しんでいる皆様。
本日はお休みですので寝ていました豊田です。
今は結佳ちゃんと汎花ちゃんが『妖怪ウオッチ』というアニメを見ている横でブログの更新を始めたところであります。
古典妖怪、古典妖怪言ってるw
ゲラゲラポー♪ ゲラゲラポー♪ と満面の笑みで踊る汎花ちゃんの姿は、凄まじく元気にさせますね。
これは、澄んだ空気を飲み込んだときに似ていますね。
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よく森の中でリラックス効果があると言いますが、この新鮮で自然のままの、生命の発露が、心の純粋性が、人の心を癒すのでしょう。
作為のなさです!
無作為の感応であるので、計算が入ってないのですね。
まあ小さな子供は、みんな、怒っても泣いても、笑っても、そこに作為がない。
究極の癒し人になるには、これを見習うしかないでしょうね。
幻の中で生きるとか、ただ今を生き切るとか、様々にテーマを言葉にすることは出来ますが、実際は、この言葉を持ち運ぶことではないのです。
心を込めて生きるというのは極限の表現でしょうが、、、
これを「心を込めて、心を込めて」と頭の中で繰り返して活動しても意味ないですよねw
実際に目の前にある現実が自分に躍り込んできて、ここに心が入り込んでいる、無我夢中になっている
忘我している。
このときに、ただ自己が、そこに含まれているというだけのことなのです。
忘我しているのに自己が残るという矛盾した言葉の意味はこうです。
実は『我』というものには実体がないのですね。
我には実体がなく、どこか自分が反応した部分に張り付いているわけです。
体であったあり、心であったり、頭であったり、恐怖心や欲望であったり、迷いであったり、怒りであったり、そういった諸々の行為が『我』である『我が』行為であるとしているのです。
しかし、この意識や感覚も『我』に含まれているのです。
ですから一度、ここを引き剥がしてしまわなければいけません。
これを自己同一化を解除すると言います。
体、心、頭の活動を見る事、写真を撮ることで、離れていくのです。
この離れていく過程を『対象化』すると言います。
こうすると今までは肉体←→現実であった認識が、我←→肉体=現実になります。
自分の肉体だけ現実から分離された状態でなく、肉体も現実の中のひとつながりの部分と認識することです。
同じように、心、頭も対象化します。
すると、自我は独立しますね、この独立した自我は『観照者』と呼ばれています。
また『超自我』とも名づけられていますが、見ているもの、ただ見ているもののことです。
この見ているものは、もちろん『意識』も対象化できるのですが、どんどん対象化していくと、なぜか『無』であることに繋がっていくのです。
この見る者が『無』であるからこそ様々なものが、対象化されるわけですね。
つまり無←→意識アンド感覚となります。
これが無明によって行がある、行によって識があるという縁起の法則です。
この『無明』『無』また『自我』『自己』『空』等々と呼ばれている状態を滅することが解脱です。
無は今や全体を存在させているのですが、この無には『我』が残っているのです。
我という存在がある。
私は在るの状態にあるわけですね。
私があるということは、分離しているわけです。
この状態で、意識、感覚の対象が、つまり『目の前の現実』が我を飲み込む!
自己喪失させることで、すべてが私になります。
すべてが私、もしくは、私はいない。
この二つの言葉は、我が、この目の前の現実になりきったときのことです。
単純に笑っている時は、こうなっています。
また、小さな子供がゲラゲラポー♪ ゲラゲラポー♪と歌っているときも、なっているのですw
これはまだ自我が確立していないからですね。
大人は自我が確立しているので、これを無くすことはできないので、超越、進化させるわけです。
自己喪失と言っても、この状態は、肉体も感情も思考も消滅していません。
今まであった何一つとして消滅もしていないし、変化もしていないわけです。
無くなったのは『我』だけで、しかも、その『我』はもともと実体のないものだったのです。
忘我している時に自己がそこに含まれているというのは、自己の肉体、感情体、思考体が、自然の中にあるということです。
この時に、これらとは別に存在していた、『我』という偽物が消滅しているのです。
人気ブログランキングへ←行為の中に我を落としてクリックしてください、笑
現象の奇跡の中で寛ぎ、楽しんでいる皆様。
本日はお休みですので寝ていました豊田です。
今は結佳ちゃんと汎花ちゃんが『妖怪ウオッチ』というアニメを見ている横でブログの更新を始めたところであります。
古典妖怪、古典妖怪言ってるw
ゲラゲラポー♪ ゲラゲラポー♪ と満面の笑みで踊る汎花ちゃんの姿は、凄まじく元気にさせますね。
これは、澄んだ空気を飲み込んだときに似ていますね。
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作為のなさです!
無作為の感応であるので、計算が入ってないのですね。
まあ小さな子供は、みんな、怒っても泣いても、笑っても、そこに作為がない。
究極の癒し人になるには、これを見習うしかないでしょうね。
幻の中で生きるとか、ただ今を生き切るとか、様々にテーマを言葉にすることは出来ますが、実際は、この言葉を持ち運ぶことではないのです。
心を込めて生きるというのは極限の表現でしょうが、、、
これを「心を込めて、心を込めて」と頭の中で繰り返して活動しても意味ないですよねw
実際に目の前にある現実が自分に躍り込んできて、ここに心が入り込んでいる、無我夢中になっている
忘我している。
このときに、ただ自己が、そこに含まれているというだけのことなのです。
忘我しているのに自己が残るという矛盾した言葉の意味はこうです。
実は『我』というものには実体がないのですね。
我には実体がなく、どこか自分が反応した部分に張り付いているわけです。
体であったあり、心であったり、頭であったり、恐怖心や欲望であったり、迷いであったり、怒りであったり、そういった諸々の行為が『我』である『我が』行為であるとしているのです。
しかし、この意識や感覚も『我』に含まれているのです。
ですから一度、ここを引き剥がしてしまわなければいけません。
これを自己同一化を解除すると言います。
体、心、頭の活動を見る事、写真を撮ることで、離れていくのです。
この離れていく過程を『対象化』すると言います。
こうすると今までは肉体←→現実であった認識が、我←→肉体=現実になります。
自分の肉体だけ現実から分離された状態でなく、肉体も現実の中のひとつながりの部分と認識することです。
同じように、心、頭も対象化します。
すると、自我は独立しますね、この独立した自我は『観照者』と呼ばれています。
また『超自我』とも名づけられていますが、見ているもの、ただ見ているもののことです。
この見ているものは、もちろん『意識』も対象化できるのですが、どんどん対象化していくと、なぜか『無』であることに繋がっていくのです。
この見る者が『無』であるからこそ様々なものが、対象化されるわけですね。
つまり無←→意識アンド感覚となります。
これが無明によって行がある、行によって識があるという縁起の法則です。
この『無明』『無』また『自我』『自己』『空』等々と呼ばれている状態を滅することが解脱です。
無は今や全体を存在させているのですが、この無には『我』が残っているのです。
我という存在がある。
私は在るの状態にあるわけですね。
私があるということは、分離しているわけです。
この状態で、意識、感覚の対象が、つまり『目の前の現実』が我を飲み込む!
自己喪失させることで、すべてが私になります。
すべてが私、もしくは、私はいない。
この二つの言葉は、我が、この目の前の現実になりきったときのことです。
単純に笑っている時は、こうなっています。
また、小さな子供がゲラゲラポー♪ ゲラゲラポー♪と歌っているときも、なっているのですw
これはまだ自我が確立していないからですね。
大人は自我が確立しているので、これを無くすことはできないので、超越、進化させるわけです。
自己喪失と言っても、この状態は、肉体も感情も思考も消滅していません。
今まであった何一つとして消滅もしていないし、変化もしていないわけです。
無くなったのは『我』だけで、しかも、その『我』はもともと実体のないものだったのです。
忘我している時に自己がそこに含まれているというのは、自己の肉体、感情体、思考体が、自然の中にあるということです。
この時に、これらとは別に存在していた、『我』という偽物が消滅しているのです。
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