豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

リーラ

2015-11-07 10:55:10 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

まるでスローモーションのように風景の中に溶け込んでいる無為自然なる快活な皆様。

ただいま、母親の家のPCからブログの更新を始めました豊田です。

西隣の工場建築現場でショベルカーが作業をしている音がしている。

母親が何か言葉にならない言葉を呟きながら、ガチャガチャと何かを動かしている。

時計の音は聞こえてこない。

少しだけ肌寒い感覚がしている。



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洗濯機が終了の音を軽やかに、かつ、無機質に流している。

少し気怠く、重い感情が、身体を取り巻いているのが、感じられる。


さて、今朝は、8時ごろに起床しました。

何か面白い夢を見ていたので、千鶴さんと、話す。

彼女も、夢の中での出来事を教えてくれましたが、なんだったのか、今は、忘れてしまった。

悠聖は、眠っていたが、話している途中に起きてくる。

僕と千鶴さんをバンバン叩いたり、足で顔を蹴ったりしていたが、独りで、隣の部屋へ歩いて行った。

千鶴さんが爆笑して「起こしても起きへんで一人でいったで」と言っている。

ああ、一緒に、行きたかったのかと、初めて、僕は気が付いた。

母親と言うのは、他の人が気が付かないような、子どもの思いを感じ取ることができるが、これがテレパシーだろう。

直観によって何かを感じて、それを、言葉の次元に具象化する。

この具象化する方の能力は、ある程度の学びを必要とするのだろうが、感情的に感じる能力は誰にでもあるだろう。


で、起きてきて洗面をします。

千鶴さんが「アンパンマンの歌って寂しいよねと、友達が言っていたが、ほんとうだね」と言う。

「なにが?」

千鶴さん「だって、愛と勇気だけが友達なんでしょ!」

は!

そうか、そうだよなあ。

これにはワタクシ、ダメ人間だめまは心を揺さぶられました。

たまにハッとするようなことを嫁様は抜かすのだww

そりゃあそうだ、僕にも友達は少ないけれどもいるが、アンパンマンは愛と勇気だけが友達で、つまり、人間の友達はひとりもいないのかもしれないし、メロンパンナちゃんとか、バイキンマンとかも友達ではないかもしれないではないか。


で、洗面を終えると座禅40分です。

中途半端な揺れ動きの中で、淡々と、座っていると時間がやってきた。

この自己の妄念のことをグルジェフさんは白昼夢と言ったのだが、この白昼夢こそが自我の活動の場所である。

そしてリアル、事実の世界は、意識と五感の世界である。

そして釈迦は、その意識と五感の世界を空であると、つまり、からっぽだと主張したのだ。

頭の中でいろいろと具象化され、認識される前の、在り様は、空であり、未知であり、混沌であり、無である。

しかし、その無から、この阿弥陀の生命の世界が、説明不能に、今、在るのである。


座禅を終えるとコーヒーを入れて読書ですね。

煙草を吸いながら、のんびりと読んでいると、千鶴さんが「あれ?」と庭の机を指さす。

なんか葉っぱがおいてあるから、よくわからんけど「あれじゃない」と答えますwwww

なんか母親が食べ物をくれたようだ。

本には目当てなしで生きていると書いてあった。

その目当てなしというのは、つまり、リーラのことだ、遊戯三昧のことなのだ!

人生は、どこにも向かっていないが、別に、人生がないわけではない。

ここで、このように、様々な反応が織りなす体験が起こっており、その向こうには、それを可能ならしめる存在基盤がある。

しかし、このような、ありとあらゆる存在と行為が、本来は無であると釈迦は言ったのだ。

なぜ、そうなるのかというと、つまり空とか真我という、自己の根源体を仮定して、そこに到達するという宗教が今も昔も存在し続けているからである。

これは簡単な話、空と言うからっぽのスペースが、自己の本体だと、勝手に頭の中でイメージするのである。

また、自己喪失の体験のあとになって、認識が働きだした時に、勘違いして、あれは空であったとか抜かすのだ。

だから、そのような妄念の世界で可笑しくなっても救いがなかったので、苦行を止めて、ただ座って、自然に、天地、つまり、大空と大地の中に、ただ何もせずに生きていることを、無我であることを主張したのである。

すべては縁によってある。

それが悟りの内容である。

縁起というのが、仏教の、釈迦の、根幹にあるのであって、これは「これあるによって、これあり」という言葉で簡潔に言い表されている。

しかし、これを、原因と結果という単純な論理にしてしまうのは、違う。

因縁生起というように、原因があっても、縁がなければ、何も起きないという意味での縁は、タイミングとかの意味である。

それで、そのタイミングとか、まあ、対象と自己が同一であるとかいう時の不二、縁起を表すには、相依性という言葉が使われている。

もっと、わかりやすい、言葉で、大空と大地の、その自然の中に手放しするとか、言われるのである。

僕たちはひとりではないのだ。

生命という、最終被造物の一部分なのである。


さて、読書を終えると、台所へと戻ります。

千鶴さんが葉っぱ(何の野菜か名前が分からないw)を洗っているので、冷蔵庫から肉まんを出してチンする。

更に、肉まんを食べながら、ピザもチン。

悠聖がレンジを触るのが大好きなので、一緒にボタンを押してあげた。

千鶴さんと3人で短時間の食事を済ませると、食器を少しだけ洗い、米を洗って炊飯器の予約をする。

麦茶をお湯を沸かして作る。

悠聖は、何をするときでも、興味深そうにして、手出ししようとする。

できる限り、できる事はやらせてあげたいけど、自分の気分に左右されてしまうなww

僕も昔は色々やろうとして、両親に危ないから駄目だと制されたときの記憶が残っているが、あれは自己否定されているようで、信じられてないような気になるので、手伝いながらとか、守りながら、やらせてあげるのが、本当はいいんじゃないかと思われる。


それから、また煙草を吸ったりしながら、ブログ更新へとやってきたのでした。

あ、そうだ、今日は千鶴さんの友達が、家へ遊びに来てくれるかもしれません。

とりあえずは、今から亀山神社へ参拝して、近くの公園で悠聖を遊ばせてあげたいなと思います。


それでは皆様、本日も、善き休日を、お楽しみくださいませ!

バイバイ