豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

出来事への関心と内部感情への没入

2015-11-10 16:34:04 | 日記
こんにちは。

オープンな心の源泉がある箇所と繋がっている素朴かつ純粋なる輝かしい皆様。

ただいま悠聖ボウズが遊び回る中、玄関脇にてブログ更新をはじめました豊田です。

母親がパソコン教室へ出かけたので携帯からの更新であります。

太陽が薄らいだ夕陽を注いでいます。

千鶴さんと悠聖が石を踏みながら歩く音がジャリジャリとしている。

危ないと言って抱えていく。

何か注意をしているが、悠聖はなに食わぬ顔だ。

工場建築工事現場からガンガンガンガン、またカンカンカンカンと物が当たる音がしている。

小鳥は何も知らぬ様子で自らの存在を歌い上げる。

洗濯ばさみを入れておく篭や目の前にあるアロエが風に揺れている。

さて今日は13時10分ごろに目覚めました。

千鶴さんと会話しながら洗面を済ませます。

洗面を済ませると座禅40分ですね。

最初の姿勢を整えることが大切だと感じる。

慌てないで下腹と腰の角度をきちんと真っ直ぐにして、首から肩の力が下へ抜けるように準備する。

体の姿勢が甘いと余計な力が抜けないので注意が散漫になり、感情の揺らぎに翻弄される。

主に外部の刺激に注がれる興味関心と胸の内にある恐れの気持ちから展開する白昼夢によって、現在の有り様は失われている。

頭と心が、この麻痺から離れていくとクリアーな透明な、晴れやかな感性が、これらの知覚に届き、自己の動きが把握される。

スーッとこの生命体に戻ることでハートの奥にある繊細な感受性が蘇っていく。

さて座禅を終えると読書ですね。

コーヒーを入れにいくと千鶴さんが料理をしてくれている。

シンクもピカピカで洗い物も済ませてくれたようだ。

清々しい気持ち。

頑張ったやろ? と自慢気だった、笑

本には無の自覚的限定とあったが難しくて、よく分からない。

如去如来とも言うらしく、これは動き行く捉えどころのない、このあるがままを自覚するというようなことでしょうか。

分かりやすい話で、坊主の頭を剃っても、また生えてくるから、また剃ると書いてあった。

動きづめに動いている、この生命体を掴まえようがないので、何度も、そこに存在していくことなのだ。

頭で理解するのではなく、手放しをする、また、すると、ずっと行ずる中に悟りも現れている。

奇跡を求めては、様々な道の紹介です。

肉体苦行、神仏信仰、精神鍛練などなどあるが、これらは人間の全側面ではなく、それぞれ、身体、心、意志にだけ働きかけるので、バランスにかけ、調和が失われる。

全面的な理解には、これらの各知覚に対して、同時に働きかけることが有効だが、これを成す主体が、認識されるには、自己から離れなくてはならない。

自己の一挙手一投足に気をつけて注意深くすることなのだが、これは、文章だけで伝えられない部分がたくさんある。

さて千鶴さんが、弁当詰めるのを手伝うように怒っているので、今日は、この辺りで失礼しまーす。

本日も純粋無垢なる、あるがままに新鮮な、この生命の果実を、お楽しみくださいませー!

んでは!