前回、あいつらとの戦い方について、書いた。
安全に、戦うには、
おばさんだったら、
自分・患者・職場の責任の見極めや、同意を取ること、
インフォームドコンセントに近いことを、できるかぎりしなはれと、
説教しちゃうだろうね。
安全な戦い方ってもんがあるんだよと。
ずいぶんカンタンに言っちゃったけど、
この部分を丁寧にやることが肝要だ。
ここは奥が深い。
これがめちゃくちゃだとトラブルになり、丁寧にやるといい結果になる。
家庭編:
例えば自分の夫が「あいつら」を幇助するように仕事をしていて、
このままいくと、大変やろな、責任を取らされる日が来るだろうな?どうしよう?と妻が思っているとする。
まず、ここでのテーマは
「あいつら」幇助的な仕事をするかどうか?
これは夫が決めて、夫がその結果まで責任を取ることだ。
だから夫に決める自由がある。
しかし、夫婦ならば、その結果、崩壊した場合、
配偶者にも当然影響があるわけだ。
まー、はっきり言っちゃうと、困るわけだw
だから、相手が今後、どういう方針でやろうとしてるのか、聞く権利があると思うんだ。
それによっては、パートナーも心の準備、いろいろな準備が必要だったりするわけだ。
パートナーとしてサポートしているのなら、今後どういうふうに支えていくかも考える必要があるかもしれない。
そして、話してみて、案の定このまま行くとヤバいと思った場合、
相手の決定権を認めたうえで、自分の意見として言う。
「私だったら~」
「門外漢の想像に過ぎないけれど」
「私はこうなのかなぁと思ったけど、実際のところはどう?」
とあくまで自分の考えにすぎないけれどという感じで話してみる。
きわどいところかもしれないけど、
相手の決定権や自由の領域を認めたうえで、そこに入りすぎないように、自分の気持ちや考えを言う。
テーマはなにか?
誰が決めて誰が責任をとることなのか?
自分に影響があるのか?ないのか?
これをよく認識せずに、相手が責任をとるべきテーマに一方的に指図するとトラブルになる。
だから「これは夫の決めることだ」と念頭に置いたうえで、話を切り出すことが大事だ。
そのうえで、
私も聞いていいんだと、自分のことも認めて大事にしていると、
お互いを大事にしつつ、堂々と、平和的に話を切り出すことができる。
こんなふうにフェアで対等に、平和に、愛をもって話ができると、
お互いに安心感のなかで、本音を話すことができるだろう。
それによって、相手の認識がどの程度かもわかるだろう。
どの程度、自覚して、仕事に取り組んでいるのか。
まったくわかってないのか。確信犯的にやっているのか、なにか考えがあるのか。
完全に騙されてるのか。やらされているのか。おどされているのか。
洗脳が深いのか。なにか恐れていることがあるのか。
などなど、気が付くこともあるだろう。
だから平和に安心して話せることは、危機管理にもつながる。
今まで全然気が付かなかった相手の気持ちもわかるかもしれない。
それによって、相手に何を、どこまで言ってあげるのが適切かも、
話をしていくうちに、わかるだろう。
相手おかまいなしに、「こうするべきだ」と一方的に話しちゃうと、
相手は大事なことを話してくれないだろう。そして争いになる。
相手に押し付けない。
相手の生き方、やり方に提案(口出し?)してあげたいときも
「私だったらこうするかな」「当事者でないから想像にすぎないんだけどね」
「あなたが決めることだけど」
という話し方だと角が立たない。あくまで私はね、と。
決めるのはあなただよと、相手に入り込みすぎず、相手の自由を認めている話し方だ。
三浦先生のお話のしかたもやはり参考になるなぁと、思いました。
「私自身は~と考えております」「私自身は~危惧しています」
という話し方をされている。
こんなふうに「わたし」を主にして自分の思いを話している限り、
受け入れたくない相手に押し付けなくて済むから安全なんだ。
そして、私の気持ちを感じながら話していると、相手のことを大事にしているように、相手からは見えるの。
まず、自分自身が責任が見えていない、めちゃくちゃな話合いしかできない状態で、
おまえ職場でそれをちゃんとやれ、とは言えないわけだw
家族といえども。
今は、非常にきわどい状況だ。
何が起きているか、気づいている人にしてみれば、多くの人の命がかかっていると切迫した気持ちだ。
テレビの報道どおりに世の中を捉えている人にしてみれば、
悲観主義の陰謀論者がうるさく命令してきてやだなぁと感じるだろう。
だからこそ、責任を見極めを丁寧にして、整理してから、相手に働きかけるということが必要なんだ。
そのうえで、期待したような結果にならなくても、いったん引く。
ごり押ししてもダメなんだ。
よけい拒否したくなるだけなんだ。
おばさんは、ダメなとき、撤収するのがめちゃくちゃ早いんだ。
もう自分か相手のどちらかがイライラや不快を少しでも感じたら、
ソッコーでその場から去る。
こうなるともう話合えないんだ。
戦うことにうつっていってしまって、無益な言葉の応酬になっていく。
問題の解決より勝つことが目的になっていく。
無駄だし、不快になる一方だから、いったんやめたほうがいいの。
物別れに終わったら、後日またゆっくり心が落ち着いているときに話をしてもいい。
一発で決めようとしないのが、コツだ。
OK,また今度ねと、やめて、離れる。
2回目は状況が変わって、もっと具体的な話になるかもわからない。
時間をかけて、何度でも丁寧に、自分の感情を中心に感じながら、
きつさを感じたらやめたりしながら、
自分が楽な言葉で話合うことが、愛だ。
相手の決意が固いなら、それはもうムリなんだ。
崩壊するだろうと思える選択をしたがっていても。
そこまで経験したいという場合もあるんだ。
これまでのその人の築いてきたパターンというのがあって、こんなきわどい状況になってから変えるのは相当な恐怖がともなったり、難しい場合もたくさんある。
どうしてもムリな人も多いだろう。
また逆に、きわどい状況をつくって、
新しいパターンに取り組まざるをえない状況を、本人が作っているということもある。無意識に。
内心では、「もうやめなければならない」、頭では、「でもやめられない」と思っているならば。
頭と心の不一致が大きい人ほど、マイナスの状況をつくって、やめざるを得ない状況をつくり出すんだ。
自分がどっちに行きたいのか、本人ですらわかってないかもしれないんだ。
こういうのも、自分の感情を感じながら、相手の選択を認めながら、丁寧に話しているうちに、見えてきたりわかることがあるかもしれない。
相手が状況をたて直すことが難しい場合でも、
じゃあそれを踏まえて、自分はどうするか?という方向に視点をシフトしてみる。
すると、行くべき方向性が見えてくる。
ムリなのに、相手にやめさせようとやりあうと、共倒れになってしまう。
家庭内も修羅場となってしまうと必要な話が、なおさらできなくなっていく。
こんなふうに、家族であっても、それぞれなんだ。本当は。
クリアすべき課題は本当に人それぞれだ。
さっさとクリアしたい場合もあれば、じっくり時間をかけたい場合もある。
来世に持ち越したい人もいる。
本当はそれを認めることが愛なんだ。これが本当の自立なんだ。
べったり依存して小さな不満やケンカを積み重ねて、我慢することではなくて。
今までくっついて、依存関係、支配関係であったなら、
ちょっと責任を見極めて話をしていくだけで、
適度な風通しのいい距離感の対等な関係にシフトしはじめるかもしれない。
支配関係から本当の愛に、なるかもしれない。
今まで、支配関係であったならば、なおさら、
責任を見極めて話をすることを少しずつやっていかないと、
ある日、一気に崩壊してしまったとき、大変だ。
こうなったとき、いきなり自立できるか?
心がついていかず、ダメージが大きいだろう。
これからも協力しあっていけるか?いきたいか?
いずれ、問題が起きて、離れることになるのか?
あるいは自分はそろそろ自立していきたい気持ちなのか?とか。
共に暮らしている状態で、自立した愛の関係にいくのか?
離れた方がいいのか?
自分自身の気持ちや自由も大切にして考えてみる。
考えるというか、自分の本当の感情を感じてあげることだ。
それが一番信頼できる情報元であり、ナビなんだ。
あー、わたし、本当はこうしたかったのか、と感じてみて初めてわかる。
自分が決めて、自分が責任をとることも、相手と同様に、自由なんだ!
すこし離れている、それぞれが自分の意思で立っている状態が、愛の関係なんだ。
これだと、当たり前に、お互いに自由だと思っている。
くっついている関係になれている人は、少しさびしく冷たく感じるかもしれない。
でも本当は適切な距離まで少し離れている状態のほうが、心が通うことにだんだん気づくだろう。
自分がいやなことをされると、当然ながら頭にくる。
それはちゃんと言う。
「こうしてほしい」と。「同意をとってくれ」と。
相手の了解をとらないで、ずかずか割り込んだり、
話をするような関係は、支配関係だ。
「ちょっといい?」と言わない、言えない人、いるな。
そういう人には
「今これやってるから後にして」と言えばいい。
ちょっとやだなと感じたときに、我慢しないで、軽く言えるか。
こんなのも日々練習することで、犠牲者意識から抜けることができるんだ。
どういう言い方なら、楽に言えるか?シミュレーションしてみる。
(おばさんは、同意を取れない人に対しては、最近けっこうバシっと言うの。受け身の犠牲者意識の人は、家族など遠慮のない間柄では支配的だ。どこまでも自分勝手にやられると困るんでね。だからなんでも自分から言う。だんだん快感になってきちゃったw)
こんなふうに
相手に言えるようになることで、
自分を守ったり、自分を愛することができるようになっていくんだ。
それができないと、人を愛せないんだ。
だから黙って我慢して耐えることは美徳ではないんだ。
これができないと、いつまでも犠牲者、悲劇のヒロインだ。
かわいそうな自分。
そうやってかわいそうな自分を見せて、相手に罪悪感を抱かせて、支配するってことを無意識にやっていたりする。
こんなことも「あ、やってる」と自覚しないと、いつまでも卒業できないんだ。
自分で自分を守って、救ってあげたらいいんだ。
相手に言う、働きかけることを学んで。
そしたらもう、自分の意思でやっちゃっていいんだよ。
誰かの自由や意思を妨害していないなら。
家庭で、そういったお互いの自由と選択を尊重する関係ができている方は、
職場でも、顧客や患者さんに対しても、
(再度引用)
責任の見極めや、同意を取ること、
インフォームドコンセントに近いことを、できるかぎりしなはれと
これを当たり前にやっているはずなんだ。
だからファシズムに使われたりなんて、しないはずなんだ。
人間の言動パターンは、けっこうどこでもいっしょだ。ワンパターンだ。
ということは、
自分自身が家族との関わり方を変えると、家族も変わらざるを得ない。
すると、家族が職場でも新たなパターンをやりはじめることになるんだ。
こうして、お客さんや患者さんも選択の自由を尊重するようになり、
インフォームドコンセントや同意を丁寧にとるのも、リスクを説明するのも、当たり前って感じになり、みなさんの幸せにもつながるの。
こうして社会貢献することになるの。
自分を大事にする、相手の選択も尊重する、そうやって相手に働きかけるってやるだけで。
これ、ほんとうだよ!
職場編:
これも三浦先生のやり方が参考になると思いました。
今日発表する内容は公式の学会で発表したもの。
その際に病院側のほうから病院の見解ではないというスタンスで発表するように指示がございました。本日は医療者以外の方もご覧になるということで所属名をお出ししないということにさせていただきました。
テーマは
ワクチンのデータを発表したい
ということだ。
誰が決めて誰が責任をとることなのか?
この場合、職場に、影響があるのか?ないのか?
先生がご自分の見解を、世間に発表して、その結果も先生が責任をとる。
でも、職場の見解とされるのは困るなーと職場が思っているかもしれない。
それも、
相手と話合わないと、職場の方針や考えの本当のところはなにもわからない。
だから、相手と話合うことが必要なんだけど、このときの意識が大事だ。
「自分が自由に発表するのはOKだ。
でも職場を困らせたいわけではないんだ」
という、お互いの意思を叶えたいというフェアで対等なスタンスで、話せるか?
これも従わなければならないという意識が強い方は、
「自分が自由に発表するのはOKだ。」と自分自身が思ってなかったりする。
みずから「抑圧されているんだ」と卑屈になってしまったり、
そうかと思うと「おまえらまちがってる!」と職場の批判に走ったり。
(職場を改善したい場合はまた別だ。ここでは「ワクチンのデータを発表したい」というテーマを叶える目的で考える)
ふだんから自分をOKする、対等なんだという意識が育ってないと、
戦いモードで相手に働きかけてしまいがちだ。
これだと話合いもうまくいかないだろう。トラブルになっちゃって。
あるいは卑屈モードだと、本当に抑圧される一方という状態になりかねないんだ。
ここでも相手と無意識に綱引きしているんだ。
自分が卑屈で、自分の意思をOKできてなくて言えないと、相手はどんどん支配的にくるもんなんだ。
そうではなく、
「自分が自由に発表するのはOKだ。
でも職場を困らせたいわけではないんだ」
自分の自由を認める。相手の自由を認める。
それが当たり前って感覚ね。
このモードで、正直な気持ちを話すと相手に心が通じるんだ。
すると、
「職場の見解としないで、病院名を言わなければ、まあいいよ」、などと、
妥協点を見いだせたりする。
いいか/だめか、
ゼロか/100か、ではないんだ。
ここまではいいよ、とか、条件付きでならいいよ、とか
じつは、いろいろと、方法はあるはずだ。
こういう柔軟なやり方やアイディアなども、
従うか/批判するか、っていう戦う意識や、犠牲者的意識だと、なかなか出てこないのね。
平和だと、お互いに安心してるから、頭も心もやわらかーくなって、自由な発想が生まれてくるんだわ。
職場であれば、業務の責任ってことに焦点を当てながらも、
自分の責任の範囲内は自由にしてOKって意識で、
双方が納得できる妥協点をみつけていくってことだ。
ま、大前提として、
人とは違う、自分の思うことや感覚を、自分が心からOKできていないと。
人に認められないと、こわくて何もできない、となっていく。
認められなくても、叩かれてもOK。
他人がどうであれ、
どんな自分もOKしてあげるって感覚がないと、こういう発表をしようとも思わないのね。
それ以前に、なにが起きているかも、感じられないのね。
どんな自分もいいんだって心から思っているか。
スタートは、つねにここなのね。
自分を認めることなの。
じっさいどんな状態も意味があって、そうなってるの。
そこを見てあげる、認めてあげるってことなんだ。
いいとかダメとかは、本当はないの。
頭でそう思ってるだけで、すべては単なる状態なの。
頭で判定するのやめて、
「そうか、そうか、今そういう状態なんだ」っていつも言ってあげたらいいんだ。自分に。
これができてはじめて、他人のことも認めたり、愛したり、やっとできるんだ。
あ、他人もまた意味があって、そうなってるんだって、わかるんだ。