文字起こし。赤、おばさん追記。青、おばさんつぶやき。
19世紀のヨーロッパでは、まだ財政、税制、通貨、債権の健全なシステムが確立しておらずフランス革命以降も戦争が絶えなかったため、ロスチャイルド家は多くの国の債権を保有し続け外交や内政までも掌握することができました。
19世紀なかばまでに、英、仏、独、豪などの主要なヨーロッパの工業国の通貨発行権を実質的にコントロールしていったロスチャイルド家はそれらの支配権だけでは満足せず、新大陸である米国に目を向け始めます。彼らはまず、シティバンクとモルガン銀行を所有しているモルガン家を支援し、アメリカの支配権を握ろうと画策しました。
アメリカ合衆国の四大財閥の一つ。基礎を築いたのはコネティカット州ハートフォードの織物業で成功したジュニアス・スペンサー・モルガン(1813~90)。ジュニアスはイギリスの銀行家ジョージ・ピーボディと結んで J.S.モルガン商会を設立,
南北戦争では北部のために,普仏戦争ではフランスのために資金を調達して巨利を得た。
1871年息子のジョン・ピアポント・モルガンがアンソニー・ジョセフ・ドレクセルと共同で金融会社ドレクセル・モルガン商会を設立(1895 J.P.モルガン商会と改称)して政府金融に進出。
ジューニアス・スペンサー・モルガン(英: Junius Spencer Morgan、1813年4月14日 - 1890年4月8日)は、アメリカ合衆国の銀行家、財政家。ウェストスプリングフィールド(現在のマサチューセッツ州ホールヨーク)生まれ。主としてロンドンで事業を展開した。モルガン家の系譜[編集]モルガン家のルーツはイギリスのウェールズである。モルガン家がアメリカに移民したのは1626年で、現在のマサチューセッツ州スプリングフィールドに入植した。農業は成功し、地主として徐々に資産を蓄えていった。
ジョン・ピアポント・モルガン(John Pierpont Morgan、1837年4月17日 - 1913年3月31日)は、アメリカの5大財閥の1つであるモルガン財閥の創始者である。
ドルの実権を握る「FRB」が得ている膨大な利益とは? | 富裕層向け資産防衛メディア | 幻冬舎ゴールドオンライン より引用。赤おばさん追記。青、おばさん補足。JPモルガンの父親は、ジュニアス・モルガンですが、ネイサン・ロスチャイルドと親しくなったジョージ・ピーボディに子どもがいなかったので、彼の後継者となったのがジュニアス・モルガン( J.S.モルガン)で、モルガン商会がロスチャイルド商会の代理人になります。
ロックフェラー家、デュポン家、メロン家はこれに抵抗しようとしましたが、ロスチャイルド家の財力に抗うことができず最終的には妥協せざるを得なくなり間接的にロスチャイルド家の支配下に置かれることになりました。
しかし米国への巨大な投資により、ヨーロッパに対するロスチャイルド家の支配はわずかに緩められました。
「鉄血宰相」の異名を持つプロイセンのオットー・フォン・ビスマルク首相は普仏戦争で得られた巨額の賠償金を利用してドイツ銀行を設立し、ロスチャイルド家の支配から抜け出そうとしました。
普仏戦争は、1870年にあったドイツ(プロイセン)とフランスの戦争だな。ドイツが勝って、フランスが負けた。
賠償金はフランスに代わってロスチャイルドが支払った。
(中略)この賠償金を肩代わりしたのはフランスのロスチャイルドさんだって。
一方、モルガン家を含む米国の4大家族も、米国でのロスチャイルド家の影響力を抑えようとしていました。しかし残念ながら第一次世界大戦の発生により欧米勢力は両方とも大幅に弱体化し、ロスチャイルド家は再び大きな勝利を収めました。
続き2「世界は八百長!世界の戦争シナリオ集」~きっかけは、オーストリア皇太子殺害のサラエボ事件。これはロスチャイルドの発案でFRB(連邦準備銀行)仕組み乗っ取りの為、ロックフェラー財閥が関与か?アメリカ参戦のきっかけは、ルシタニア号の悲劇、多数のアメリカ国民を乗せたルシタニア号は
— inoue kanemitu (@kinman01) August 14, 2014
【無制限潜水艦作戦】第一次世界大戦中にドイツが行った海上封鎖作戦。指定された航路以外を通る船は誰彼構わず無警告で魚雷をぶちこむというもの。この作戦で客船ルシタニア号が撃沈されてしまいアメリカに参戦の口実を与えることとなった。pic.twitter.com/1MKSAElaMa
— 世界史のあれこれbot (@La_marseilles) February 19, 2021
ただ国内にヨーロッパの戦争でアメリカの青年の血を流すべきでないという声も強く、ウィルソン大統領も戦争には踏み切れずにいた。ところが、1915年5月のルシタニア号事件を機にドイツの潜水艦を使った無差別攻撃に非難が強まった。その後も次第に参戦の声が強まり、1917年2月にドイツが無制限潜水艦作戦を宣言したのをうけて、ウィルソン大統領は、1917年4月に議会の決議を得てアメリカ合衆国の参戦に踏み切った。これ以降、アメリカ軍がヨーロッパ戦線に派遣されたことによって戦局は決定的に連合軍有利に転換した。
1917年、4月のアメリカの参戦と、11月のロシア革命(ソヴィエト政権の成立)によって転機を迎え、1918年10月にドイツで革命が起こり皇帝が退位、11月11日に停戦となった。
またウィルソン大統領は、1917年11月、ロシア十月革命を成功させたレーニンが「平和についての布告」を発表すると、それに対抗して戦争目的の明確化と戦後処理の原則を示す必要に迫られ、翌1918年1月8日に十四カ条を発表した。
第一次世界大戦の末期の1918年春から、ヨーロッパの戦線で「スペイン風邪」と言われたインフルエンザが大流行し、戦争の終結が早まったとされる。この大流行は日本も含めて全世界に及んで、約15万の死者を出した。最初に症状が出たのは1918年3月、アメリカ・カンザス州の陸軍キャンプで、4月中に全米に広がっていた。アメリカは前年の4月に参戦を決め兵士をヨーロッパ戦線に送っていたが、新たにヨーロッパ戦線に送った部隊の中に感染者が含まれていたためフランスに持ち込まれ、5月にポルトガル・スペイン、6月にドイツ・イギリス・スカンジナビア諸国に流行が広がった。
ドイツ軍は当時、100万という大軍でパリに迫っていたが、7月にはその進軍がストップ、病気の蔓延と補給路が断たれたことで兵士の体力、気力が急激に衰え、そこに連合軍が新たな兵士を投入して反攻に出たため、11月に休戦条約が締結されて戦争は終わった。アメリカ軍の参戦が、はからずも「スペイン風邪」の参戦というかたちで戦局に大きな影響を与えたことになる。
アメリカがロックフエラーに乗っ取られた最初の傀儡の大統領はマッキンレーだというロックフェラーファイルの記述。とくにジキル島の会談のころのウイルソンあたりから大統領のロックフエラー傀儡化が固定化したとみられる。
— 加茂忍 (@daharsou) April 9, 2016
ところで、このFRB設立で話し合った場所が、JPモルガンが所有していたジキル島というところですが、これは「ジキル島クラブ」という銀行家たちのメンバーで運営されていました。
このメンバーの6人で、当時世界の富の6分の1を所有していたといわれています。2割弱ですね。
ジキル島の陰謀を発見したのは白人の研究者である【だれも知らなかった陰謀】https://t.co/9ZtniDXLqR
— 田代照夫 (@tashiroteruo) February 22, 2017
かれら(国債金融資本家=悪魔教英国)はジキル島に狩猟に行くと言って1907年から1910年にかけて密談を繰り返した その密談(連邦準備法の草案作成)が1913
ウィルソンの政権時の1913年に成立した連邦準備法によって、連邦準備銀行が誕生しましたが、これは事前に銀行家たちによって秘密裏に計画されました。
— 🍁楓の森 (@kaedenomoriM) July 18, 2020
1910年のこの会合に参加したのがアルドリッチ、JPモルガン、ロックフェラー、クーン・ロブ商会です。
連邦準備銀行は”民間”の銀行です。 pic.twitter.com/ZLsttYQEjt
もともとロスチャイルド王国であった日本から、株価大暴落→金解禁→ドル買いなどの権謀術数を駆使して、富を収奪し、最終的にロックフェラーが覇権をにぎった。
日本のしもべたちをチェスの駒のように使って。
あっちのご主人とこっちのご主人、右往左往しながら命じられるままに売国政策を実施し、日本は「あいつら」に富を収奪されていった。
日本国民はその犠牲になった。
ちなみに、浜口雄幸も井上準之助も暴漢に襲われて命を落としている。
第二次世界大戦後、欧州では金融の自主性が求められ、新たな財政体制と金融秩序が確立し、国債も政府が発行するようになり、欧米の銀行は株式の上場と発行を通じて資金を調達するようになりましたが、ロスチャイルド家は自己資金での開発にこだわったことで世界の変化に追いつくことができなくなりました。その結果、200年も揺るがなかった「第6帝国」は衰退し始めました。しかしロスチャイルド家は依然として、世界の富の支配者であると言われています。それは米中央銀行である連邦準備銀行(FRB)のウラの支配者がロスチャイルド家であると言われていることに関係しています。1917年ロスチャイルド家をはじめとする金融寡頭がドル紙幣の事実上の製造者であるFRBの買収に成功し1944年にはブレトン・ウッズ協定によって米ドルが世界唯一の決済通貨になったことで、彼らが発行する紙幣が国際通貨となったのです。
中央銀行の成り立ち その3 世界の金の8割が米国に集まり、他国はお金を発行できなくなってしまった。 このため、ブレトンウッズで ドルは米国の金と両替できる ドルと各国の通貨は両替できるという疑似的金本位制が生まれた。ニクソンショックで米国も金との交換をやめ、自由相場に移行した。
— 渡邉哲也 (@daitojimari) September 30, 2019
①英国覇権→ポンドと貿易
— kame cafe (@milkkoucya) January 2, 2021
大戦を起こし覇権を移動させる。
②米国覇権→
◎金とドル(ブレトンウッズ体制)
◎ドルと石油(ペトロダラーシステム)
そして今、パワーゲームのアイテムは石油から「データ」へと変わる。安倍前総理はスピーチでこう述べている→
(世界を動かすトリック第三話より pic.twitter.com/v279OlVO9P
ブレトン・ウッズ協定(ブレトン・ウッズきょうてい、英語: Bretton Woods Agreements)とは、第二次世界大戦後半の1944年7月、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である国際通貨基金協定と国際復興開発銀行協定の総称。「アメリカ合衆国ドルを基軸とした固定為替相場制」であり、1オンス35USドルと金兌換によってアメリカのドルと各国の通貨の交換比率(為替相場)を一定に保つことによって自由貿易を発展させ、世界経済を安定させる仕組みであった。この体制は1971年のニクソンショックまで続き、戦後の西側諸国の経済の復興を支えた。この協定に基づいて確立した体制のことをブレトン・ウッズ体制という。(中略)米ドルを世界の基軸通貨として、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた(金本位制)。(中略)この固定相場制のもとで、日本円はGHQ統治体制初期の輸出・輸入為替レートが異なる複数レートから、占領終了(1952年4月28日)後の日本のIMFおよび世銀へ加盟の翌年、1米ドル=360円(変動幅±1%)[1]に固定された。(中略)1971年8月15日のニクソン・ショックにより、アメリカ合衆国連邦政府は突然ドルと金の交換を停止し、ブレトン・ウッズ体制は終了した。その後、1971年12月18日のスミソニアン協定で、ブレトン・ウッズ体制の骨格を維持しようとするも、1973年には本格的に変動相場制に移行し、ブレトン・ウッズ体制は完全に崩壊した。
やはり、アメリカが貿易で、ドルを世界にバラマキまくって、借金返済のために金(ゴールド)がどんどん流出していった。ドゴールっというフランスと大統領がいて、彼がアメリカのブレトンウッズ体制を激しく批判して、ゴールドを大量に交換したり金プール制度から脱退したことが決定的で大きいんだな。
— ななし (@omttm1) August 25, 2010
戦後はアメリカのドルのみが金と交換可能で各国通貨価値はそれにリンクさせる固定為替制度が採用され、ブレトンウッズ体制と呼ばれました。しかし、ベトナム戦争の戦費増大によるインフレや国際収支の赤字に伴う金流出で保証が出来なくなったことで交換が停止され、ニクソンショックと呼ばれました。
— 政治学たん (@seizigakutan) January 30, 2021
ロスチャイルド家はワイン、アート、銀行という3つの伝統的な投資分野を握っており中国やインドなどの鉄道への投資にも手を伸ばしています。現在、ロスチャイルド家の投資銀行は、世界のトップ10にランクインしており、主な事業は企業の合併、買収、リストラです。それでもこの一族はメディア、ワイナリー、ホテル、ジュエリーなどの業界では依然としてトップを走っています。
「ダイヤモンドは永遠の輝き(A Diamond is Forever)〉誰もが耳にしたことのあるこの名スローガンは南アフリカのデビアス社の宣伝です。デビアス社は世界のダイアモンド生産の70%を所有していますが背後にはロスチャイルド家の投資があります。またロスチャイルド家は天然資源への投資も好んで行っています。世界の鉄鋼石取引の70%を占めるリオ・ティント(Rio Tinto)、ヴァ―レ(Vale)、BHPビリトン(BHP Billiton Ltd)もロスチャイルド家と密接に関連しています。またニューヨークタイムズ、エコノミスト、マクドナルドなどにもロスチャイルド家の影が潜んでいます。
一族は現在、保険会社も管理しておりRSAという保険会社は現在欧州で30以上の保険会社を買収し、会社の市場価値は10億ドル(1千億円)を超えます。
N・M・ロスチャイルド&サンズ(英語: N M Rothschild & Sons)は、イギリス、ロンドンの名門投資銀行。1811年にロスチャイルド家のマイアー・アムシェル・ロートシルトおよび息子のネイサン・メイアー・ロスチャイルドにより設立された。現在、世界中に57の事業所が存在する。同社は、世界屈指の企業向けの金融アドバイザーであり、M&Aのアドバイザーとしては世界第7位である。(中略)2008年まで、ロスチャイルド家以外のロスチャイルド・コンティニュエーションの株主は、20%を保有する、1838年からの香港における彼らの代理人であるジャーディン・マセソンのみであったが、ジャーディンは2005年に、ロスチャイルド系のRSA・インシュランス・グループから、子会社のジャーディン・ストラテジックを通じて株式を買収した。
そしてロスチャイルド家は、中国市場への関心も維持しています。中国では清朝末期からすでに彼らと清国政府との間に取引が行われていました。
現在彼らは、香港のほか、北京、上海にもオフィスを構えています。
例えばチャイナユニコムによるネットコムの240億米ドルでの買収。
中国本土で「マウスがゾウを飲み込む」と呼ばれた吉利によるボルボの18億米ドルの買収、中国化工による世界トップのピレリタイヤなどの90億ドルの買収など中国での多くの大規模な合併や買収にロスチャイルドグループを見つけることができます。
2021年2月25日 3:42【フランクフルト=深尾幸生】中国民営自動車大手、浙江吉利控股集団の傘下の高級車大手ボルボ・カー(スウェーデン)と香港証券取引所に上場している吉利汽車は24日、合併するとしていた方針の撤回を発表した。吉利グループの中核の両社は合併でコスト削減を進めようとしていた。エンジン部門は切り出して統合新会社を設立するなど機能ごとの融合を優先する。浙江吉利控股集団は2020年2月に、両社を合併させ、香港とストックホルムの証券取引所に上場する計画を発表していた。撤回の背景には10年に買収されて以降、独立した経営で業績を伸ばしていたボルボ側が難色を示したことがあるとされる。
さらにロスチャイルドグループは2007年からアリババと取引を行っており2014年にはアリババが米国に上場するための独占的なフィナンシャルアドバイザーも務めました。ロスチャイルド家はその巨万の富とは裏腹に、一般人の間ではあまり知られておらず謎に包まれています。したがってロスチャイルド家にはさまざまな陰謀が付き物です。あらゆる分野において世界的な強豪であるこのような一族の世界での役割が、実際にメディアの限られた情報より、はるかに大きいのではないかと考えている人は多いのかもしれません。
ベンジャミン・ド・ロスチャイルドさんと9人の大司教、みなさん仲良くいっしょに同時に天に召された・・・。
そんなことあるか!!!w