昔の自分の写真を見ていて思った。
昔の自分は今以上に未熟で不器用で、なんてひどい顔をしているんだ、と。
べつに他人が見たらふつうの写真なのかもしれないけど。
自分はそのときの自分の心情を知っているんだよね。自分だから。
だからそのときの意識を思い出しながら、その写真を見る。
無理してたよなって。
だからそんなふうに感じたんだ。
痛々しいんだね。見ていて。苦しかったころの自分の写真なんてのは。
でもそのときの私は一生懸命だった。非常に未熟であったけれど。
だから人は、つねにベストと思うことをしているんだ。未熟な状態で。
今だってそうだ。一生未熟だ。それがふつうだし、それでいいんだ。
昔の写真を見て、そんな気持ちになるということは、
まだまだ自分を肯定的に受け入れる作業が必要だよ、ということだなと感じた。
どんな自分でもOKって。不器用にのたうちまわっている自分もOKって。それでいいよって。
ということは、他人に対しても、まだきびしいということだ。
人は、自分に対する態度と他人に対する態度が同じなんだ。
OKしてあげる。どんな状態も。どんな選択をしても。自分も。ほかの人も。
これが今の自分のテーマだなと思った。
じつは、誰もがそのときそのときで、つねにベストな選択をしている。
バカだなぁと思ったとしても。
あんなふうにしたのは間違いだったと思ったとしても。
とりかえしのつかないことをしたとしても。
人は、犯罪や愚かなことをしてしまうことすらある。
例えば凶悪な事件を起こした犯人は、たいてい幼いころに親から虐待されていたりする。
心とは微細で、数学的で、理性ではごまかしがきかないんだ。思っている以上に。
犯罪がベストな選択なんてことは言えないし擁護できないけれど、
そんなケースでも、たいていそうするに至った経緯があるということなんだ。
動機とか、そんな最近のことだけでなく、もっとその人の心の歴史の視点から見ると。
そのことに気が付いて、私はいい・悪いと頭で決めることは、あんまり意味がないという結論に至った。
ダメはダメだけど、人様に謝罪すべきときはすべきなんだけど、
どうしてそうしたのか、そういう状態になってるのかについては、
世間の価値観や、いい・悪いを排して、心を感じないと、見えてこないんだ。
そうして初めて問題の本質的な解決や救いが見えてくる。
自分から見て、変な人でもその人がそうなのは何か意味があるんだろう。
バカに見えても、その状態に理由があってなっている。今その状態でいたい。
甘えているように見える人でも、その状態でどうなるかまで、経験したい。
それで、なんで苦しい状態なのか、わかったからといって、
相手に教えてあげてもたいてい無理なのね。
最後は自分で気づきたいっていうのが誰にでもあるから。
以前、この記事で↓、
自分の思いが相手に通じなくて無念であっても、
自分を守りながら待つしかないんだということを書いた。
それはそういうことなんだ。
最後は自分で気が付く必要があるから。
(だから無理で当たり前なんだって思うと少し楽だ)
それはたいてい経験して納得するという過程をたどる。私自身もそうだ。
経験するために生まれた。
そして、つねにそのときの自分にとってベストな選択をしている。誰もが。その状態で。
100点満点なんてないだろう。それがふつうだ。人間は、神様じゃないんだから。
(てゆうか完璧なんていうのも思考の作り出した幻だろう)
それも全部OKする。
結果、死んじゃったとしてもだ。
完璧であることより、どんな状態でもOKできることのほうがよっぽど大事だ。
ところで、人間の願いは、かなう。
わたしはこれまでいろいろな人の最期を見てきて、みんな自分の願いが叶っているなと思うんだ。
コロナ禍で最期、親族が病院にあまりお見舞いに行けなかった人は、生前もあまり人にくっつかない、依存しない人だった。
社交的なんだけど、一人でも楽しくいられるし、勝手気ままにいるのが好きな人だった。
最期も自分の好きなときに逝くから、こどもたちは、あまりあたしを気にせんでいいですよ~って気持ちがあったのかもしれないなぁと思った。
ある、足腰が弱ってきちゃった方は、お子さんや奥さんに介護の苦労をかけたくないなぁという思いが強そうだった。
いよいよ弱ってきてしまったので介護用ベッドをお家に入れた矢先、転んでしまって打ちどころが悪くて、亡くなってしまったんだ。
だから亡くなる時をご自分で決めていてそれが叶うとしか思えないんだ。
大勢の子どもや孫とふれあっていたかったおじいちゃんは、最後もたくさんの親族に見守られて、亡くなった。
死ぬのがこわいよという話をよくしていた。
わりとこどもに甘えたかった方は、それも叶っている。
お子さんがいなくて世話をする人がいないのをわかっていた方は、
ぎりぎりまでご自分のやりたいことをやって、亡くなった。
お迎えが近いとわかったら、お世話になった人に今までありがとうと連絡をして、自分で病院に行って間もなく亡くなった。
だから私はあまり自分の老後を不安に思っていないんだ。
自分の願いが叶うのを知っているから。
それよりも、今なにをしたいか?と感じることのほうが大事だ。
それをなるべくかなえてあげることのほうが大事だ。
その積み重ねで未来がつくられるから。
なにもしたくないなら、まずは「なにもしない」をかなえてあげることだ。
よしよし、したくないんだねって。それでいいよって。
それを気のすむまで休んだ先に、なにかの意欲が出てくるときが来る。
頭と心をなるべく一致させることなんだ。
頭と心の差が大きいと、苦しい人生になっていっちゃうの。
昔の写真の私はそういうことを知らなかった。
自分がない状態で、頭だけでこうしなきゃと生きていた。
だからブスに見えるんだな。見ていてそのときの苦しさがよみがえってきてしまって。
(書いているうちに、だんだんブスで不器用な過去の自分がかわいく思えてきた。わたしは自分を癒すためにブログを書いているんだな。みなさん読んでくださってありがとう)
頭と心の差が大きすぎると、苦しい人生になる。
それでも願いはかなうのだけど、頭で思っている願いではなく、心で実感していることが叶うんだ。
例えば、
家族の幸せを願っている。(頭では。顕在意識)
けれど、自分は親の犠牲になって生きてきた。
自分を犠牲にして生きていると、たいてい心の奥に憎しみを眠らせていたりする。
ふだんは忘れていたとしても。(心の奥。感情。無意識)
ふつうは憎しみを晴らすために仕返しするなんて、罪悪感を感じる。
親を憎んでいると自覚することすら、罪悪感だから、自覚すらしていない。
すると罪悪感を感じずに、恨みを晴らすことになる。
一生懸命がんばってやったけど、破滅するというような方向へ。
これも、全部、頭と心の差が大きすぎるからだ。
心のほうを見ないように見ないようにしていると、どんどん差が大きくなる。
不都合な感情を感じないようにして生きている人は多い。
そうじゃなくて、思い切って見てあげることなんだ。マイナスの感情も全部。
そのとき出てきたものを感じ切って、そうかそうか、そうなんだねって、気のすむまで見てあげることなんだ。
これも人によっては難しいかもしれない。
心の目を内側に向けてあげるんだ。
目は外を見るようについているけれど、自分の内側にくるっと向けてあげるんだ。
そういうイメージでじっくり見てあげるんだ。自分の心を。思い出したときに。
いっぱい古いマイナス感情を眠らせている人は、自分の感情を見るのがこわいと思うんだ。
でも、勇気を出して見てあげる、感じてあげることを、なんどもやってあげるとだんだん楽になっていく。
こんなに自分の心は大けがをしていたのに、ほったらかしで、手当もせずに、がんばれがんばれと命令して無理をさせてきたのかと、自分に申し訳なくなる。
ごめんねという気持ちになる。
こういう自分を愛することを始めた延長に、子どもの問題やその他、問題の解決が見えてくるんだ。
自分を犠牲にしないやり方を学んでいくことも大事だ。
もう大丈夫だよ、犠牲にしないからねと自分自身を安心させてあげることなんだ。
そうやっていくと、だんだん頭と心が一致してくる。
そうやってマメに自分を愛して、自分と仲直りしてあげないと、マイナスに願いをかなえていくしかないわけだ。心は。
だって本当の感情の願いをかなえるためには崩壊させるしかないから。
そして、自分を見ない方は、自分の感情を感じてないわけだから、他人の感情や目的もたいして感じられない。
すると、悪意を持った者が悪意をもって仕掛けてきても、その目的すらも感じないとなってしまうわけだ。
だからあいつらの謀略もわからない。詐欺にもあいやすいだろう。
こういうふうにつながってくるわけなんだ。
命にかかわるような選択とも。
だから
ややこしい世の中になってしまった今、
ワクチンのことなどをお知らせしても、
感情を抑えて生きている人であれば、話が通じなかったり難しいことは、至極当然のことなんだ。
だから、あいつらの謀略と心の話を混ぜて書いてきたんだ。
自分を愛することをおろそかにしていると、あいつらの謀略も感じられないから。
争うのも、自分を愛していない姿だ。
だから戦う人は賢くはならないんだ。
相手ばかりを見ているだろう?戦っているとき。それだと自分を感じている割合が少なくなるから。
するとネット上で他人に絡んでいるような人の言うことは、あまりあてにならないなとわかる。
あいつらと「戦う」と言葉では言うけれど、他人に好戦的にくっついていくよりも、自分に集中して自分の主張をしていくことなんだ。本当に勝ちたいのなら。
こうできるだけで、もう意識では勝っているので、これがかなう。
戦う人はいつも悔しい場面ばかり実感している。これは「負けている」感覚だ。
こういう実感がかなってしまう。
世間の価値観なんかよりも自分の感情や、ふと感じることを、信じて愛することができるかってことなんだ。
だから、簡単さ。
自分を愛することをしてけば、問題も解決するし、安全だし、幸せにもなれるってことだから。
他人をあまり見なくていいんだ。
かわいそうとも思わなくていいんだ。
みんな自分で気づきたくて、やりたくてやっているから。
「他人のために~してあげきゃ」っていうのも、あまり思わなくていいんだ。
なぜなら、もともと人のために、人の役に立ちたいって気持ちが私たちにはあるから。
自分を愛していけば、人も大切にしたいって自然になるから。
自分を愛することのほうが先なんだ。
すると、、、
凶悪犯や、あいつらや、あいつらの走狗をしている連中の精神状態も、少し想像がつくかなと思うんだけど。
他人を大切にすることができないのは、自分を大切にできていないからなんだよねって。
それはつまり、なにかに縛られ支配されているんだよねって。
元ファイザー社員の坂元昇氏、6ヵ月-4歳も努力義務にすべきと。事務局案に”努力義務”はなく、この人はいつも努力義務、努力義務と。
— そうぶん和尚 (@taisouji) October 7, 2022
子どもの未来がかかっているのに、他委員の質疑は低調です。https://t.co/0NsevCEheL
11歳男児が新型コロナワクチン3回目接種後に死亡 熱性けいれんなど既往歴あり
— 医療者 (@iryousya_1st) October 8, 2022
因果関係を認められることは、殆どありません。それが現実です。だからこそ、本当に子どもたちにコロナワクチンは必要なのかを考えてほしい。我が子を守ってあげられるのは、親御さんだけです。 https://t.co/zzRLOEo03W
素顔でアメリカのディズニーを楽しんでおられる本日のtaka先生です。
— だなもDr (@dermapython) October 9, 2022
「マスクぐらい着けててもディズニーは楽しめるでしょう」と言ってあげたい。 pic.twitter.com/nBFONhd9y6
じゃあなんで知念先生原作のドラマでは、世間より先に勝手にマスク緩和してるのか説明していただけますか? pic.twitter.com/9jYZItNtxO
— 仮免貴族 (@LuchaporlaliB) October 7, 2022
手を洗う木下先生が「マスクぐらい着けてても経済は回る」的なツイートをしながらノーマスクでフロリダのディズニーで遊んだり、知念先生が脱マスクしたから第7波で感染爆発したと言いながらノーマスクの自分原作ドラマにはダンマリだったり、もうこんなテキトーな人たち相手にするだけ時間の無駄です
— あーぁ (@sxzBST) October 9, 2022
ご活躍のようで。
「誰もがつねにベストな選択をしている」
心の状態に沿ったベストな選択をしているということだからな。
頭と心が不一致だと幸せな選択ができないってことなんだ。
そして頭と心の不一致が大きいと、崩壊させてマイナスに願いをかなえるということなんだ。
それなら一致させれば幸せになれるってことなんだ。
一致させるのは自分への愛なんだ。