読者の方がコメントくださって、
「安倍首相の後継者として誰が適任だと思っていらっしゃいますか? 」
ってね。そうだよね。毎日毎日あいつらの話ばっかで、そう聞きたくなるのも当然だと思った。それで、わたし
「難しい質問ですね!
あいつらに迎合せず、かつ戦わず潰されない人ということになるんでしょうけど、そこまでの精神性と実力を兼ねそろえた方は、今、候補といわれている方のなかには見当たらないような気がしております。
だからつい、あいつらの滅亡を祈りつつ、やり過ごすことばかり考えてしまいます。あいつらが滅びるということは、今の文明がまるっきり変わることを意味するかと思いますので、私はそこに夢を感じております。 」
あいつらに迎合せず、かつ戦わず潰されない人ということになるんでしょうけど、そこまでの精神性と実力を兼ねそろえた方は、今、候補といわれている方のなかには見当たらないような気がしております。
だからつい、あいつらの滅亡を祈りつつ、やり過ごすことばかり考えてしまいます。あいつらが滅びるということは、今の文明がまるっきり変わることを意味するかと思いますので、私はそこに夢を感じております。 」
って答えてね。そしたら
「それでは、歴代の政治家の中であの人だったらという人はいらっしゃるのでしょうか? 」
ってコメントしてくれてね、ああそうだね、いるかな?って、ずーっと考えてたの。
そしたらね、結論から言うと、一人だけ思いついたの。
それで、どうせなら記事にしちゃおうと思ってさ!
葉月さん、興味深い質問くださって、ありがとね😃
では発表します。
ジャーン、この人!↓
知ってる?
小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)
マニアックな人しか知らないかな?
本の紹介文より引用。赤字おばさん追記。青字、おばさんつぶやき***************
小栗上野介忠順(ただまさ)は、文政10年(1827)直参旗本の跡取りとして神田に生まれ、若くして外国奉行や勘定奉行に取り立てられ、開明派として日本の近代化に努めたものの、薩長に対する主戦論が祟って、慶応4年(1868)隠居後にも拘わらず官軍に斬殺されてしまった悲運の幕臣でした。
同じ幕臣でありながら、江戸城無血開城の立役者勝海舟がどんな教科書にも載っているのに対し、同時期に活躍した小栗上野介は、安政7年(1860年)日米修好通商条約批准の使節団のナンバー3として大活躍するなど、短期間に数多くの業績を残しながらも、明治維新以後の官軍史観からは全く黙殺され、現在に至ってもなお低い評価のままと言わねばなりません。
同じ幕臣でありながら、江戸城無血開城の立役者勝海舟がどんな教科書にも載っているのに対し、同時期に活躍した小栗上野介は、安政7年(1860年)日米修好通商条約批准の使節団のナンバー3として大活躍するなど、短期間に数多くの業績を残しながらも、明治維新以後の官軍史観からは全く黙殺され、現在に至ってもなお低い評価のままと言わねばなりません。
〈おばさんつぶやき〉
こんなふうに、開国派のヤカラはたいしたことなくても歴史の教科書に出てくるのでみんな知ってるが、本当に日本を守るために働いてくれた、デキる人は歴史の表舞台からも教科書からも抹殺されていて、あまり知られていない。
この時点ですでに、我々はいかにあいつらのにとって都合のいいことだけを教わってきたかが分かる。
で、おばさんが感激したのは、この人、あいつらに屈しないで、「おまえらインチキしてるだろ!金を搾取するな」ってびしっと言ったこと。
本書冒頭では、使節団一行が首都ワシントンでブキャナン大統領と会見して条約を批准した後、小栗上野介が、本来の渡米目的にはなかったものの、日米の金貨の交換レート交渉のため、持参の天秤を用いて正確に計測し、そして算盤により十進法で素早く計算し、その科学性、客観性、正確性、迅速性にアメリカ側が感嘆した経緯が述べられています。これは、金と銀との交換比率が日米で大幅に異なることにより幕末に日本から金が大量に流出していたことへの危機感から出た行動でした。
あいつらね、幕末に金と銀の交換レートをインチキしてね、日本からたくさんの金を搾取したんだ!
そのせいで、江戸幕府は貧乏になって弱体化したともいえる。
それを小栗さんが、アメリカに行ったときに、びしっとあいつらに指摘したの!
あいつら、今と変わんないね。インチキして搾取するの。
ところがね。言ってやったのはよかったんだけど、
ところが、この交渉は結局合意には至らなかった。
使節団として同行していた勘定方組頭である森田清行が、遣米使節団には通貨の交換率変更を交渉する権限を、幕府からは与えられていないと引き留められたからです。
しかし、このときの小栗の姿勢はアメリカの人々に「ノーと言った日本人」として称賛され、新聞にも彼を絶賛する内容の記事が掲載された。
使節団として同行していた勘定方組頭である森田清行が、遣米使節団には通貨の交換率変更を交渉する権限を、幕府からは与えられていないと引き留められたからです。
しかし、このときの小栗の姿勢はアメリカの人々に「ノーと言った日本人」として称賛され、新聞にも彼を絶賛する内容の記事が掲載された。
あれ?!
このころから、すでに、あいつらの臭いのするヤカラが妨害している模様!
その後も小栗さんは、外国奉行に就任してロシアの侵略をおっぱらったり、勘定奉行に就任して幕府の財政を立て直そうとしたり、軍艦奉行に就任して、造船所作っちゃったり。
この横須賀製鉄所っていう造船所があったおかげで日露戦争を戦えたらしい。
船も外国から買うんじゃなくて、自前で作んなきゃ!って。相当デキるお方。小栗さん。
ここまで、あいつらに屈しないで、日本の未来を見据えて、ちゃんと実力もある人が頂点に立ってくれたなら、文句なしだろう。
総理大臣でもなんでもやってくれ!って思う。
ところがね、そうはいかないんだね。
この人、最期は、
1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還が行われた後、新政府軍は徳川慶喜を追って江戸へ進軍してくる。
これに対し小栗は新政府への徹底抗戦を主張し、起死回生の策を進言する。
これに対し小栗は新政府への徹底抗戦を主張し、起死回生の策を進言する。
(中略)
しかし、徳川慶喜はこの案を受け入れず、勝海舟が唱えていた恭順の道を選んだ。
後にこの小栗が提案した策を聞いた新政府軍の大村益次郎は「もし、その策が実行されていれば、我々は全滅していたであろう」と言い残している。(←あいつらだ)
そして勘定奉行を解任された小栗に、戦う理由は残ってはいなかった。
戦いを諦めない徳川の家臣に「主君である慶喜様にその意思がない以上、それに従うしかない」そう言い残し小栗は江戸を去った。
そして、小栗はそのお腹に我が子を宿した妻道子と共に現在の群馬県・権田村にある東善寺に身を寄せることになる。
そこで小栗は若者たちに教育を施すための塾を開いたり、水路を整備したりして静かな余生を送ろうとしていた。
だが新政府小栗に出頭を命じる。
後にこの小栗が提案した策を聞いた新政府軍の大村益次郎は「もし、その策が実行されていれば、我々は全滅していたであろう」と言い残している。(←あいつらだ)
そして勘定奉行を解任された小栗に、戦う理由は残ってはいなかった。
戦いを諦めない徳川の家臣に「主君である慶喜様にその意思がない以上、それに従うしかない」そう言い残し小栗は江戸を去った。
そして、小栗はそのお腹に我が子を宿した妻道子と共に現在の群馬県・権田村にある東善寺に身を寄せることになる。
そこで小栗は若者たちに教育を施すための塾を開いたり、水路を整備したりして静かな余生を送ろうとしていた。
だが新政府小栗に出頭を命じる。
幕府の御用金を持ちだし新政府に対して戦争を企てているという噂が持ち上がっていたためだ。(出た!あいつらお得意のでっちあげ)
それが現代に至る徳川埋蔵金の伝説の基となっている。
しかしそれは根も葉もないことであった。
それでも小栗は妻に密かにこの地を逃れるように諭し、新政府に出頭した。
そして、1868年(慶応4年閏4月6日)取り調べもされねまま斬首となった。
小栗は斬首直前「何か言い残すことはないか」の問いに「私自身は何もない、しかし逃がした母と妻と息子の許嫁には寛大なる処置を願いたい」と言い残している。
それが現代に至る徳川埋蔵金の伝説の基となっている。
しかしそれは根も葉もないことであった。
それでも小栗は妻に密かにこの地を逃れるように諭し、新政府に出頭した。
そして、1868年(慶応4年閏4月6日)取り調べもされねまま斬首となった。
小栗は斬首直前「何か言い残すことはないか」の問いに「私自身は何もない、しかし逃がした母と妻と息子の許嫁には寛大なる処置を願いたい」と言い残している。
***********************************
そんな感じ。
だから、この頃からすでに、あいつらのしもべが日本では活躍していて、あいつらの筋書どおりに、歴史をすすめようと妨害してることが分かる。
だから、小栗さんのような人は昔も今のいるのだと思うけど、歴史の表舞台から抹殺されていて、みんなに知られていない。
ところがね、事実はそうではないという方がいる!
「こんな裏天皇の存在する日本が植民地化などされるはずがありません。ヨーロッパと不平等な商取引を始めても日本国の金の保有量が減らないように経済政策上の極めて高度な予防措置迄既に、江戸時代の内に取られていたと言います。それを幕閣として密かに企画主導したのが小栗忠順(おぐりただまさ)という、裏天皇が何百年も前に幕府内に密かに配置していた家系の人物だったそうです。そもそも、日本の江戸時代にこの日本で早くも発明され、高度に発展していた金融の仕組みを、その後世界全体に広げたヨーロッパ勢力の背後には、裏天皇が存在し、その動きすら完璧にコントロールしていたと言います。小栗忠順は、表の歴史ではある時ある人物に殺されたことになっているのだそうですが、それは偽装死であり、その直後にアメリカに渡ってあのフィラデルフィアを建設し、当地でクエーカー教団に侵入した後、それを密かに乗っ取り、それを活動母体としてアメリカ政界をも完全に、そのコントロール下に入れたと言います。そもそも、アメリカ合衆国の建国そのものすら、もう既に、裏天皇の計画の中で遂行されたことだったと言います」
おいおい!本当か?ってことをおっしゃっているが、落合氏いうところの裏天皇なる人物の密命を帯びて活躍しているスパイ的な人が日本には古くからたくさんいて(庶民の中にも。非農民)、それによって国が守られているという。
一度も日本が表向きには植民地にならず外国にならずに済んでいるのは、そういう人たちの暗躍があるからだという。
小栗さんもその一人で、澁澤栄一もそうだとおっしゃっていた。
どこまで真実か、私にはわからない。しかし、そんなようなことがあると考えると、いろんなことが腑に落ちる。そして希望も持てる。
もちろん、証拠なんてないんだよ。
だいたいえらいアカデミックな大学の先生やってるような歴史家のいうことは文献を根拠にして、事実だ、と論じるわけだけど、そんな文書は、ときの権力者によっていくらでもねつ造できるからね。
そんなの根拠にしてると、よけい真実から離れるだろ?
あ!あれといっしょだな。
だから私は、教科書的な歴史は信じていない。
だからといって、陰謀論も・・・・
真実はネット上の似非右翼陰謀論者の言ってるような、そんなレベルではないと思っている。
ところで、日本で古くから、スパイ的な人が国を守ってると↑いうことだが、あの話↓と通ずるものがあるね!
陸軍中野学校。
この人たちも日本守るためにああいったことをされていたわけだ。
それで、昨日、この記事↓を読んでいて
以下、転載。赤字おばさん追記*******************
北朝鮮の独裁体制の、本質は何だろう。マルクス・レーニン主義ではない。儒教の王朝か? 少し近いかもしれない。日本の天皇制とも、そっくりである。
北朝鮮の「主体思想」をつくった黄長ヨプは、戦前の日本で教育を受けた。朝鮮は、1910年から1945年までの35年間、大日本帝国の一部だった。主体は国体の焼き直しだ。金日成が、「天皇」の抜けたあとにすっぽり収まっても不思議はない。
儒教の皇帝と、日本の天皇制。これを足して2で割ったのが金王朝だと考えると、いろいろ説明がつく。
天皇は「万世一系」で、アマテラスや神武天皇と血がつながっている。金日成→金正日→金正恩、は「白頭山の血統」だという。神話にさかのぼるところが共通している。儒教にはない特徴だ。
いっぽう金王朝は、皇帝権力の要素もある。天皇はふつう、権力を直接ふるわない。皇帝はふつう、実際に権力をふるう。
金王朝を天皇制とみるなら、言わば「天皇親政」だ。天皇親政は、戦前昭和の総力戦体制のキーワードだ。北朝鮮は建国以来ずっと、総力戦体制なのである。
*****************************
あれ?もしかして、筆者の方、あのこと、知ってる?!
今はここまでが精いっぱいだよね?!
わかるわかるw
あいつらに関しましては、「あいつら(裏側から見る社会のシステム)」カテゴリー、古い順をクリックのうえ、初期の記事よりご覧ください。