ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

2009年01月17日 | 文化・芸術

敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

もう1月も半ばを過ぎて、お正月気分ももうどこかへ消えかかっているが、お正月休みの時、テレビ番組も低俗でマンネリ化していてつまらないので、久しぶりにDVDで今は亡き成瀬巳喜男監督の「浮雲」という古い作品を取り出して見た。

浮雲
http://www.geocities.jp/yurikoariki/ukigumo.html

主演女優は高峰秀子、男優は森雅之である。こうした一昔前の俳優は今の人にはすでに忘れられて知らない人も多いかもしれない。成瀬巳喜男の監督した作品は芸術として事実を淡々と描写して行くだけで、社会批判や理屈をとくに大上段に振り上げているわけではない。しかし、この「浮雲」のなかで高峰秀子さんが演じていた「ゆき子」も、太平洋戦争の日本の敗戦の過程でみずからの運命を大きく変えられ、薄幸のうちに亡くなった一人の無名の女性だった。現代国家の運命は女性や子供も含めて国民ひとりひとりの運命に直結している。

映画の発端となる舞台は太平洋戦争で、日本軍が仏領インドネシアに進駐するに従って農林省の技官であった富岡(森雅之)も日本から出張してくる。その時に事務所にタイピストとして働きに来ていたのが、ゆき子(高峰秀子)だった。そこでふたりは知り合うが、富岡は現地に単身で赴任してきており、日本に妻を残していた。だから、ふたりの関係はいわば不倫の関係であった。そして当時のすべての日本人がそうであったように、敗戦によってふたりの運命は暗転する。

映画「浮雲」の批評そのものはまた別の機会に語りたいと思うけれども、要するに、主人公の「ゆき子」は、空襲によって荒廃した日本に終戦にともなって帰国したものの、すでに妻のいた富岡との復縁もかなうことはなく、それでとうとう食い詰めてオンリー(進駐軍兵士専門の娼婦)に身を落としてしまう。敗戦後も間もなく流行した「星の流れに」という歌の中にも、「こんな女に誰がした」という歌詞があったが、主人公ゆき子のような境遇の事例は数多くあったのだと思う。実際にも多くの日本人女性が戦争花嫁としてアメリカなどに渡っていった。ゆき子のつらく悲しい生涯に戦後の日本が象徴されている。

日本の敗戦によって威信や信用を失ったのは、だれよりも旧大日本帝国軍の軍人たちだった。実際どのような国においても、敗戦国の軍人や男性が信頼や価値を失うのはやむをえないといえる。とくに戦前の日本はかならずしも民主化が十分に進んでおらず、封建時代の名残もあって軍隊には階級意識や権威主義、事大主義が濃厚で、偉ぶっていた軍人も事実として多かった。だから、敗戦をきっかけに旧日本国軍や軍人たちが国民の信用を大きく失うことになったのもやむをえない面があったといえる。

それに輪を掛けたのがGHQなどの占領軍の手によって行われた占領政策だった。日本をアメリカに二度と対抗できない国にするための戦後教育を受けて育った女性たちには、旧日本国軍人についてとりわけ悪印象を植え付けられている。彼女たちの多くが兵士について抱いているイメージと言えば、売春宿の入口で眼の色かえて「順番待ち」をしている脂ぎって汚れた兵士たちの顔であったり、二等兵をいじめている醜い顔の軍曹であったりする。

こうした軍人観がとくに戦後の日本女性の多くの中に戦後教育や映画などを通じて刷り込まれているために、軍隊や軍人たちに対して、さらにはそこから父や兄弟など男性そのものに対して尊敬心など持てなくなってしまっている場合が多いのではないだろうか。少なくとも潜在意識の中ではその傾向にあるといえる。とくに法政大学教授の田島陽子女史や東京大学の上野千鶴子教授など教育を受けたインテリ女性ににその傾向が顕著に見られるように思える。

しかし、国家と国民の身体、生命、財産の安全を、みずからの命を呈して守ろうとする軍隊や軍人に対して尊敬の念を持てないでいる国民は不幸で哀れだ。アメリカやイギリスなど、かって大きな敗戦をこうむったことのない国民の間では軍隊や軍人ははるかに尊敬されているし憧れられてもいる。日本の自衛隊のように、たんに占領時代に制定された憲法上ばかりでなく、これほどに多くの国民から白眼視されている「軍隊」の存在も他国には例を見ないだろうと思う。

映画「浮雲」の女性主人公ゆき子に象徴されているように、戦争では多くの女性が薄幸の運命を担わされた。満州からの避難民や広島、長崎の原爆、東京大空襲のような悲惨な体験をした日本の女性の多くに軍隊や軍人に対する嫌悪や忌避の傾向の強いのも仕方がないと思う。また、戦後の日本の教育をになった教師などに共産主義者も多かったから、彼らは自分たちの階級史観から戦前の旧大日本国帝国軍隊や軍人を全否定する教育を行ってきた。

その教育宣伝による意識形成の典型が先の田島陽子女史やノーベル賞作家の大江健三郎氏なのだと思う。彼らの軍隊観、軍人観には肯定的な要素はまったく見られない。自国の軍隊や軍人の道義性に対する信頼やその意義についての認識が完全に失われているのである。しかし、このような国が日本以外にあるのだろうかと思う。占領統治が終わって戦後60数年も経った現在もなお軍人、軍隊に対するコンプレックスを克服しえていない現状には、日本国民の資質に、とくに主体的な民主化能力に欠陥があるというしかない。そのコンプレックスは今なお、茶髪や一重まぶたの整形手術にも現れている。

評論家の櫻井よし子さんは、戦後の女性の変化に触れ、次のように述べておられる。
「手本となる先人に思いを馳せその学びを新しい年に生かしたい」
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/01/03/


>>
「戦後の日本でいちばん大きく深刻に変わったのが女性ではないかと、私は感じている。家庭のあり方が妻や母たる女性の価値観や姿勢で決定づけられるように、戦後の日本社会の変化は、男性よりも、女性によってなおいっそう促されたと思う。だからこそ、かつて世界の人びとを感嘆させた日本人と日本社会のすばらしさの原点が、控えめながらも芯の強い、公の意識を持った女性たちであった面を思い起こし、その実例を知ってほしいのだ。」
>>


女性解放が声高に叫ばれる現代においても、とくに「女性解放」の遅れていると言われる日本では、確かに女性はいまだ社会の表面では表だって目立つ存在でないかもしれない。しかし、社会のあり方を決める上で女性の存在のあり方が決定的に重要であることは、「女性解放」などという安っぽいスローガンが叫ばれる以前に、封建時代と言われる江戸時代においても現代においても変わりがない。

とくにわたしたちの話すことばが母語とも言われるように、人は誰でも、まず母親から感化されるのである。民族の文化はとくに母親を通じて受け継がれてゆく。ユダヤ人社会でも、母親がユダヤ人であれば子供もユダヤ人になる。父親がユダヤ人であるだけではユダヤ人とは見なされないのである。

だから、母親の受け継いでいる伝統文化や倫理が歪められ損ねられた民族は崩壊してゆくだけである。もし明治期に優れた人物を多く輩出したとするなら、その背景には彼らを生み育てた明治の立派な母親たちの存在を抜きにしては考えられない。その母親たちは、たしかに田島女史や上野女史のように社会的にも有名にもならず歴史に名も残さずひっそりと消えていったかもしれない。しかし、その誰にも知られない生涯の価値は決して見過ごされてよいものではない。女性はその国家、民族の気質、伝統を守り育てる母胎である。

だから、ある国家、民族を崩壊させようと思えば、その女性の気質を破壊すればいいのである。そのために田島陽子女史のようなもっとも亡国的なウマシカ女性を無数に作り出せばよいのである。

さらに、日本の軍隊や軍人に対する忌避や軽べつの感情の根源には、日本の敗戦のために、日本軍人による過失や戦争犯罪を、日本軍自身の手による軍法会議などによって自律的に裁く機会を持ち得なかったということもある。日本の敗戦のために、日本の将兵たちの過失や戦争犯罪を旧日本国軍みずからの軍法会議で裁くことができず、それらをすべてこの戦争の勝者である連合国占領軍の手にゆだねざるをえなかった。

そのために軍人政治家から参謀本部の指導者、末端の将兵にいたるまで、日本軍人の過失や戦争犯罪を日本の軍法会議や司法の権限で裁きにかけることができなかった。そのことも、日本軍人に対する国民の信用をさらに大きく失墜させることになった。

日本軍兵士たちが戦争の混乱にまぎれて非戦闘員である女性や子供たちに対して犯した戦争犯罪や軍規違反、またインパール作戦のなどの戦略上の重大過失を、日本軍の軍法会議や一般司法裁判所で自律的に糾弾し処断することができていれば、もう少しは日本軍人たちの名誉も信用も権威も保つことができたかもしれない。

敗戦によって一切の権威と権力を失っていた旧日本軍には、みずからの軍法会議と司法によって、戦争の混乱のどさくさにまぎれて行われた日本軍の将兵たちの戦争犯罪を、旧日本軍自身がみずからの手で主体的に厳しく断罪することはできなかった。

もし旧日本国軍がそれだけの自浄能力を備えていれば、後世幾世代にもわたって同じ日本国民から、とくに日本女性たち自身から、彼女たちの祖父や父や兄弟に当たる旧日本国軍人に対する、あることないこと一切合切の軽べつの罵詈雑言その他の言辞を投げつけられるような哀れな状況を避けることができたかもしれない。

 

 


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