まさおレポート

即興詩人 ゴンドラの唄 ベネチア

ベネチアの水禍が続いている。果たしてベネチアの栄華を述べたアンデルセン森鴎外訳の即興詩人は応援歌となるか、心もとないが。早く水禍が去ってほしい。

總ての摸樣は、まことに活きたる五色の氈かもと見るべく、又彩石ムザイコを組み合せたる牀と見るべし。されどポムペイにありといふ床にも、かく美しき色あるはあらじ。

是れ舟を行やる道なり。われは始て「ゴンドラ」といふ小舟を見き。皆黒塗にして、その形狹く長く、波を截て走ること弦つるを離れし箭に似たり。逼せまりて視れば、中央なる船房にも黒き布を覆おほへり。水の上なる柩とやいふべき。

既にして梵鐘は聲を斂めて、かぢの水を撃つ音より外、何の響をも聞かずなりぬ。われは猶未だ人影を見ずして、只だ美しきヱネチアの鵠の尸の如く波の上に浮べるを見るのみ。

舟は轉じて他の水路に入りぬ。その幅頗る狹くして石橋あまたかゝれり。こゝには人ありて、或は橋を渡りて家の間に隱れ、或は石壁の門を出入す。されど街と名づくべきものは、水路の外有ることなし。

日は「マルクス」寺の星根の鍍金めつきせる尖と寺門の上なる大いなる銅馬とを照して、チユペルス、カンヂア、モレア等の舟の赤檣の上なる徽章ある旗は垂れて動かず。數千の鴿は廣を飛びかひて、甃石の上にあされり。

渠水を望めば、燈影長く垂れて、橋を負へる石弓せりもちの下に、「ゴンドラ」の舟の箭よりも疾駛を見る。忽ち歌聲の耳に入るあり。 

傍に一少年の蹲れるありて、ヱネチアの俚謠を歌ふ。其歌は人生の短きと戀愛の幸あるとを言へり。こゝに大概を意譯せんか。其辭にいはく。朱の唇に觸れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。戀せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。白髮は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。來れ、彼輕舸の中に。二人はその蓋の下に隱れて、窓を塞ぎ戸を閉ぢ、人の來り覗ふことを許さゞらん。少女よ、人は二人の戀の幸を覗はざるべし。二人は波の上に漂ひ、波は相推し相就き、二人も亦相推し相就くこと其波の如くならん。戀せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。汝の幸を知るものは、唯だ不言の夜あるのみ、唯だ起伏の波あるのみ。老は至らんとす、氷と雪ともて汝の心汝の血を殺さん爲めに。少年は一節を唱ふごとに、其友の群を顧みて、互に相頷けり。 (青空文庫)

即興詩人
ハンス・クリスチアン・アンデルセン
森鴎外訳

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