紀野一義講演(youtube)メモです。
栴檀の木の薫を運ぶ風が人を喜ばせる。
悲しみの光背―菅野国夫詩集を紹介する。僕は南無妙法蓮華経、曽我量深先生は南無阿弥陀仏 それでいいのだ リンゴは南無妙法蓮華経、バナナは南無阿弥陀仏と唱えていてちっとも矛盾しないとうたう。
この子はガンを病んでいて氏が長い手紙を送った後に安心されたんでしょうか、最後は屋上から投身自殺される。
この詩の中に登場する曽我量深先生は法蔵菩薩は阿頼耶識のことだと驚くべきことをおっしゃった。
法蔵菩薩は阿頼耶識に潜んでいる。みんな繋がっているという感じがいたします。
沈黙の世界について、言葉は沈黙から来る
あるとき日蓮上人の話を上智大学で仏教の話をした。日蓮の言葉は胸に応えず、腹に応えず、尾てい骨までごつんごつんと応えると。
その場にいたポルトガルの神父さんがお尻をおさえていた。「わたし最後までお尻抑えていました」と。
ぺらぺらしゃべっていてはいけない、尾てい骨までごつんごつんと応える話をしなければいけない。
氏は方便品・自我偈を子供のとき小学一年から訳もわからず読んでいた。そのうちほとけさまにお経を読まされているということが体で分かってきた。親父に意味を聞いても教えてくれない。「そのうちわかる」「おとうさん、ほとけさんて僕のなかにいるようなきがするんだけど」「そうだよ」と。
凡夫で悟ったものはない。二乗もおらん。唯物与仏のみ極めつくす。あれこれ考えても無用でただほとけからくる。論理的にいろいろ考えても無駄だ。これを唯物与仏と言い、正法眼蔵で的確に述べている。そう言われるとちょっとこまっちゃうようなものですけどね。
第三十八 唯佛與佛
佛法は、人の知るべきにはあらず。このゆゑにむかしより、凡夫として佛法を悟るなし、二乘として佛法をきはむるなし。ひとり佛にさとらるるゆゑに、唯佛與佛、乃能究盡といふ。
友人の牧師である高木さんとは気が合うのでよく話をするんです。真実に目覚めればキリスト教であれ仏教であれ目がひらけるんじゃないでしょうか。
方便品
爾の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。
所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し。
舎利弗、吾成仏してより已来、種々の因縁・種々の譬喩をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。所以は何ん、如来は方便・知見波羅蜜皆已に具足せり。
舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。
舎利弗、如来は能く種々に分別し巧に諸法を説き言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。
止みなん、舎利弗、復説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。
舎利弗が何度も説くことを釈迦に頼むが断られる。説かない。止みね。三止三請といいます。
仏教では簡単に教えてくれることはない。現代の僧でも「いや、説いてもむだだから」との答えが返ってくる。
高野の明遍が法然を訪れるときのエピソードを紹介する。
法然が念仏を説明しても「自分の心が納得されるように聞いているのだ」と引きさがらない。今の人はすぐ引き下がる。さらに
法然「おおらかに念仏すればよい。気が散ったって大丈夫だよ。」
というと「そうです そうです」と明遍が納得して引き下がる。
初対面のひとどうしなのだが挨拶失くして別れる。当時の人はわかっていたんですね。その関係が舎利弗と世尊にもあった。釈尊も三度も請われたら説かないわけにはいかないのでようやく説かれる。
そのときに増上慢つまり傲慢な在家の5000人が「今だ得たり」と思って出ていった。釈尊は黙然として止めなかった。出て行くものは止めない。
退くもまたよし。 清少納言の『枕草子』では、法華経の説法を中座しようとした清少納言に藤原義懐が「やあ『退くもまたよし』」と皮肉った。現代ではわからないギャグになってしまったが。
みんながみんな聞くなんてことはありゃしない。
諸仏は唯一大事因縁をもってのゆえに世に、衆生をして仏知見を開示悟入せしめんために現れた。
開示悟入 法華経の悟りの順番を指している。
目が開く まず真実の自己に目覚めることがなければどうにもならない。ほとけがいろいろを見せて下さる。
示される あるいは人に示すことができるのでなければ本当にさとってはいないでしょうか。
悟 自分がなんであるか。知らなかった自分を知る。
入 悟りに入った人は構えがなく、わかっていて、手をぶらんぶらんして歩く。
このひと本当にわかっているのかなと悟りのリトマス試験紙として画集を見せると「わたしは絵がわかりませんので」座禅ばかりで絵も小説も音楽もわからずに目があくものでしょうかね。
十如是は本当は九つなんです。梵語の原文、サンスクリットでは5つしかない。羅什が竜樹の大智度論を念頭に意訳して十如是になった。
本末究竟等は竜樹の大智度論にも出てくる。このなかに本末究竟がでてくる。やはり羅什が訳している。
本は肝心かなめで末はつまらないこと、これが実はひとつであり等であるの意。
酒は飲む、女をからかったりする、その反対に仕事しか頭にない馬鹿、人生にはどちらも大事なのだ。これを諸法実相、本末究竟等という。
諸法実相は縁起、縁と同じことだと考えられている。これあるときにかれありと経の随所に書かれている。
縁起を時間も空間もひろがった関係性と考えていたんじゃないか。これを教えてくれたのが竜樹ですね。
ぺロポネス?という哲学者は竜樹に会いたかったからペルシャ遠征軍について行った。しかし残念ながら王が暗殺されてかなわなかった。竜樹の名はアレクサンドリアまで鳴り響いていたのだと。
道元が18年前の中国留学のことを思い出して正法眼蔵の「諸法実相」で書いている。
唯佛與佛は諸法實相なり。諸法實相は唯佛與佛なり。唯佛は實相なり、與佛は諸法なり。
杜鵑啼いて山竹裂く ホトトギス泣いて竹がさけた これいかにの質問にだれも答えられなかった。
一年のうちに二、三度富士山が異常に美しい、普通の日じゃない日がある。あわてて八ミリをもって富士山に写真を撮りに行きましたよ。あのとき富士山はわたしに語りかけたんですね。そのときこの諸法実相がポーンとわかったんですね。
これがわかるためには心が裂けなければわからないでしょうね。
少年のときから唱えていた方便品のお経がいまごろわかるなんて長い話ですね。
未来世の諸仏 百千億
無数の諸の法門を説きたもうと雖も 其れ実には一乗の為なり
諸仏両足尊 法は常に無性なり
仏種は縁に従って起ると知しめす 是の故に一乗を説きたまわん
是の法は法位に住して 世間の相常住なり
道場に於て知しめし已って 導師方便して説きたまわん
この文は天台も伝教も日蓮上人も注目していない。道元が正法眼蔵の「有時」の巻でとり上げている。そして時間論を展開している。
中山正和がユニークな考え方を「ちえの構造」で展開している。 イメージ記憶が命の知恵だと。角田氏の研究ではロゴスとパトスつまり情緒は臨床で調べると日本人は左で処理して右の脳があいているがそこでイメージ脳を働かしていると。
結論的には申し上げられませんけど大脳生理学では日本人の脳は西洋人のようにロゴス的、情緒的な人間を分けることはできないのではないか。
イマジネーションの成果としてできたものが法華経であり、情緒と論理でたどり着こうとしても絶対にわからない。
宇佐美圭司の宮沢賢治解釈。アンチリアリズムつまりイマジネーションの成果だと。
http://www.ezoushi.com/ooka_collection/02.html
あるとき、あるときがあるだけだ。死んだあとのことなど情緒的論理的に考えるからだ。一瞬一瞬が勝負であり、ある現象に過ぎない。
是の法は法位に住して、世間の相常住なり
これは仏教の基底になる考え方でありまたいずれ考えてみたいと。