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まさおレポート

ショーペンハウアーの「死」への対処

ショーペンハウアーの「死」への対処をネット、主としてhttp://dekansho.net/dekanshode/waw.htmから拾ってみた。ブッダの無明と涅槃に完全に通じる素晴らしい洞察の数々をメモしておきたい。

哲学が与える慰めとは、結局次のようなものである。すなわち、精神の世界が存在し、そこで我々は外界のすべての現象から離れて、それらの現象を高いところから大いなる静けさをもって、とらわれることなく眺めることができるということである。

意志の否定は意志の自由の唯一の直接的な現れであるが、個人にとっては、あたかもわれわれが手を加えることなしに恩寵の働きによって、まるで外部から来るようにやって来るかのような印象を与えることもある。それ故に救済者は超越的存在の仲介者という衣をまとうのである。

キリスト教の本質は意志の否定にあると考えている。イエス・キリストは、生きんとする意志を否定することの象徴ないしは人格化である。

 キリスト教は罪を数量化し、負債と見ることによって、死から永遠の生への転換という出来事を贖宥(あがない)という正の数量化への転換の類比によって言い表している。そのような発想からパスカルの信仰についての確立計算までの隔たりは、大きくない。

 たしかにわれわれの前にはただ無だけが残っている。しかしこのように無に帰してしまうことに抵抗するものがあり、これがわれわれの本姓なのだが、またこれこそはほかならぬ生きんとする意志である。

われわれがこれほどにも無を嫌悪しているということ自体が、われわれが生きんとする個の意志以外の何者でもなく、個の意志のほかにはなにも知っていないということを、別様に言い換えていることにほかならない。死における、アイデンティティーの危機の意識は、純粋に動物的な自己保存の本能による危機意識をはるかに越えることがある。それは意志、ことに弁証的意志の肯定の裏返しの表現に過ぎないのである。

弁証的意志は、表象としての世界の内で出会われるものを越え出ながら、すべてを意志の対象として取り扱える「もの」(実体)へと組み替える。存在自身も実体となり、意志主観の所有物となる。かくして、主観は、様々の所有物の喪失を恐れる以上に、所有物となった自己の存在(生命)の喪失を恐れるのである。「我々がそもそも意志するということが、我々の不幸なのだ。」意志の消滅は、そのような死の恐れの消滅でもある。

意志の完全な消失は、意志に満たされている者にとっては無であるも、すでにこれを否定し、意志を転換し終えている者にとっては、これほどに現実的なわれわれの世界が、そのあらゆる太陽、銀河をふくめて無であるとし、これらのことが仏教徒における般若波羅蜜多、「一切の認識を超えた世界」であると結んである。ショーペンハウアーの「死」への対処のしかたは、無明によって死を含む苦がもたらされ、無明からの脱却によって苦から解放があるとする原始仏教以来の伝統的救済観に近い。

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