源氏物語は反省の文学源氏物語 折口信夫
これを読んで、紫式部は藤原道長と一族の罪障を光源氏の物語を依り代にして移し替える行為と思えた。つまり生身の罪障を物語の主人公に移すという考え方があったのではないかと。
藤原道長は「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば」という傲慢な歌を詠む男だ、数々の罪障を背負っている自覚があっただろう。紫式部は藤原道長との阿吽の呼吸の中で藤原道長をモデルとして書き、藤原道長もそのことをわかっていて危険な物語を書くことを許し、喜んだのだろう。
そんな感想を持った。
皇族から臣下に降下した人をすべて、源氏と汎称する様になった。人がら容貌も優れていた人の物語「源氏の物語」「ひかる源氏の物語」
藤原道長をモデルにおいている 光源氏の生活 道長の生活ぶりうつし出したもの
弘徽殿も強力なキャラで物語当時の後宮や摂関家のありかたを示す典型的人物として描かれる。醍醐天皇中宮藤原穏子をモデルとしたと言われている。
事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司を他に移させたまひて、上局に賜はす。その恨みましてやらむ方なし。「与謝野晶子 源氏物語」
光源氏 過ちを犯した事に対して厳しく反省して、次第に神に近づこうとするが柏木を目力が殺してしまうなど、神になりきれない晩年も描かれる。単なる改悛物語ではない。
源氏物語は、我々が、更に良い生活をするための、反省の目標として書かれていた→藤原道長の滅罪の物語として書かれたと考えるのが妥当ではないか。藤原道長になり替わって反省し神に近づく。つまり物語が藤原道長を解毒する。また周囲に藤原道長の生き方を無毒化し正当化して見せる。
引用メモ
因果応報 背景に生きている信仰と道徳 事件が源氏の心に反省を強いる 源氏が若い頃犯した恋愛の上の過ちが、初老になる頃、其最若い愛人の上に同じ形で起って来る。
源氏が、権勢の上の敵人とも言うべき致仕太政大臣の娘を自分の子として、宮廷に進めようとする。其時になって、此二人の後備えとも言うべき貴族に、途から奪取せられてしまう。
源氏という人間の特殊な性格と運命 作者が勝手にぷろっとを持って作った型ではなく、源氏の無意識の進路に沿って書いている
源氏物語の構造
家の問題 源氏の二十歳前に起って来る 味方となって大切にしてくれる家 宿命的に憎んでいる家との対立 左大臣家 藤原氏を考えている 後者は右大臣家。
女の人たちの嫉妬心を刺戟して、皆から憎まれ、殊に其中の二人三人の女性の咒を受けたらしくて、病死してしまう。
左大臣家の娘葵上の婿となる。もともと左大臣の北の方は、源氏の父桐壺帝の妹君が降嫁されたのであって、伯母に当る
源氏十七歳の夏 雨夜の階定「雨夜の品定め」の段で、三人の先輩並びに同輩の話合い 中流階級の女性が恋愛的に意味深いもの 源氏の自由な恋愛生活が始る
(カラマゾフの兄弟 父親はどんな乞食女でも抱くと豪語する)
右大臣家 長女が源氏の父君桐壺帝よりも年上の女性 弘徽殿女御と言われた。明示はしていないが桐壺更衣を咒い殺す風に。
右大臣家六番目の娘朧月夜尚侍に源氏がおとずれしていた 源氏は須磨へ追放される
源氏の父桐壺帝亡霊が朱雀院の夢に現れ嘆かれる 間もなく京へ呼び返される。
源氏の勢力が俄にわかに盛んになり、右大臣家との争いは終る。
源氏の子供達 本とうの子二人 男は葵上との間に生れた夕霧、女は明石上の生んだ明石中宮
養子二人 秋好中宮 六条御息所と先帝の皇太子との間の子である。六条御息所は生前は生霊となって葵の上を苦しめ、死後は死霊となって、源氏の二度目の北の方紫の上を苦しめる。源氏は其怨霊を慰めるため其娘を養い娘として、中宮にまでする
いま一人は、源氏が雨夜階定後に得た新しい恋人の夕顔が、それより先に頭中将との間に生んでいた子玉鬘
或古屋敷で一夜を過すと、怨霊が出て来て、夕顔をとり殺してしまう。九州へ下ったが、二十になって又京都へ上って来て、源氏に育はぐくまれる事になる。
源氏の長男夕霧と内大臣の娘雲井雁との恋愛問題
源氏は玉鬘を宮中へ上げて尚侍にしようと考えている 自分の手もとに置きたいと言うほのかな恋心も 実父に打ち明けねばならぬ気の進まぬ事
玉鬘 鬚黒ノ大将に奪われ、其妻 内大臣の計画
事件の流れの中で、源氏は清らかな心で振舞ったり、時には何となく動いて来る人間悪の衝動に揺られたり、非凡な人であったり、平凡になったりして動揺して行く。
表面は源氏の実子、薫君 男の子 母は源氏三番目の北の方 朱雀院の御子女三宮
内大臣の長男柏木と女三宮との間に生れた子
源氏は柏木を呼んで、酔い倒れるまで無理強いに酒をすすめる。柏木は其が原因で病死する。源氏が手を下さずして殺した事になる訣わけだ。殺すという一歩手前まで迫った源氏の心を、はっきりと書いたのが、若菜の巻の練熟した技術
源氏が、四十を過ぎて、そんな悪い面を表してくる。
大きく博く又、最人間的な、神と一重の境まで行って引き返すといった人間の悲しさを書いている。
源氏物語は人間が大きな苦しみに耐え通してゆく姿 日本人の最深い反省を書いた反省の書であるが、藤原道長の業の依り代ではないか。
形代(かたしろ)は神霊が依り憑く依り代の一種で身代わり信仰により人間の身代わりとされた。源氏物語が藤原道長の業の依り代として書かれたと考えてもさほど不自然ではない。
村上春樹の「1Q84」でも天吾は物語を書いて青豆を救済する。
ドストエフスキーも「カラマゾフの兄弟」の物語で自らを救済する。わたしにはドミトリーがドストエフスキーの投影のように思える。
日本にも世界にも形代(かたしろ)物語の系譜が無意識のうちにある、そのように感じた。
反省の文学源氏物語 折口信夫 で直接的に言及しているのではないが、読んでそう感じた。