7章は前半結婚の比喩と、後半内在する罪の問題となっている。
結婚した女は夫の生存中は結ばれているが、死去すれば他の男と結ばれる自由があるというのはよく理解できる。この比喩は新しくキリストと結ばれる自由を示している。ここで律法が更新される。
これと後半の罪の内在の問題とどうつながるのか。
ここで主語が「わたし」に変る。パウロの内在する罪の告白である。これは律法に結ばれた心の「二律背反」である。この苦悩を持たない者はいないだろう。
問われるのはキリスト者がこの告白をすることだ。ここから「罪を犯し続けるキリスト者」という教理が生まれる。
しかしこれは違う。
キリスト者が福音から律法へと脱落する時に起きる告白である。福音信仰が律法に化けるのである。変質するといってもよい。
真にキリストと結ばれているなら、この苦悩から解放される。パウロは律法下に転落する人間性を明らかにしているのだ。
キリスト者は馬の背に乗っている状態だという。いつでも転落する危険性をもっている。
福音信仰の手綱をしっかりもって転落しないよう目を覚ましていたい。
写真 オリブ山からエルサレム城壁を望む
結婚した女は夫の生存中は結ばれているが、死去すれば他の男と結ばれる自由があるというのはよく理解できる。この比喩は新しくキリストと結ばれる自由を示している。ここで律法が更新される。
これと後半の罪の内在の問題とどうつながるのか。
ここで主語が「わたし」に変る。パウロの内在する罪の告白である。これは律法に結ばれた心の「二律背反」である。この苦悩を持たない者はいないだろう。
問われるのはキリスト者がこの告白をすることだ。ここから「罪を犯し続けるキリスト者」という教理が生まれる。
しかしこれは違う。
キリスト者が福音から律法へと脱落する時に起きる告白である。福音信仰が律法に化けるのである。変質するといってもよい。
真にキリストと結ばれているなら、この苦悩から解放される。パウロは律法下に転落する人間性を明らかにしているのだ。
キリスト者は馬の背に乗っている状態だという。いつでも転落する危険性をもっている。
福音信仰の手綱をしっかりもって転落しないよう目を覚ましていたい。
写真 オリブ山からエルサレム城壁を望む