6章で裁判ざたになっている事柄は、教会内で処理できる信徒間の問題であろう。世俗の裁判を否定している訳ではない。9~10節にあるような人物がいたが、しかし今は11節「神の霊によって洗われ聖なる者とされ、義とされています」とある。現代のキリストの共同体では考えられないような不道徳な状況に晒されていたのだ。
12節以下「聖霊の住まいである体」について、個人倫理的に理解し説く向きがあるが、熟読すると少し違う。
15節「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」
「自分の体」がキリストの体の一部ということは、体なる共同体の中に生きる部分ということになる。個人問題として解決する不倫(娼婦と交わる)でなく、体全体がこの罪をきよめねばならない。なぜなら体は聖霊が宿る神殿(19節)だから。
ホーリネスの教会形成である。
ここでパウロはコリントの女神アフロディテ礼拝を「娼婦と交わる」と比喩的に述べたかも知れない。
ヨハネ福音書15章にある農夫がぶどうの樹の無駄な枝を切り捨てるのと同じである。
結論として求められるのは、20節である。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
(写真 六日戦争の時の弾痕が城門にある)
12節以下「聖霊の住まいである体」について、個人倫理的に理解し説く向きがあるが、熟読すると少し違う。
15節「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。」
「自分の体」がキリストの体の一部ということは、体なる共同体の中に生きる部分ということになる。個人問題として解決する不倫(娼婦と交わる)でなく、体全体がこの罪をきよめねばならない。なぜなら体は聖霊が宿る神殿(19節)だから。
ホーリネスの教会形成である。
ここでパウロはコリントの女神アフロディテ礼拝を「娼婦と交わる」と比喩的に述べたかも知れない。
ヨハネ福音書15章にある農夫がぶどうの樹の無駄な枝を切り捨てるのと同じである。
結論として求められるのは、20節である。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」
(写真 六日戦争の時の弾痕が城門にある)