日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

”霊”とは

2006-05-14 | Weblog
 2章13節「 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、"霊"に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」
 「これについて語る」とはキリストの十字架の福音を指す。その宣教はすべて神の霊の働きに依るということである。理解や判断が人の知恵を超えているのは事実でる。
 知識として理解し判断しようとしてキリスト信仰を放棄する求道者が如何に多いことか。聖書が判らないというのも同じである。
 ここで整理して置く必要があるのは「霊的」ということ。これは厳密に唯一なる神の霊であり、諸霊信仰の風土にある日本人の感覚で「霊」というのとは異なる。
 ギリシャ語の霊を英語でthe Spiritと訳すが、スピリットを「精神」と和訳した処に混乱が起きている。英語にsoulとかghostという言葉があるが、霊魂とか亡霊とか幽霊と和訳される。霊と魂とどう区別させるのか。議論百出となろう。
 因みに鎮魂祭などキリスト者には意味不明の事柄である。
 「精神主義」も、曖昧糢糊とした言葉だ。日本人のいう精神性はspiritualityと違うとヨーロッパの宗教家から指摘されている。
 ここでは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」第1コリント12章3節とだけ記しておく。
 (写真 万国民の教会 右側ヨハネ像)