11章前半は頭にかぶりものをする是非が問われているが、現代人には意味がないことであろう。ユダヤ人社会では女はかぶり物をしたが、ギリシャ社会ではなかったので、意見の衝突があったのだろう。これは16節「習慣」とすれば、地域や時代で、いろいろ異なる習慣があるので、囚われる必要はないだろう。
かぶり物のことで3節「男の頭は神、女の頭は男」と説いているが、これは創世記2章18、22節「男のあばら骨の一部でふさわしい助け手を造った」という神話的表現から創造の秩序を述べたものでる。パウロはこれに対し9節で男女の共助を書いている。
後半は最後の晩餐について記された貴重な聖書箇所である。これは教会の聖餐式のテキストとなっている。ここでも18節「仲間割れ」、21節「各自が勝手に~」とか、聖餐を混乱させる事態が起きていたようだ。ここでも29節「わきまえずに飲み食いする」秩序の乱れが伺える。
「神の教会」(22節)の証しされる聖餐が求められる。
そしてこれは遠い昔のことではなく、今直面している実際問題-知る人ぞ知る-である。
(写真 二階座敷 明り取り窓・ステンドガラス)
かぶり物のことで3節「男の頭は神、女の頭は男」と説いているが、これは創世記2章18、22節「男のあばら骨の一部でふさわしい助け手を造った」という神話的表現から創造の秩序を述べたものでる。パウロはこれに対し9節で男女の共助を書いている。
後半は最後の晩餐について記された貴重な聖書箇所である。これは教会の聖餐式のテキストとなっている。ここでも18節「仲間割れ」、21節「各自が勝手に~」とか、聖餐を混乱させる事態が起きていたようだ。ここでも29節「わきまえずに飲み食いする」秩序の乱れが伺える。
「神の教会」(22節)の証しされる聖餐が求められる。
そしてこれは遠い昔のことではなく、今直面している実際問題-知る人ぞ知る-である。
(写真 二階座敷 明り取り窓・ステンドガラス)