12章はキリストの体と一人一人がその部分という比喩である。中心点は25~27節である。
「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
体に分裂が起らず、各部分が互いに配慮し合うという健全な信仰共同体が示される。これは理想だろうか。
努力目標ではない。
組織体としてそれぞれの機能が十分に働くには全体を統一しているもの、身体でいえば、血液とか神経である。「キリストの体」にはそれが前提となっている。
6~11節にある「霊の働き」が全体を統一している血液、あるいは神経である。
この霊(聖霊)が働くところに分裂は起きない。各部分は互いに配慮し合うことになる。
様々な分裂や対立があるのは、キリストの共同体とはいえない。
コリントの教会が、そのモデルとして示されている。
(写真 復活の丘に向かう 庭園)
「それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」
体に分裂が起らず、各部分が互いに配慮し合うという健全な信仰共同体が示される。これは理想だろうか。
努力目標ではない。
組織体としてそれぞれの機能が十分に働くには全体を統一しているもの、身体でいえば、血液とか神経である。「キリストの体」にはそれが前提となっている。
6~11節にある「霊の働き」が全体を統一している血液、あるいは神経である。
この霊(聖霊)が働くところに分裂は起きない。各部分は互いに配慮し合うことになる。
様々な分裂や対立があるのは、キリストの共同体とはいえない。
コリントの教会が、そのモデルとして示されている。
(写真 復活の丘に向かう 庭園)