日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

house-keeper

2006-05-16 | Weblog
 4章は藪に迷い込んだような処であるが、この手紙の背景が伺える。
 コリント教会の中にパウロを批判する者がいたようだ。彼はもう来ないと言っている(18節)。高ぶって裁き合う様なことが起きている(3、7節)。金持ちの王様が死刑囚を見世物のようにして侮辱するという比喩(8~9節)は彼が如何に傷ついていたかを物語る。しかし彼はテモテを愛の使者として派遣する(21節)。
 ここで示されるのは、1~2節である。
 「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」
 「管理者」は英訳ではservant、stewardとなっている。原語は家に関わる働きのようなのでhouse-keeper(家令・家僕)がよい。ルカ福音書12章に「忠実で賢い管理人」(42節)とあるが、これである。
 神の家族のあれこれ面倒を見るハウスキーパーのパウロが浮かんでくる。忍耐し心を砕いて忠実に仕える姿を見習いたいと思う。
(写真 エルサレムから西斜面オリブ山を見る)

神の畑と神の建物

2006-05-15 | Weblog
 3章9節「 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」
 神の働きに協同する者として農作業と宮大工という二つの比喩が挙げられている。前者では種を蒔き手入れして水を注ぎ、成長と収獲を期待する(6~8節)。畑で野菜作りをしているので、これは判りやすい。
 しかし実際は土壌作りと天候が収獲に影響する。自然農法といわれるが、自然ではなく見えないところで働かれるお方に99パーセント依存している。宣教の働きにこの自覚が求められる。
 後者の宮大工は誇り高い熟練した建築家である。ここではイエスを土台とした神の神殿である(10~11節)。
 建築素材はいろいろある。「火の中をくぐり抜ける」(15節)という意味がよく判らないが、建築には当然様々な災害が想定されている。最近の耐震構造の話題はその一例だろう。
 パウロは熟練した建築家と自ら述べているが、中々難しい。
 草や藁(12節)を用いているような宮大工ではないかと反省している。
 (写真 エルサレム城外のユダヤ人墓地)

”霊”とは

2006-05-14 | Weblog
 2章13節「 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、"霊"に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」
 「これについて語る」とはキリストの十字架の福音を指す。その宣教はすべて神の霊の働きに依るということである。理解や判断が人の知恵を超えているのは事実でる。
 知識として理解し判断しようとしてキリスト信仰を放棄する求道者が如何に多いことか。聖書が判らないというのも同じである。
 ここで整理して置く必要があるのは「霊的」ということ。これは厳密に唯一なる神の霊であり、諸霊信仰の風土にある日本人の感覚で「霊」というのとは異なる。
 ギリシャ語の霊を英語でthe Spiritと訳すが、スピリットを「精神」と和訳した処に混乱が起きている。英語にsoulとかghostという言葉があるが、霊魂とか亡霊とか幽霊と和訳される。霊と魂とどう区別させるのか。議論百出となろう。
 因みに鎮魂祭などキリスト者には意味不明の事柄である。
 「精神主義」も、曖昧糢糊とした言葉だ。日本人のいう精神性はspiritualityと違うとヨーロッパの宗教家から指摘されている。
 ここでは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」第1コリント12章3節とだけ記しておく。
 (写真 万国民の教会 右側ヨハネ像)
  

十字架の言葉

2006-05-13 | Weblog
 コリントの信徒への手紙は具体的なキリストの教会を描き出してくれる。歴史を越えて現代の教会に語りかける。
 1章18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
 「十字架の言葉」とは、イエス・キリストの出来事を指す。30節には「神の知恵となり義と聖と贖いとなられた」とある。
 これが世の知恵ある者、賢い者と自負する人には愚かとなる。
 しかし神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救う(21節)。
 キリストの教会は、世の知恵ある人々に迎合しこの姿勢を変えたがる。つまり十字架の言葉を語らない。
 ある牧師の30分程の説教を聞いたが、薀蓄を傾けた時事評論で終始しキリストが殆んど出てこなかった。
 これでは味の抜けた塩、机下に置いた灯になってしまう。
 (万国民の教会 左 マタイ)  

安否を問う

2006-05-12 | Weblog
 ローマ16章は個人的挨拶とある。色々な人名が出てくるが、名前に関して注解を読むと非常に興味深いものであるが、省略したい。
 「~によろしく」とあるが、これは「ご挨拶」ということだろう。元訳では「安否を問う」となっていた。
 教会では「問安」ということがある。安否を問うために訪ねて挨拶を交わすことで、愛と信頼関係の中で行なわれる。
 先般会議で、来訪した問安使の挨拶を、ある事情から多数決で断るという前代未聞のことが起きた。相手を攻めたり、批判したりしては、問安の挨拶は出来なかったであろう。
 教会が病んでいるように思われ、重い気持ちで帰った。
 きりストの教会は相互に「~どうぞ宜しく」と言える信仰共同体である。
 (写真 万国民の教会 マルコとルカの立像)  

あふれる祝福

2006-05-11 | Weblog
 15章28~29節「あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。」
 彼が実際にイスパニアに伝道の足を運んだ記録はない。しかし手紙を執筆した時、ローマ訪問自体が困難な状況と考えられたであろうのに、更に地中海はるか西方イベリア半島を目指していたとは驚きである。
 15章に5節「忍耐と慰めの神」、13節「希望の源である神」、33節「平和の源である神」に気付かされる。
 この「~源なる神」とは、パウロの「キリストの祝福をあふれるほど」ということばと結び付いていよう。
 溢れる希望、溢れる平和、溢れる祝福、 これが世界への福音宣教となったといえよう。
 

共に食事をする

2006-05-10 | Weblog
 教区の会議に出席していたので、新規投稿ができなかった。三日分をまとめておきたいと思う。
 14章1節「信仰の弱い人を受け入れなさい」とある。ここでは食事に関する見解の違いが扱われている。
 偶像礼拝で供えられた肉を神殿から貰い受けて食べていた者たちがいたようだ。それに何の意味もないと頓着しないで食べていると、それはおかしい、汚れているから食べるべきではないと言う者がいた。そこで食べない人を軽蔑し、食べる人を裁くという訳である。
 ここでは弱い人とは食べない者を指しているが、パウロは結論として弱い人を受け入れる態度を表わして肉は食べないほうが望ましい(21節)と述べている。
 神の国は、皆が和気藹々と食事する交わりに譬えられるが、ここではそれが失われていたのである。
 17節「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」とある。
 

上にたつ権威とは

2006-05-09 | Weblog
 13章1節に「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」とある。
 問題は上に立つ権威が神に由来しないものはないとあるが、神に由来しない権威者が起きる。歴史はしばしばこの神に由来しない権威者の横暴に民は苦しめられ虐げられた。早い話がローマ帝国の皇帝がそうだ。
 問題なのは、2節「神の定め」と4節「神に仕える者」ということである。
 この場合の神の存在が、出エジプト記20章に示されている事と同一であるかだ。
 つまり人が造り出す偶像。人が神になる偶像。
 21世紀の今日もこれは問われる。
 

キリストの祭壇

2006-05-08 | Weblog
 12章1節「こうゆうわけで」とは11章までを受けた接続詞である。
 一般によく知られるようにパウロの手紙は後半に実践的な勧めがある。ここでも同じだ。
 「~なさい」が何回もある。1節から21節を区切って語ると10数回になる。それ程内容が豊かだ。その最初は1節、共同訳より口語訳がよい。
 「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」
 イスラエルの神殿礼拝を背景に、キリストの福音に生かされている者の霊的礼拝を明らかにする。
 これはキリストの祭壇に全生活を捧げるキリスト者の日々である。
 そこから6~8節「預言、奉仕、教え、施し、指導、慈善」が出てくる。
 キリストと一つにされているから、すべての点で相互、共生となる。
 (写真 イエス涙された教会内部 雌鶏のレリーフ)

 
 
 

万民の救い

2006-05-07 | Weblog
 11章もイスラエルの救いの問題である。23節に
 「 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」とある。
 キリスト教で問題になるのは二重予定説である。これは神の救いを制限する教理に陥る。救いの出来事は神の側の選びで、人はこれを制限することは出来ない。問題は滅びに選ばれているという異説だ。
 これに対するのが、万民救済説となる。この欠陥はいずれは人々は神の救いに与かるのだから何をしても自由、福音宣教ではなく、日常の問題に専念すればよいという異説。
 本章からこの選びの事が考察される。
 神の聖意はどこにあるかが問われねばならない。
 25、26節には異邦人全体の救いと全イスラエルの救いが語られる。そして32節で神はすべての人を憐れみの対象としているとある。
 「神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くす」ことはできない。
 すべての人の救いを信じて福音の業に尽くすことである。
 (写真 オリーブの古木)

イエスは主

2006-05-06 | Weblog
10章9節「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」
 これは日キ教団式文で、バプテスマを受ける時誓約をする中に引用される聖句である。
 「主」とは、わたしにとってこの世で唯一絶対なるお方、更に復活によって罪の死から解放されるお方を示す。
 ここにキリスト者の信仰告白がある。「イエスは主」Jesus is Lordとの三単語に重さと響きがある。
 かりそめには言えない。キリスト者は一生懸命(この日本語表現は意味がある)になる。
 この告白で殉教した人々が数知れなかった事実を歴史が物語っている。
 (写真 主の泣かれた教会 Dominus Flevit )
 
 

神の主権

2006-05-05 | Weblog
 9章はイスラエルに対する神の計画は人の判断を超えることが示される。
 18節「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」
 神の絶対的主権ということか。
 これが焼き物師と粘土(21節)で表現される。
 要は、憐れみの器として召し出されているという確信に立つことである(24節)

霊によってアッバ父と呼ぶ

2006-05-04 | Weblog
 8章9節「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」
 霊の支配下とは、2節「イエスによって命をもたらす霊の法則」に従うことである。法則はどこでもいつでも、そしてだれに対しても変らないものである。
 キリスト信仰をこのように受け入れると自由である。
 泳ぐことが全く出来ない者でも、浮き輪があれば安心して自由に水の中に入れるのと同じである。つまり浮力という法則によるからである。

 15節「 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」
 キリスト者の祈りは、ここが原点である。御子が御父と会話するように祈る。
 人に聞かせるような祈りではない。
 八木重吉は、赤子の泣き声を、あれは神を呼んでるんだよと詠っている。そんな自由な自然な祈りが出来ていないことを痛感する。

律法下に転落

2006-05-03 | Weblog
 7章は前半結婚の比喩と、後半内在する罪の問題となっている。
結婚した女は夫の生存中は結ばれているが、死去すれば他の男と結ばれる自由があるというのはよく理解できる。この比喩は新しくキリストと結ばれる自由を示している。ここで律法が更新される。
 これと後半の罪の内在の問題とどうつながるのか。
 ここで主語が「わたし」に変る。パウロの内在する罪の告白である。これは律法に結ばれた心の「二律背反」である。この苦悩を持たない者はいないだろう。
 問われるのはキリスト者がこの告白をすることだ。ここから「罪を犯し続けるキリスト者」という教理が生まれる。
 しかしこれは違う。
 キリスト者が福音から律法へと脱落する時に起きる告白である。福音信仰が律法に化けるのである。変質するといってもよい。

 真にキリストと結ばれているなら、この苦悩から解放される。パウロは律法下に転落する人間性を明らかにしているのだ。
キリスト者は馬の背に乗っている状態だという。いつでも転落する危険性をもっている。
 福音信仰の手綱をしっかりもって転落しないよう目を覚ましていたい。
 写真 オリブ山からエルサレム城壁を望む

帳尻

2006-05-02 | Weblog
 この手紙を1章づつ読み進むのは難しいことを感じてきたが、本章などは迷路の中に入っているようだ。内村鑑三がこの手紙を60回にわたって講義している程の内容である。
 したがってピンポイントで記すほかない。
 11節「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
 この「考えなさい」は口語訳「認むべきである」がよい。英語訳は「勘定する」である。
 このギリシャ語は本書に多く出てくる義と「認める」と同じである。
 計算していて帳尻が合わないでマイナスという時、几帳面な者は徹底して調べさせるところだが、このボスはOKを出すのである。
 何故なのか。欠損のまま、丸ごと彼は受け入れるからだ。
 これは神の前に全存在が受け入れられている状態で、22節「罪から解放されて神の奴隷となり」ということでる。
 写真 ユダヤ教徒の墓