以前から日本語がだんだん変質していることを危惧しています。
日本語に異変をもたらしてきた元凶の一つが若者言葉と携帯電話・スマホ・SNSなどの普及にあるように思います。言葉が変化したり新語が生まれ古臭い言葉が失われること自体は有りうべき事柄です。ワタシ達の世界で不変というものがあるとしたら「物事はすべてが変わる」という概念かもしれないとさえ思います。
しかし、大事にすべきものや守るべき文化、習慣があるのも事実です。それは言語にも通じる考え方で、日本語を話す以上は、数百年も前から使われた言葉は今でもその意味を理解されるべきだと思いますね。しかし、先日何気なしに見た1960年以前の日本映画「大菩薩峠」は、片岡千恵蔵さん演じる机龍之介さんなどのセリフは、理解できないほど時代がかっていて、しかも言語不明瞭。時代劇なので時代考証した言葉とはいえ、日本語とは思えないほどの難解なせりふ回しでありました。
若い娘の語彙能力のなさは驚異的といってもいいのです。彼女たちは本も読まず、字も書かず、ひたすらスマホに表示される予想単語を選ぶ作業にたけております。漢字不要、難しい表現も使わず、スタンプや絵文字の羅列を好むようです。一方で、仲間同士・若者同士でしか通用しない珍妙な言い方を多用するらしいのですが、残念ながら当方は関係なく触れる機会もありません。しかし「チョー」という接頭語はもはや共通語として浸透しているようです。意味は「超」から派生して非常にと意味を強める表現で形容詞や動詞の頭につけます。
先日民放のニュース番組を見ていたらアナウンサーが盛んに「サブスク」という言葉を多発していました。サブスクがどなたもご存じの共通語であるように振舞っていて、とうとう最後までその用語の説明することがありませんでした。ワタシは残念ながら「サブスク」をその時まで理解しておりませんでした。
ネットで調べてみると英語で「サブスクリプション(subscription) 」訳すと月単位などの定期継続契約を指すようです。昔で言えばNHK受信料や新聞購読、近年ではヤクルトの定期購入も該当しますが、以前はサブスクリプションなどとは言わず、月ぎめとか「継続でとる」という表現で間に合うし、だれでも理解できたのです。
最近では、これに代わってネット上でのサービスを継続契約し割安で利用できるサービスが増えました。ワタシも、ずいぶん前からWOWWOWの契約をしておりますし、パソコンのセキュリティーソフト「ウィルスバスター」もその部類でありましょう。せがれに勧められてDAZNというのに入っております。どこから料金を引かれているかも定かではありませんが。それらを称してサブスクと言い換える必要を感じません。日本人が知らなかったサービスやコンセプト、あるいは世界的にもそれまで存在しなかった発明品や機能が出てくれば英語もかまわないのです。しかし、日本語で十分説明できるものをわざと横文字にするというのが、マスメディアや上級国民の証だと思っているのでしょうか。
しかし・・、だから英語で読み替えて、しかも略してサブスクと称する必然性があるのか?それだけ社会にその言葉や概念が浸透して準日本語になっているのか?という疑問を払しょくできないのです。どうして誰にも理解できる「定期購買(視聴)契約」ではいけないのか。サブスクをきちんと説明できる人間・即座に理解できる人間が世の中の半数以上居るとは思えないのです。
最先端のニュースや情報を提供するという意気込みを否定するものではありません。しかし、ワタシのようなブログやSNSを通じて一年中社会の動き若者の動静を知る立場にある人間でさえ、にわかにピンとこないような言葉をあたかも流行語・トレンディーなシンボルとして使いたがるマスコミの姿勢はどうかと思うのです。
きれいな洋服を着たアナウンサーやアイドル然とした女性が出てきて他愛もないかけあいで報道番組を作り、BSなどはほぼすべてが再放送か古い映画、CMは本放送よりも長い時間を使って延々と通販の宣伝であります。公共の電波を使って世田谷自然食品やジャパネットの甲高い声の商品説明・絶叫を聞かされるとほとほと嫌気がさしますね。
ちょっと古いですが、人気の連続ドラマから「カベドン」という言葉があるのもずいぶん後になって知りましたし、それはその番組を見ていない半数以上の視聴者にとって共通することでしょう。鎌倉のバスケットの聖地で若者が集まるとか、NHKの大河ドラマのキャラクターがどうだ、とか「みんな知っていて当然」といった態度で放送するのをみて不思議でなりません。
大相撲を一体何人の人間が見ているか、それを知っていて夕方のメイン放送に据えているNHKの姿勢だってどうかと思います。視聴率は20%前後だと聞きますが、そのCHに合わせているのと実際に相撲を見ているかは別ものであります。晩御飯の支度をする奥さんは台所にいてテレビを誰も見ていない、そんなことのほうが多いのではないかと。
日本人の半数はNHKを週5分も見ていない、という調査報告があるくらいなのです。
昭和の時代は、娯楽が少なくテレビで提供される情報が大変ありがたかったのです。視聴率50%を超えるお化け番組もありました。例えば紅白歌合戦は1962年頃は80%(笑)、それがほぼ一貫して減少し、60年後の2022年には31%まで落ち込んでいます。これとて大晦日にそれだけのみんながNHKにかじりついているとは到底思えません。何十年も前の演歌や歌謡曲を歌った年老いて声も出ないような歌手など私ですら見たくありません。そもそも、男女平等で差別のない社会という現在に「男女が分かれて対抗して合戦する」という時代錯誤のコンセプトを、時代を先取りするはずの放送局が嬉々として放送することに、どうして疑問を持たないのか不思議でなりません。
一方、大相撲の力士は多くが若くして「糖尿病」だそうです。国技館の地下には専用の診療所があって、インシュリン注射をうけながら相撲をとるそうであります。こういうのは職業病とは言いません。体を不自然に大きくして「奇形」の力士をみせる「見世物小屋」であり、彼らはそのために一般人よりはるかに短命であります。最近の統計では62歳くらいだそうです。こういうのは人権上許されるのでしょうか?日本の伝統文化だから、NHKの看板番組だからいいのでしょうか?男性の平均寿命を20歳も縮めることの罪は・・・
だからNHKも嫌い、民放も観たくない、一つも面白い番組がない、というのが毎晩交わす家内との会話になっているのです。
このような世の中に誰がしたのでしょう。やはり政治ではないでしょうか?
その意味では、私たちにも責任の一端はあることを承知しています。
早い話、お馬鹿な政治家を選ぶ国民や、選挙にも行かない人が多いために、チェック機能や自浄能力すらない、やりたい放題の自民党政治が成り立つのです。
早く国民の多くの方々が、本記事に書かれているような疑問に気づくようでないと、ますます世界で落ちこぼれた(いまも進行形ですが・・・)恥ずかしい国になってしまいますね。
地方選は、自民党が主体の得票になりましたが、それでも自公政権に愛想を尽かせ、維新など新たな政党や新勢力に期待する民意の流れも感じましたね。
ワタシごときはインフルエンサーにもなりえませんが、小さな小さな努力や個々人の行動が日本をよくする原動力となりうることを信じようと思います。