ワタシが篆刻を始めたきっかけは、書道の作品作りにありました。わが師藤原先生から作品に入れる「落款」用の印を自分で彫ることを勧められました。「篆刻印は作品の一部、白い紙に黒い墨の書があり、その中に朱の印が入って初めて作品になります。」と書道の練習の一つと教わったのです。しかし目がぼやけて手元はっきりせず、痛みとしびれがある手指ではまともな印が彫れませんでした。それでネットで見つけた平塚にお店を開く篆刻家さんに「姓名印」作成を依頼したのです。しかし3万円というお値段に、「これはたまったもんじゃない、自作せねば」と心を改めたのが昨年暮れの事、篆刻を本格的に始めたのです。この篆刻家が杉山煕雪さんで、何度か世間話をしていて師匠が「河野隆さん」と聞きました。誰だ?そんな人は知りません。
さてそれから篆刻に取り組んで9か月、印材を求めてヤフオクで集めた総数は2000個以上になります。半分はすでに刻字している使用印、あと半分は未使用印であります。使用印のほとんどは印面を紙やすりなどですり潰して再利用するのですが、名のある篆刻家さんによる印はもったいなくてそのまま保管するものもあります。自分が篆刻するのに参考になりますし、ささやかなコレクションとなりますね。そんなプロの印は、たいてい側面に作家名などを刻みます。その「側款」に「滔天 刻」の文字を見つけました。大学の先生でもある篆刻家綿引滔天さんであります。
話は飛びますが、ワタシの銀行勤めの時代の上司の一人から、ゴルフ繋がりでたまにお誘いが来ます。その人から、数年前にゴルフの前日、急にプレーのキャンセルの連絡が入りました。彼のお姉さんの旦那さんが「河野隆」という著名な篆刻家ですが、亡くなったのでゴルフに行けないというのです。そんな話は初耳でしたが、すでにワタシも書道に取り組んでいたので記憶には残っておりました。
それで、先日その先輩から、篆刻を勉強しているので参考になれば、と河野さんの遺作展の案内や小冊子を頂いたのですが、その入場案内に書かれた代表者のお名前がなんと、綿引滔天さんでした。もしやと思ってネットで調べたら、河野さんは、全日本篆刻連盟の前会長、綿引さんはその役員でした。篆刻家の加盟する団体としては日本篆刻家協会とこの全日本篆刻連盟の2団体のようです。更に、平塚の件の篆刻家杉山さんのHPを見ると「わが師」が河野隆さんだったのです。
ここで、全部繋がりました。ワタシが篆刻を始めるきっかけとなった篆刻家の師が河野さんで河野さんは日本有数の書道家、その弟子である滔天さんの彫った印が手元にあり、河野さんはかつての上司の義兄であった、ということだったのです。因みに5年前に書道を一から始めたワタシにとって、書道家や篆刻家名には全く無知で、河野さんの名前など知る由もなかったのです。
河野隆さんは、生前、日本の代表的な書道家・篆刻家であったのですが、享年69歳で4年前に他界しています。雅号は「鷹之」、 老境に在ってこれからが枯淡の境地に入るところですから、生きていればさぞかし名作を生み功績を残しただろうと思うと残念な気もします。もしかしたら先輩とのご縁で指導して貰えたかもしれないのです。
篆刻は、わずか数センチ内外の「方寸」の世界にある芸術・美であります。学ぶほどに、その芸術性には限りない広がりや奥の深さを感じます。その一方で、この日本を代表する河野先生の関係者が、ワタシ程度の人間にも身近に感じられるのが、この篆刻の世界の狭さを物語っています。日本篆刻家協会(関西系)の会員が約1000名、全日本篆刻連盟(関東系)が300人足らずであります。団体に属さないフリーの篆刻家さんもいるでしょうが、プロの篆刻家さんはおそらく2,3千人という総数であろうと推測できます。
その数の少なさが、プロになる難しさ「狭き門」を意味するのか、篆刻家が生業としては成り立ちにくいためか、あるいはそもそも篆刻人口が少ないのを反映しているのかはわかりません。書道では、主な団体だけで20以上あり、書道家(師範含め)さんは数10万人はいるに違いありません。少なくとも書道に比べれば篆刻家への倍率が低いのではなかろうか、というのが、篆刻家を志望する浅はかなワタシの読みであります(;^_^A。
こうした書道・篆刻に関わる人たちの数的統計値はほとんどありません。文科省の怠慢と、日本人の書芸に対する興味が薄れていせいでしょう。残念なことですね。
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