美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

フクシマが復旧・復興するための本当の礎(その2) (イザ!ブログ 2013・4・8,9,11,14)

2013年12月12日 18時10分43秒 | 原発
放射能への過剰反応に基づく、非現実的で厳しすぎる基準は、食品に関するものにとどまりません。「計画的避難区域」の設定基準もまた合理性に乏しいものである疑いが濃厚です。政府による「計画的避難区域」の設定基準は、年間20ミリシーベルトです。これは、ICRP(国際放射線防護委員会)が提唱している国際基準の年間20~100ミリシーベルトの下限を採ったものです。国民の放射能に対する社会的アレルギー反応を斟酌すれば、致し方のない設定基準である、とも言えそうな気もします。にもかかわらずなにゆえに、年間20ミリシーベルトが合理性に乏しいと言えるのでしょうか。

それは、先のUNSCEAR(国連原子放射能線影響科学委員会)の報告のなかの次の文言によります。報告書ははっきりと「0.1Sv(10 rem)以下の被曝に誤ってLNT仮説を当てはめたことによる経済的・心理的負担は、ただでさえストレスを感じていた日本国民には著しく有害で、今後もそれを続けることは犯罪行為といえる。当然ながら、年間0.1Sv(年10 rem)以下では被曝量が2倍になっても発がん率は2倍にならない。人体への影響はまったくない」と言っているのです。UNSCEARに集う世界水準の科学者たちは、職業的な良心を賭け、また社会正義実現の使命感をこめてこの報告書を作成したものと思われます。そのような報告内容を、こちらが疑ってかかる合理的根拠が示せない以上、この言葉に対して一定の敬意を込め、それを真正面から受けとめざるをえません。そうすると、ここでUNSCEARは「計画的避難区域」の合理的な設定基準は年間100ミリシーベルトであって、それ以下に設定することは意味がない、と言っていると解するよりほかはありません。

とすると、日本政府が設定した基準は、合理的な基準の5倍の厳しいものであると評するよりほかはありません。これが、何を意味するのか。まずは、下の図をごらんください。二〇一二年三月十一日までの福島県東部の累計線量分布です




赤線の内側が、現在の20ミリシーベルト基準に基づく「計画的避難区域」です。ここで、基準を100ミリシーベルトにすれば、「計画的避難区域」が激減することがお分かりいただけるでしょう。よく名前が出てくる飯館村を例にとれば、その全域が「計画的避難区域」の規定を解除されるのです。UNSCEAR報告書を真正面から受けとめるかぎり、一日でも早くそうしなければならないということになりましょう。そうすると、集中的に除染しなければいけない本当のホットスポットの絞込みが可能になります。限りある人力とおカネの有効活用が可能になるのです。つまり、「光の見えないトンネルの中状態」であったフクシマの復旧・復興のイメージが現実味を帯びてきて明瞭になるのです。おそらく、フクシマ復旧・復興の具体的な工程表を作ることができるようにすらなるはずです。その場合、農業に壊滅的な打撃を与えるTPP参加などとんでもないという認識が常識として国民の間で共有されるはずです。

20ミリシーベルト~100ミリシーベルトの地域に住んでいた方々は堂々と自分たちの生業の場に舞い戻って、身体に何の害もない美味しい野菜や乳製品を自信をもって作り、それらを市場に送り出せばいいのです。なにをはばかることがありましょうか。国連のお墨付きなのですからね。UNSCEARの指針に従う限りそうとしか言いようがありません。

また、除染の基準は1ミリシーベルではなくて100ミリシーベルト未満とすべきです。100ミリシーベルト以上のホットスポットをまずは除染して100ミリシーベルト未満に収め、次に、民心を宥めるために福島東部全域を50ミリシーベルト以内に収める。除染の優先順位はそうなります。そうして除染はそれで終わりです。それ以上の除染は、個人的な趣味の領域であるとしか言いようがないでしょう。まして、公的な除染基準を、自然放射線量の平均(日本の場合、年間1.4~1.6ミリシーベルト)未満の1ミリシーベルトに抑えることなど、正気の沙汰ではないと申し上げるよりほかはありません。

「放射能に弱い子どもたちはどうなるのか」という疑問が湧いてきます。しかし、それに対しても、UNSCEAR報告書はきちんと答えています。「ヨウ素の放射性同位体で半減期の短い『ヨウ素131』の食物摂取は、子供や若者の甲状腺で吸収されると甲状腺がんを引き起こすリスクがあることで知られている。(中略)日本ではこうしたこと(チェルノブイリのような、子どもたちをみまった悲惨なことー引用者注)は起こらない。半減期がわずか8日のヨウ素131は事故後の数カ月で崩壊してしまい、大量に摂取した例は1人も報告されていない」と。

私たち日本人はなんとなく、「フクシマ原発事故は、チェルノブイリ原発事故並の悲惨な事故である。とくに子どもたちは放射能の脅威にさらされている」と思い込んでいます(私もその例外ではありません)。しかし、それが幻想に過ぎないことを次の動画は物語っています。冒頭に、当動画は、福島原発事故後一年を迎えることを機に、世界原子力協会(WNA)が制作したものである旨が語られています。タイトルは『FUKUSHIMA and CHERNOBYL ~Myth versus Reality』(邦題『福島とチェルノブイリ~虚構と真実』)です。


Jaif Tv 特別編 「福島とチェルノブイリ ~虚構と真実~ 」(2012/4/20)


ほんの10数分ほどの動画ですが、その内容はとても充実しています。傾聴に値する言葉が目白押しですね。私なりに当番組の主張を以下にまとめてみましょう。

「1986年4月26日に起こったチェルノブイリ原発事故は、マスコミを通じて、その犠牲者が数十万人にも達すると予想されていた。ところが現在、世界の主要な科学団体や科学者の見解は、それとはかけ離れたものである。チェルノブイリ原発事故以降、唯一確認された放射線による住民の健康への影響は、6000例を超えた子どもの甲状腺ガンだけ。そのうち死亡が確認されたのは15例。被曝線量が最も高かった作業員の場合、放射線量で亡くなったことが明らかなのは五〇人未満。以上である。これは大きな数字であるが、予想されていた数字と比べると大きいとは言えない。では、フクシマの場合どうか。チェルノブイリの場合、母親たちは、放射性ヨウ素によって汚染されたミルクを、何も知らずに、子どもたちに与えた。それが6000人の犠牲者を生んだのである。ところが、フクシマの場合、母親たちは子どもたちに汚染されたミルクをまったく与えなかった。だから、子どもたちの甲状腺に問題が起こらなかったし、今後起こることも考え難い。また、作業員の被曝線量は一般住民に比べれば高いけれど、チェルノブイリで消防士たちが被曝した線量に比べれば、一桁低い。だから、彼らに長期的な影響が出るとは到底考えられない。つまり、フクシマの放射能による直接の犠牲者はいない。ゼロである」

いかがでしょうか。「フクシマ原発事故は、チェルノブイリ原発事故並の悲惨な事故である。とくに子どもたちは放射能の脅威にさらされている」というわれわれの思いが、単なる幻想に過ぎないことがお分かりいただけるのではないでしょうか。また、チェルノブイリの犠牲者でさえも、実際には当初の予想の100分の1程度の規模に収まっているのです。  (この稿、続く)


*****

私たちは、チェルノブイリ原発事故の健康被害者の実際の数字を数百倍にふくらませ、フクシマ原発事故の、実際にはいない健康被害者数はチェルノブイリ並に違いないと妄想をたくましくさせてきました。その結果、フクシマ原発の周りに、ありもしない放射能のホット・スポットを作り上げ、そこに住むなんの罪のない人々を着の身着のままで追い出す暴挙もやむなしとしてきたのです。

その数(かず)10万人ともいわれる多くの、生業を失った人々が、流民と化して日本列島をよるべなくさまようことになったのです。さまようだけではなくて、生活不安・生命不安に起因する極度のストレスから健康を害し、無残にも命を落とした人も少なからずいることでしょう。これが、フクシマをめぐって「絆」などと軽薄に騒ぎ続けた総体としての日本人が、実際にやったことなのです(だからといって、「一億総懺悔(ざんげ)」を求めようなどとは思っていません。責任には自ずと濃淡の別があります)。

特に「原発やめますか、人間やめますか」などと調子に乗って空騒ぎを演じ続けた反原発運動家などは、愚の骨頂と称するよりほかはありません。そのなかでもとりわけ、そこに参画したいわゆる「知識人」なる存在は、「知識」人としてのノーブレス・オブリージュを放棄した単なる頓馬として銘記されなければなりません。もっとも彼らの多くは、そう言われても、反省などしないでしょう。反省するほどの殊勝な心根の持ち主であれば、あんな馬鹿げた、本質的に非人間的な運動に躊躇することもなく参加するはずがありませんから(彼らは、「UNSCEAR報告書など、原発推進派のデマである」と一蹴するのではないでしょうか。私は、彼らのなかには一種のカルト信者のような心性の持ち主が少なからずいるのではないかと思っています)。私は、フクシマ問題の本質についての洞察ができかねていた段階においてすら、なにがあろうと反原発運動に参加しないことだけは決意していました。この運動がなにかしら途方もなく馬鹿げたものであるという印象が拭えなかったからです。

この点については、当シリーズの次に掲載されることになっている小浜逸郎氏の論考がきちんと論じていますので、そちらにゆずります(「反原発知識人コミコミ批判」 http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/d4e1c312938bccab4344516d46a8617d(その1)http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/81ea246f3cbd75f9002375de226188a2(その2))。ここで私が問題にしたいのは、われわれ日本人が演じた(そうして、いまでも演じている)、放射能をめぐる無残な喜悲劇の根本原因です。

これまでお話したことから、すぐに思いつくのは、緊急時における政府の(とくに事故当時の菅直人・民主党政権の)腰の引けた説得力に乏しい対応です。そうして、国民の間にはびこる放射能アレルギーを助長し煽るだけの無責任なマスコミの報道ぶりです(それに、狂言回しの役割を務めた「反原発知識人」を加えてもよいでしょう)。これはこれで大きな問題なので、後ほどあらためて触れることになりましょう。

ここで、いささかこだわってみたいのは、放射能をめぐる無残な喜悲劇の根本原因としての科学理論的な側面についてです。経済学者ケインズが、『一般理論』の結語の部分において、「困った社会事象の根本原因は、既得権益などという社会構造的なものに求めるよりも、観念の領域における間違った思想にこそ求めるべきである」という意味のことを言っています。リアリスト・ケインズですら、こういうことを言っているのです。私は、この考え方を諒とする者です。

私が考えているのは、この論考のはじめのところですこしだけ触れたLNT仮説の存在です。私は、この仮説こそが、科学理論として、上記の喜悲劇の真の演出者の役割を演じてきた張本人なのではないかという思いが強くなってきたのです。(この稿、続く)


*****

LNT仮説に触れる前に、ひとつだけ言っておきたいことがあります。当シリーズで引用した文章についてです。これは、稲恭宏(やすひろ)氏が、UNSCEAR公式学術報告書「日本国放射能異状なし」についての記事「放射線と発がん、日本が知るべき国連の結論」の重要箇所をピック・アップしたものをそのフェイス・ブックから引用したものです。この、月刊誌Forbsに掲載された記事について、ツイッター上で、脱原発派から「この記事は、報告書に対する誤解・曲解に満ちている。報告書には、記事が強調するような内容はない」という趣旨の発言が複数なされています。その真偽を確かめるために、私は原文に当たってみました。http://www.un.org/ga/search/view_doc.asp?symbol=A/67/46

すると、ChapterⅡ-B-1、通し番号9(a)に次の英文があるのを見つけました。

To date, there have been no health effects attributed to radiation exposure observed among workers , the people with the highest radiation exposures.

To data, no health effects attributable to radiation exposure have been observed among children or any other member of the population.

私訳をつけると、「データによれば、最もレベルの高い放射能被曝をした人々である原発現場の作業員たちの間に、放射能被曝に起因する健康上の影響はこれまでのところまったく観察されていない。また、データによれば、子どもたちやほかのどのような人々の間においても、放射能被曝に起因する健康上の影響はこれまでのところまったく観察されていない」となります。これは、もちろん福島原発事故に関する記述です。

このことからだけでも、脱原発派の、Forbesの記事に対するコメントは根も葉もない単なるデマにほからないと結論づけることができるでしょう。Forbesの記事は、UNSCEAR報告書の内容をきちんと正確に踏まえているのです。

では、本題に戻りましょう。LNT仮説の問題点について、ですね。まず、LNT仮説とはいった何なのかについて、あらためて触れておきましょう。インターネットで探していたら、次のような分かりやすい説明がありました。*は、引用者の補足です。また赤字は、引用者が加工をほどこしたものです。http://criepi.denken.or.jp/jp/ldrc/study/topics/lnt.html

■しきい値無し直線仮説(Linear Non-Threshold : LNT仮説)とは?

放射線の被ばく線量と影響の間には、しきい値がなく直線的な関係が成り立つという考え方を「しきい値無し直線仮説」と呼びます

*「しきい値」とは、ある事象の境目となる値のことです。漢字を当てると、「閾値」。英語は、「threshold」。

■確定的影響と確率的影響

放射線の人体への影響は、「確定的影響」と「確率的影響」の2つに分けけることができます。

このうち、確定的影響には主に高線量被ばく時に見られる障害で、脱毛を含む皮膚の障害や、骨髄障害あるいは白内障などが含まれ、それ以下では障害が起こらない線量、すなわちしきい値のあることが知られています。

一方、発がんを中心とする確率的影響ついては、1個の細胞に生じたDNAの傷が原因となってがんが起こりうるという非常に単純化された考えに基づいて、影響の発生確率は被ばく線量に比例するとされています。しかし
実際には、広島・長崎の原爆被爆者を対象とした膨大なデータをもってしても、100ミリシーベルト程度よりも低い線量では発がんリスクの有意な上昇は認められていません。これよりも低い線量域では、発がんリスクを疫学的に示すことができないということです



■なぜ「仮説」なのか?

このように
確たる情報に乏しい低線量の範囲について、放射線防護の立場からリスクを推定するために導入されたのがLNT仮説です。低線量放射線の影響についてはよくわからないが、影響があると考えておいた方が安全側だという考え方に基づいたもので、科学的に解明されたものではないことから「仮説」と呼ばれています

*国際放射線防護委員会(ICRP)は、1920年代以来ずっとこの説を採っています。上の図の、低線量域において点線で表された直線を想定する考え方を妥当とするのがLNT仮説である、と理解すればいいのではないでしょうか。

この説をめぐっては、さなざまな科学者や科学的研究機関などから異論・反論が提起されてきた論争の歴史があるようです。それらについては、のちほど触れることにして、私がここで一言申し上げたいのは、「この説は、自分の感覚に合わない」ということです。別に奇を衒ったことを言おうとしているわけではありません。

例えばアルコール。これを一時に大量に摂取すれば身体に害を及ぼします。単位時間当たりの摂取量が限度を超えると、急性アルコール中毒で命を失うことになる場合さえあります。ところが、適切な量を摂取するとこれが「百薬の長」に化けることになります。喉を潤す水だって、一時に大量に摂取すればお腹を壊したりして身体に変調をきたします。

高線量域においてのみならず低線量域においても線量と癌発生率の比例関係を想定するLNT仮説は、いま述べたような日常感覚に反するところがあるように感じるのですね。その点、「鎌倉橋残日録 ~井本省吾のOB記者日誌~」というブログの次の記事は、おおいに頷けます。
http://plaza.rakuten.co.jp/kmrkan55/diary/201112010001/「常識はLNT仮説を否定する」


私は常識的な判断で、LNT仮説はおかしいと思っている。音や光、温度、湿度、塩分など様々な物理量は大きすぎれば、人間に多大の被害を与え、一定の限度を超えれば死に至る。

だが、少なくなれば感じなくなり、害はない。むしろ心地よさ、プラスの価値を与えることが少なくない。

例えば、航空機の騒音をすぐ近くで受ければ鼓膜が潰れかねないが、山中の鳥の鳴き声は耳に優しく心地よさがある。摂氏40度以上の戸外では熱中症にかかる人間が多発するが、20度前後なら快適だ。

プロのヘビー級のボクサーに素手で思い切り殴られれば即死しかねないが、赤子に撫でられれば問題はなく、むしろ楽しい。

人間にとって閾値のない物理量は考えられず、放射線量のみ例外ということはありえない。

(中略)人々に恐怖心を植え付け、東電福島原発の周辺住民はいつまでも自宅に戻れない。数十キロも離れた人まで避難したままの人が少なくない。それによるノイローゼなどによる精神障害の方がはるかに人々の寿命を短くするし、生活破たんなどの被害は測り知れない。

政府はこうした被害をなくすように、政策のかじ取りをすべきで、マスコミも科学的データを示しながら冷静さを呼びかけ、いたずらに不安をあおる報道を中止しなければならない。 
   

この人、とてもいいことを言っています。  (この稿、続く)


*****

私は、当シリーズの「その6」の終わりのところで、次のようなことを述べました。すなわち、われわれ日本人が演じた(そうして、いまでも演じている)、放射能をめぐる無残な喜悲劇の真の演出者は、科学理論としてのLNT仮説なのではなかろうか、と。これを言いかえれば、「日本国民は、放射能バカ騒ぎを演じることによって、気づかぬうちに、福島県民の生活を破壊し、彼らをよるべない流民になるよう追い詰め、彼らのうちの少なからぬ人々(その多くは体の弱い老人でしょう)に耐え難いストレスを与え、果ては命をも奪った。その一連の動向に、根のところで大きな影響を与えた存在こそ、科学理論としてのLNT仮説なのではないだろうか」となります。

これは、私の勘といえば勘なのですが、フクシマ問題を自分なりに突き詰めて考えているうちに、どうしてもそういう印象が強くなってきてしまったのです。もちろん、事故当時の菅直人民主党政権の責任は甚大です。放射能問題に対する姿勢を明確にしない自民党現政権も、その点、同罪です。 また、国民の放射能に対する恐怖心を無責任に煽り続けたマスコミの報道姿勢にも看過しがたいものがあります。私が申し上げたいのは、そのような、政府やマスコミの腰が引けた無残な対応を根のところで規定しているものとして、LNT仮説があるのではないか、ということです。念のために付け加えておくと、それは、彼らがそのことを意識しているかどうかとは関わりのないことです。その点に関して、私は彼らを衆愚とみなしています。

そんなわけで、私は自分の勘を確かめるために、インターネットをたくさん検索してみました。いろいろと参考になる情報がないわけではないのですが、ズバリこれだというものになかなかヒットしません。で、いくつか書店にも足を運んでみました。さすがに、放射能や福島原発事故関係の本は豊富なのですが、そのほとんどは、脱原発のバイアスがかかった立場から書かれたものです(そのたぐいの本の多さには、いささか食傷気味になりました)。そうでなければ、専門家による、刺激の足りない概説本です。それでは、食指が動きません。さて、どうしたものかと行き詰まりかけたとき、あったのでした、わが心にずばりヒットする本が。それは、あの武田邦彦氏と副島隆彦氏の『原発事故、放射能、ケンカ対談』(幻冬舎)です




私がこの本に着目した理由は、次のとおりです。

①武田氏は、愚直と評しても過言ではないほどはっきりとICRPの公式見解の立場に立っている。それに対して、日本人離れしたほどにと形容し たくなるくらいに直截に異を唱える副島氏との対話において、LNT仮説の問題点が誰の目にもくっきりと浮かび上がっている。

②副島氏は、自然科学分野、とりわけ放射能や原子力の専門家ではない。だから、彼が武田氏に対して唱える異論には、良い意味での常識感覚 がおのずと織り込まれることになった。

③この対談は、2011年の五月三日、福島県郡山市において実施された。福島原発事故の直後から現地に駆けつけ、事故現場、あるいはその すぐ近くでフィールド・ワークをしていた副島氏が、放射能の危険性を強くアナウンスする武田氏を同地に招くことで実現した。つまり、こ の対談は、放射能騒ぎが収まらない五里霧中のさなかで実施されたものなので、そこには当時の切迫した空気がおのずと織り込まれている。 そのことが、当対談における二人の言葉を抜き差しならない臨場感のあるものにしている。つまり、二人ともに、逃げも隠れもできないタイ ミングとシチュエイションでその言葉を発している。

では、その内容に入っていきましょう。まずは、ICRPの「年間1ミリシーベルト基準」について。

副島 (前略)武田さんの文章の中に、「ICRPとともに自分たちが何十年にわたって一生懸命つくってきた基準なんだ」と。だから「この年間1    ミリシーベルトという数値は変えられないんだ」と書いておられる。

武田 そうですよ。

副 あなたが「何が何でも年間1ミリシーベルトの基準値を守るんだ」 と言った途端に、ICRPが態度を変えたんですよ。

武 いや、変えてないですよ。あれはもう前から――。

副 それはICRPの二〇〇七年勧告のことですね。

武 そう。二〇〇七年勧告は有名な勧告です。

副 ところがICRP自身が、二〇〇七年勧告を変更して、日本に関しては緊急事態だから、許すと言って、規制値を変更した。(中略)三月二一  日にICRPが、20ミリシーベルト・パー・イヤーから、100ミリシーベルトまでは緊急事態であるから日本に許すと、わざわざ声明を出した  んですよ。

武 そうでしたね。

副 それに対して武田さんが一所懸命抵抗している。

武 全然抵抗していません。僕は年間20ミリシーベルトでもかまわないよ、と。だけど、年間20ミリシーベルトには条件がついているんだと。  条件を満足すればいい。ICRPはそういうことを言っているんですね。


ここで、2011年三月二一日に出されたICRPによる日本向けの緊急メッセージに触れておきましょう。http://www.scj.go.jp/ja/info/jishin/pdf/t-110405-3j.pdf

ICRPは、その中で慎重な言い回しながらも、はっきり「国の機関は、人々がその地域を見捨てずに住み続けるように、必要な防護措置を取るはずです」と言っています。これはいまから振り返ると、とても重いメッセージです。ここには、「計画的避難区域」などという線引きをして、そこから住民を追い出すなどという馬鹿げた無慈悲な政策を実施しないように、という警告が含意されていると読めるからです。とするならば、ICRPはこの段階ですでに、住民が被災地域に住み続けても、放射線被曝による重大な健康被害は出ないと判断していたのではないでしょうか。そう解するよりほかないのではありませんか。

二人の対談に戻りましょう。上の引用の最後のところで武田氏が言っている「条件」とは何なのか。


武 じゃ、僕はね、ネットにこう書きますよ。今日から1ミリシーベルトを20ミリシーベルトに変えます。しかし、お母さん方に言っておきたいことは、皆さんの赤ちゃんのがんになる可能性は20倍に増えます、と。それは承知してください。

副 ただし、5年後にがんになるのは1000人に一人ですって書いてください。

武 もちろん1000人に一人はいつも書いています。1000人に20人になりますけどね。


「1ミリシーベルトが20ミリシーベルトになると、がんの発生率が1000人に1人から20倍の1000人に20人、つまり100人に2人になる」。これが、さきほど武田氏が言っていた「条件」です。ここにLNT仮説の特徴がよく現れています。100ミリシーベルトまでは低線量域です。その領域を超えると、線量と癌発生率との間に「確定的な」比例関係が見られます。それを低線量域においても想定しようとするLNT仮説がどういうものなのかを、武田氏はここで具体的にはっきりと示しているのです。そうして、ここにこそ、福島原発事故をめぐってのLNT仮説の問題点が、集中的に現れています。そのことにかかわる箇所を引用します。

武 人間は必ず、自然放射線で一番発がんが低いように体の発がん性物質が生じているわけですね。日本人の場合は、1.4ミリシーベルトで最  もがんが少なくなるように人間の体っていうのは、それで調整してる。それに対して、それにプラス1(ミリシーベルト・パー年間―引用  者補)しますと、がんの発生率が高くなります。これが、実は1億人に5000人というがん(の増加分―引用者補)なんです。ですから、例  えば年間20ミリシーベルトにしますと、1億人当たり10万人が(自然放射線状態の数値に上乗せされたかたちでー引用者補)がんになると  いうことになります。

副 1億人で10万人ということは、1000人に1人ということですね。それで、武田さん、年間20ミリシーベルトの放射線を浴びたら、1000人に1  人(新たに―引用者補)がんが出る。これはサイエンティフック・ファクトであると。

武 いや、コンセンサスなんです。

副 そのコンセンサスであり、ICRPの主張してきた事実と一致した上に、日本国内の放射線医学者たちともコンセンサスであると(これは武田  氏に対する皮肉です。副島氏によれば、国内の放射線医学者たちは異口同音に、100ミリシーベルトまでは大丈夫と言っている、とのこと  ―引用者注)。1000人につきたったの1人ですよ。今でもがんで死ぬ人は3割くらいで、若い癌患者もいますから、日本人の3人に1人は今  でもがんで死んでいるんですよ。これは小さい数字であるから、原発の地元の人たちは避難所にいて本当に大変なんです。かわいそうだか  ら、あなたの基準を緩めてくれませんかって、副島隆彦がね、武田邦彦氏にお願いしたいんですよ。あなたが「年間1ミリシーベルト以上の  場所からは避難しなければいけない」と厳しいことを言うとね、生きていけなくなるんですよ。住人たちが現実的に生きていけなくなる。  地獄を味わっているんです。たった1000人に1人の5年後のがんの発生率なんだったら、笑い話なんですよ。

  (中略)武田さんね、武田さんだってね、僕がさっき話したように、昔は会社員、勤め人だったでしょう。職業っていうのはね、どんなに  嫌な目にあっても何があってもそこで我慢して働くことなんです。それで生きてようやく人間はご飯食べてるんですよ、ほとんどの人は。

武 それは、子どもが――。

副 小さい子どもがいても。病気になるとしても、ですよ。


ここで副島氏が言っているのは、次のようなことです。すなわち「武田さん、あなたは科学者としての良心から、ICRPのLNT仮説、つまり微量の放射線量でも健康には害を及ぼすので基準線量は少ないほどよいから年間1ミリシーベルトにすべきであるという考え方を固辞しようとしているが、そのことで得られる社会的なメリットは、例えば年間20ミリシーベルトと比べると、計算上1000人当たり1人-0.05人=0.95人の癌の発生率の低下が得られるに過ぎない。しかも、それは5年後のことにすぎない。さらには、その数値は、科学的に正しいと実証されていないし、科学者の間で異論が多い仮説が正しいものとしたうえでのことなのだ。それに対して、その厳しい基準のせいで、逃げ場のない福島県の住民たちは、避難生活を余儀なくされたり、生業を失ったり、生きる希望を失ったり、といったさまざまな形で追い詰められて、耐え難い思いに心身ともに苛まれている。あるかないかはっきりしないメリットのために、あなたは、彼らに、これだけの生々しいデメリットをすべて我慢しろというのか」と。

これは、私としては熟考に値するとても重要な視点というよりほかはありません。この視点から、次のようなことが導き出せるのではないでしょうか。すなわち、科学的な真理ではなく科学者の合意によって是とされたLNT仮説は、基本的に社会的な影響を勘案した功利主義の観点から、その都度そのメリットとデメリットを冷静に検討して慎重に取り扱われるべきであるという結論が得られるのではないでしょうか。その仮説の固辞が、人びとの放射能に対する恐怖心を煽り立てるものにほかならなかったり、社会的な弱者を追い詰める働きをしてたりする局面においては、そういう振る舞いは差し控えるべきであるというよりほかはないのではありませんか。

*対談のなかで一つ、数値の整合性という点で問題があるので、申し上げておきます。年間1ミリシーベルトを20ミリシーベルトに上げるうえでの「条件」のところでは、「がんの発生率が1000人に1人から20倍の1000人に20人、つまり100人に2人になる」と言っていたのに対して、ここでは「年間20ミリシーベルトに上げると、がんの発生率は、1000人に1人になる」となっています。どちらが正しいのか、いろいろと調べてみたところ「年間20ミリシーベルトで、がんの発生率が1000人に1人になる」の方が正しいようです。白熱した対談のなかで混乱が生じたのでしょう。また、緊急出版なので関係者がみな見逃してしまったのではないでしょうか。

ふたりの話は、そこで終わりません。(この稿、続く)


〔付記〕最近、当原発事故シリーズのトラック・バック欄に、大量の意味不明のURLがリンクされるようになりました。これまではまったくなかった珍現象です。もしも、脱原発派の方が、私の論考が気に入らなくて、嫌がらせのつもりでやっているのなら、そういう馬鹿なことはせずに、コメント欄にきちんと反論をしていただきたい。ただし、私は、脱原発運動を批判するために当シリーズを続けているのではない。あくまでも、タイトルにあるとおり、福島県民が、復旧・復興にその持てるエネルギーを心おきなく傾注できるようになるための本当の条件・土台を探り当てるために書き続けています。とはいうものの、それを探り当てる過程において、脱原発運動が価値のないものであることは、自ずと明らかになると考えてはいます

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