「国連」とは何か
国連について考えてみたい。
まずは、国連構想が実現されていくプロセスを中央公論社の『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』を導き手にしながら追ってみましょう。折に触れ寄り道をしながらの説明になるものと思われますので、気長におつきあい願えれば幸いです。
国連構想は、その実現化の重要な局面においてつねにアメリカ主導でした。第二次世界大戦後の世界の安全保障を新たな国際機構の設立によって実現しようとする構想はすでに一九四一年八月の大西洋憲章第八項で米英両国首脳(ローズヴェルトとチャーチル)によって表明されていました。下の引用文中の「両国」とは米英のことを指しています。また、「陸、海または空の軍備が自国国境外への侵略の脅威を与えまたは与うることあるべき国」とは、ドイツと日本(とイタリア)のことです。日本が第二次世界大戦に参戦したのは、この憲章が米英二国間で調印されてから四ヶ月後のことです。「強力の使用」とは見慣れぬ用法ですが、原文では「the use of force」とあるので、おそらく「他国に対する侵略の意図による軍事力の行使」という意味なのではないでしょうか。
八、両国は、世界の一切の国民は実在論的理由によると精神的理由によるとを問はず強力の使用を抛棄(ほうき)するに至ることを要すと信ず。陸、海または空の軍備が自国国境外への侵略の脅威を与えまたは与うることあるべき国により引続き使用せらるるときは将来の平和は維持せらるることを得ざるが故に、両国は一層広汎にして永久的なる一般的安全保障制度の確立に至るまではかかる国の武装解除は不可欠のものなりと信ず。両国はまた平和を愛好する国民のために圧倒的軍備負担を軽減すべき他の一切の実行可能の措置を援助しかつ助長すべし。(出典:外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊・原文のカタカナは、すべてひらがなに直し、引用者の判断で難読漢字にはよみがなをカッコ書きでその次に入れました。また、漢字をひらがなに直した部分もあります)
引用文中に「一層広汎にして永久的なる一般的安全保障制度の確立」(原文:the establishment of a wider and permanent system of general security )とあるのが、国連の構想の萌芽と考えられる箇所です。また、「平和を愛好する国民」(原文:peace-loving peoples)という文言は、約五年後に制定作業が開始された日本国憲法の前文中の「平和を愛する諸国民」(the peace-loving peoples)という文言として取り入れられるに至ったものと思われます。
このように早い段階から構想はあったのですが、当時の米国大統領ローズヴェルトは、一次世界大戦後の国際連盟への加入を合衆国議会によって拒否されたウィルソン大統領の事例が頭から離れなかったため、構想の具体化には慎重な姿勢を崩さず、国務省内で国際連合憲章案がまとめられたのは四三年八月のことでした。
ルーズベルトの慎重な姿勢を積極的なそれへ変化させるうえで大きかったのは、当時の野党・共和党の積極姿勢の表明と世論の動向でした。前者についてはここでは省くことにして、後者に触れておきましょう。
アメリカの代表的な雑誌のひとつである『フォーチュン』の調査によれば、第二次世界大戦後の国際組織への加盟を支持する有権者は、四一年には13%に過ぎなかったのが、四四年三月には68%にも達していました。おそらく、思っていたよりも戦争が長引いていることに直面して、伝統的に孤立主義者が多くを占めてきた米国民も、さすがに「こういうことは二度とあってはならない」という思いが強まってきて、世界平和を維持する国際機関の存在の重要性を認識し始めたのでしょう。
このような世論の変化に力づけられたローズヴェルト政権は、四三年十月にモスクワで開催された米英ソ三国外相会談の場に合衆国案を提出しました。紆余曲折はあったものの、討議の結果、主権平等原則に基づいて戦後世界に国際的な平和機構を樹立する点で三国は初めて合意しました。これが「一般安全保障に関するモスクワ宣言」となり、中国もこれに同意しました。
戦況に触れておくと、一九四二年六月日七日 のミッドウェー海戦で日本軍は敗北し、それを機に戦局が劣勢に転じました。翌四三年五月十二日には米軍のアッツ島上陸が始まり、二九日には島の日本軍は全滅しました。そのときはじめて「玉砕」という言葉が使われたそうです。日本の敗色が次第に濃厚になってきたのです。そういう最中に、アメリカを中心とする連合国側は余裕を持って戦後構想を具体化へ向けて練り上げ始めたわけです。
話を戻しましょう。先の合意を受けて勢いづいたローズヴェルトは、四三年十一月二八日~十二月一日にテヘランで開催された米英ソ三国首脳会談の場で、「四人の警察官」構想を提案し、了承を得ました。ここで、「四人の警察官」構想とは、来るべき国際組織において、すべての連合国からなる総会が勧告権をもち、紛争解決のための強制機関は米英ソ中四大国が担うとする構想のことです(敗戦国の末裔として、「四人の警察官」とは穏やかならぬ言葉です。それについては、後ほど触れます)。ここに主権平等原則に基づく総会と大国主導の安全保障理事会という二本立ての方向性が明確になりました。そうして、その細目については、四四年八月から約一ヶ月半かけてワシントン郊外のダンバートン・オークスで四大国代表によって開かれた会議で詰められることになりました。
それに進む前に、先ほどの「四人の警察官」という穏当ならざる言葉に触れておきましょう。産経新聞記者の古森義久氏が、二〇〇三年九月十二日の産経新聞朝刊に、この問題について次のような大変興味深い文章を寄せています。http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/01297/contents/441.htm
第二次大戦の実際の戦闘で自らも莫大(ばくだい)な犠牲を払い、枢軸側を破った勝者は、米英ソの三大国だった。だから枢軸側への要求や戦後への構想を決める最重要な会議では当時の中国政権である中華民国は除外された。テヘラン会議やヤルタ会談は米英ソ三大国の首脳だけで進められた。国連がらみの戦後秩序を論じるときにも当初はこの三大国だけの「三人の警察官」構想が主だったのである。
ところが一九四三年十一月のテヘラン会議で米国のルーズベルト大統領が熱心に中国を連合国の主要メンバーに引きずりあげることを主張した。戦後への構想は「四人の警察官」となった。中国は人工的に大国の扱いを受けるようになったのだ。
(中略)
ルーズベルト大統領は中国の格上げは対日戦争での中国の士気を高めるだけでなく、戦後のアジアで中国を親米の強力な存在とし、ソ連の覇権や日本の再興を抑えるのに役立つ、と計算していた。アジアの国を大国扱いすることは戦後の世界での欧米支配の印象を薄めるという考慮もあった。
しかしチャーチル首相は米国のこの動きを「中国の真の重要性をとてつもなく拡大する異様な格上げ」と批判した。スターリン首相も中国の戦争貢献の少なさを指摘し、さらに激しく反対した。だがルーズベルト大統領はソ連への軍事援助の削減までをほのめかして、反対を抑えていった。
古森氏は、さらにフランスの「警察官」への昇格についても触れています。この論の流れからやや脱線気味にはなりますが、とても面白いのでこのまま引用を続けましょう。
フランスは最初から最後まで「警察官」にさえ含まれていなかった。戦争ではドイツに敗れて降伏し、全土を制圧され、親ナチスのビシー政権を誕生させた。ドイツへの抵抗勢力としてはドゴール将軍がかろうじてイギリスで亡命政権ふうの「国民解放戦線」を旗あげした。だが米国もソ連もこの組織を政府としては認めず、フランスに冷淡だった。スターリン首相はテヘラン会議では「真のフランスはビシー政権であり、フランスは国として戦後は懲罰を受けるべきだ」とまでの侮蔑(ぶべつ)を述べていた。
だがチャーチル首相が一貫してドゴール将軍下のフランスを擁護した。国連づくりのプロセスでも主要連合国並みの資格を与えることを主張した。米国もソ連もやがて同調していった。米英軍のフランス奪回後にパリにもどり、一九四四年九月に臨時政府を成立させたドゴール将軍に対しフランス国民が熱狂的支持をみせたことが大きかった。
だがフランスは国連の安保理常任理事国の実質上の資格である第二次大戦の勝者ではないことは明白だったのである。中国も同様だといえよう。にもかかわらず両国とも国連では真の勝者たちの政治的、戦略的な意思によって勝者の特権を与えられたのだった。
この点でも国連はスタート時から平和への希求という崇高な顔の裏に大国のパワー政治のぎらぎらした素顔を宿していたのである。
中国とフランスが常任理事国に選ばれたプロセスは明らかにそうしたパワー政治が公正や平等、論理や規則という原則を押しのけた形跡をあらわにする。
フランスのことはとりあえず措くとして、戦勝国とは称し難い中国が、世界の「警察官」という勝者の特権を与えられたのは、ひとえにローズヴェルトの意向によることが引用文からうかがわれます。彼は、イギリスやソ連の強い反対を押し切ってまでも、その意向を貫き通しました。しかし、彼の「戦後のアジアで中国を親米の強力な存在とする」という目論見は見事に外れました。いまでは中国は、世界で唯一アメリカの覇権に挑戦状を叩きつける国にまで「成長」を遂げています。ローズヴェルトの意思決定は誤りであったと断じるよりほかはありません。
「四人の警察」についてはこれくらいにして、先ほどのダンバートン・オークス会議に話を進めましょう。
同会議は、二回に分けて行われ、一度目は米英ソ間で、一度目は米英中間で行われました。二回に分けられたのは、表面化しつつあった米英とソ連との対立関係を先鋭化させずに米英が終始リーダー・シップをとろうとしたからでしょう。この会議で採択された提案は「ダンバートン・オークス提案」といわれ、これはサンフランシスコ会議で採択された国連憲章のもととなるものでした。しかし、安全保障理事会における表決手続き(つまり拒否権問題)やソ連の代表権問題などでは合意に至らず、決着は四五年二月のヤルタ会議に持ち越されました。
ヤルタ会議で英米は、紛争の当事国となった大国は安全保障理事会での表決を棄権すべきと主張しました。それに対してソ連は、すべての議題について「大国一致」の原則を貫くよう主張し、ダンバートン・オークス会議に続いて英米とソ連は再度対立しました。結局この対立は、手続き問題以外の議題では大国の拒否権を認める方向で妥協が図られました。しかしこの点は、大国が関与した紛争に対して安全保障理事会が機能麻痺に陥る原因を作ることになりました。また、ソ連の代表権問題では、ソ連邦を構成する全共和国ではなく、白ロシアとウクライナだけに限って追加加入させることで妥協が図られました。
なおヤルタ会議では、ポーランド問題やドイツ問題や朝鮮半島問題という戦後国際政治体制の根幹に関わる問題についても話し合われました。その詳細については、ここでは触れません。当会談以後の戦後体制は、しばしばヤルタ体制と呼ばれます。これ以降、アメリカを中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が開始されたと言われています。ここから戦後が始まったと言っても過言ではないということですね。
またこの会議で、ルーズベルトが、スターリンに対して、ドイツ降伏の二、三ヵ月後に日ソ中立条約を破棄して対日参戦するよう要請し、その見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、そして満州に日本が有する諸々の権益をソ連に与えるという密約を交わした(ヤルタ協定)ことは前回申し上げました。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/25ea208c021f47f7d85b4c7cbdf4be4a
ちなみに、ドイツが最終的に降伏したのは、ヤルタ会議から約3ヶ月後の、一九四五年五月九日です。また、ソ連が日本に宣戦布告をしたのは、同年八月八日です。ドイツ降伏のちょうど3ヶ月後。スターリンは、物差しで測ったように正確に密約を守った、実に「律儀」な男であったわけです。さらにつけ加えれば、広島に原爆が投下されたのが八月六日、長崎に投下されたのが同月九日。スターリンは事を進めるのに実に慎重な男でもあったわけです。
さて、これまで述べてきた流れを踏まえて、四五年四月末からサンフランシスコで国際連合の創立総会が開催されました。この会議には連合国側に立っていた五〇カ国が参加することになりました。ポーランドの参加については、米英とソ連との間に対立があったために認められず、妥協の末に連合政権が樹立されてから参加が認められ、結局原加盟国は五一カ国となりました。
つまり国際連合は、対日戦の続行中に招集されたことからも分かるとおり、「連合国(United Nations)」を母体として発足したのであり、国際連合の英語の表記(もちろん「United Nations」)にその継続性が示されていたし、いまも示されているのです。それが証拠に、安保理を構成する十五カ国のうち、常任理事国を構成する中・ロシア(旧ソ連邦から議席を継承)・英・米・仏の5カ国は、対枢軸国戦の戦勝国としての「四人の警察官」プラスワンであり、国連憲章が改正されない限り恒久的にその地位にあり、さらに拒否権も与えられているのです。彼らは、永遠の特権的な戦勝国というわけです。
また、ほどんど死文化しているとは言われていますが、敵国条項(国連憲章中、第53条、第77条、第107条の3ヶ条)は依然として破棄されていません。日本国政府の公式見解として、日本はそれに該当すると判断しています。だれがどう考えても、そういうことになりますよね。当条項によれば、第二次世界大戦中に「連合国の敵国」だった国が、戦争により確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こしたりした場合、国際連合加盟国や地域安全保障機構は、安保理の許可がなくても、当該国に対して軍事的制裁を課すことが容認され、また、この行為は制止できないとしているのです。なんだか穏当ではありませんね。ほとんど死文化・形骸化しているとは言われるものの、憲章中にその不穏当な姿をとどめているのは事実なのです。それゆえ私は、今後中国がこの条項を盾にとって悪質な情報戦を展開する局面もありうると思っています。それを想像するだけでも片腹痛いこと限りなし、と言いたいところです。現状では、アメリカがそれに乗るとは思えませんが、韓国あたりは戦勝国でもなんでもないにもかかわらず、最近の中国への傾斜ぶりからすればそのウソ話に乗りそうですね。いま、とんでもない人が国際連合事務総長の椅子に座っているので、そういうことになると、なにやら面倒臭いことが起こりそうな気がします。杞憂に過ぎなければいいとは思います。
ここまでが話の前段です。
参考
・『世界の歴史28第二次世界大戦から米ソ対立へ』(中央公論社)
・http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/atlantic_cha_e.html 大西洋憲章英文
・http://home.c07.itscom.net/sampei/kenpo/kenpo.html 日本国憲法英文
・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E9%A0%85 Wikipedia 「敵国条項」
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前段では、一九四一年八月の大西洋憲章第八項で米英両国首脳(ローズヴェルトとチャーチル)によって、第二次世界大戦後の世界の安全保障を新たな国際機構の設立によって実現しようとする構想が表明されたことを起点として、四五年四月末にサンフランシスコで国際連合の創立総会が開催されるまでの歴史を点描しました。その要点を列挙すれば次のようになります。
① 国連構想の実現のプロセスの先導役は、つねにアメリカであった。そのアメリカがもっとも尊重したのは、イギリスの意見であった。
② 国連は、その名が示す通り、第二次世界大戦の戦勝国である連合国を母体として発足した。
③ それゆえ常任理事国5ヵ国は、いずれも連合国の中心メンバーである。そのなかで中国とフランスは実質的には戦勝国とは言えないが、それぞれアメリカとイギリスの政治的、戦略的な意思によって戦勝国の特権としての常任理事国入りを認められた。その意思の核心には、ソ連の力の封じ込めの意図があったものと思われる。
④ 連合国の敵としての枢軸国であった日独伊には、敵国条項が適用される。その条項は、ほとんど死文化・形骸化されたといわれているものの、いまだに残っている。
⑤ 国連構想の実現化のプロセスの途中から、米ソ対立が影を落とし始め、その影は次第に濃くなった。
以上を要すれば、「その1」において国連の主に権力政治的な側面について述べてきたことになります。
ところで、人間世界は現実主義だけで事が進み成就するわけではありません。『聖書』においても、「ひとはパンのみで生きるにあらず」とあります。現実主義という「パン」のほかに、「ぶどう酒」すなわち理想主義的な要素が幾分かないと、人間はどこか奮起しない生き物なのです。人間が編み出した国連もまたその例外ではありません。
では、国連における理想主義的な側面とは何なのでしょう。それは、ひとことで言えば、平和についての道義主義的なリベラリズムの流れです。それが国連構想の実現化のプロセスやその後の展開に一定の役割を果たしてきたことは、これまた、国連の歴史の偽らざる一側面なのです。その理想主義的な流れは、国連憲章前文やUNESCO憲章の前文にはっきりと認めることができます。
〈国連憲章前文〉
われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。(以下、略)
〈ユネスコ憲章前文〉
この憲章の当事国政府は、その国民に代って次のとおり宣言する。
戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。
文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。
政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。 (以下、略)
国連憲章前文において、主語が「われら連合国の人民は」となっているのが敗戦国の末裔としては気になるところですが、この際そこには片目をつぶりましょう。ここに、民主主義の諸価値(基本的人権の尊重・男女平等・国家間の平等)の擁護・実現が世界平和の実現・維持にとって不可欠であるとする「デモクラティック・ピース」の思想が示されているのは明らかです。
また、ユネスコ憲章前文には、リベラルな平和運動の「平凡な市民たちの平和を求めるささやかな願いの集結が平和を建設する根源的な力であり、それは世論として現実政治をも動かす」という基本理念がその核として織りこまれていることも分かります。
「デモクラティック・ピース」の理念とリベラルな平和運動の理念とは、相補的な関係にあります。つまり、「草の根の民の声こそが真の民主主義においてもっとも尊重されねばならないものである。その民主主義の核心としての庶民の真摯な平和祈念の声が、平和実現の源として世界の世論を形成し、現実政治をも動かしていく。すなわち、民主主義の進展=世界平和の進展である」というふうに。この両者がリンクすると、どことなく宗教めいた信念を彷彿とさせますね。
以下、リベラルな理想主義的平和論(あるいは運動)の可能性とその限界や問題点について展開します。それは同時に、その理念を自らの理想主義的側面の核心とする国連の、世界平和実現を目的とする世界機関としての可能性とその限界や問題点をあぶり出す作業でもあります。その際、タネ本として高坂正堯氏の「二十世紀の平和の条件」(『海洋国家日本の構想』所収)を使用します。いちいち引用するのは、読み手としてもわずらわしいでしょうから、なるべく祖述の形をとります。とはいうもののそれに専念せずに、またもやあっちこっちで道草を食うだろうことをお許しください。
高坂氏によれば、リベラルな理想主義的平和論の問題点とその流れは次のようになります。
その最大の問題点は、現代の権力政治状況において決して有効であるとは言い難い「世論の力」なるものに疑問を投げかけることなく、かえって、その力を過大に評価し、それを前提としていることです。言いかえれば、現実の権力政治における平和実現の可能性のリアルな認識をかたくななまでに拒否して、あくまでも理想主義を高く掲げようとする姿勢です。それで思い出すのは、時代はちょっと下りますが、80年代の、旧社会党系市民団体主導の反核運動で、原爆投下で自分たちが死んだありさまを想像しながら地べたに大勢でゴロンと寝そべる「ダイ・イン」なる運動形態があることを知ったとき、自分が唖然としてしまったことです。これなんぞ、その問題点が「自己満足」という堕落し腐り切った形で表れている例としてとらえることができるでしょう。故・吉本隆明が、『反核異論』でそれを痛烈に批判したのは正当なことであったと、私はいまでも思っています。
高坂氏によれば、「世論の力」に過大に信を置く平和運動の哲学は、国際政治におけるユートピア思想の基盤を構成してきたリベラリズムの一変形です。この流れは、十八世紀にルソーやカントによって準備され、十九世紀を通じて発展し、二十世紀には国際連盟という形をとることになりました。「戦争は君主が彼ら自身の利益のためにおこなうもので、人民は戦争によって被害を受けるだけだから、人民は戦争を欲しない。したがって、世論が力を発揮しうる共和政体のもとでは、世論は戦争を防止することができるであろう」とするルソーやカントの考え方は、国際連盟の理念に脈々と流れこんでいるのです。
しかし皮肉にも、その「世論の力」を最大限に活用して、ヒトラーは二十世紀の只中に世界平和の理念とは正反対の世界破壊的な全体主義国家を樹立したのです。高坂氏によれば、このナチズムの嵐の前に、国際連盟の基礎となっていたリベラリズムの哲学は、木っ端微塵にくだけてしまったのでした。
しかし、独伊日の枢軸国側との戦いが終わりに近づくとともに、リベラリズムの哲学はアメリカの国務長官ハルなどを中心として復活してきました。それをもっとも典型的に表現しているのが、先ほど掲げたユネスコ憲章前文です。また先ほど述べたとおり、「デモクラティック・ピース」の理念とリベラルな平和運動の理念とが相補的な関係にあることに着目すれば、国連憲章前文とユネスコ憲章前文とは相補的な関係にあると言えるでしょう。相補って一体、というわけです。高坂氏は、以上の流れを踏まえて次のように言います。
敗戦後の暗い現実のなかに生きていた日本の知識人は、その(リベラルな理想主義的平和論の――引用者補)哲学をむさぼるように吸収したのであった。こうした歴史的文脈において見るとき、戦後の日本の平和運動がリベラリストと呼ばれる人々によって始められたことが理解できるであろう。「平和問題談話会」のメンバーを構成したこれらの人々は、『戦争は人の心の中に生まれるものであるから、人の心の中に、平和のとりでを築かなければならいない』というユネスコ憲章の言葉に、彼らの代弁者を見出したのであった。
「平和問題談話会」とは何でしょうか。調べてみたら、次のような説明がありました。
第2次世界大戦後,再び国際情勢が緊迫してきた1948年7月に発表されたユネスコの社会科学者による平和の訴えに示唆を受け,同年12月12日に東京青山の明治記念館に安倍能成,仁科芳雄,大内兵衛ら50余名が集い,〈戦争と平和に関する日本の科学者の声明〉を出したが,これに署名した学者が,49年初頭に東西でそれぞれ東京平和問題談話会,京都平和問題談話会を組織し,同年12月21日,東京丸の内の工業俱楽部で総会を開き,横田喜三郎,入江啓四郎を招いて討議し,〈講和問題についての声明〉をまとめ,50年1月15日付で発表,全面講和の実現を要望した。 コトバンク.JP より
http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%95%8F%E9%A1%8C%E8%AB%87%E8%A9%B1%E4%BC%9A
全面講和なるものが、その実現の政治日程が判然としない、いわゆる「絵に書いた餅」のような政治選択であったことは、今日においては明らかです。当時の日本の名だたる知識人たちが、そういう痴呆的な政治的意思決定を大真面目に政府に対して求めていたことを、私は自分の胸にあらためて深く刻み込んでおきましょう。というのは、日本の知識人たちのその惨めな姿もまた、敗戦のわびしい眺めのひとつとして私の目に映るからです。戦争に負けることは、あくまでも惨めなことなのです。その惨めさから目を背けるために、頭の良いはずの人たちが、そろいもそろってかりそめの理想主義に逃げこんでいたのです。そのことが、彼らをいっそう惨めに見せます。「日本はアメリカに負けて良かったんだ」なんてのはウソに決まっています。開戦時と終戦時の外相だった東郷茂徳が、戦後巣鴨プリズンで詠っています、「いざ児等(こら)よ 戦ふ勿(なか)れ 戦はば 勝つべきものぞ ゆめな忘れそ」と。虚心に読めば、彼が血を吐く思いでこの歌を詠んでいるのが分かるでしょう。これくらいの気骨がなければ「敗戦を戦う」というキツい営みを実行することはかなわないでしょう。また、そのことを抜きにして、敗戦国日本の知識人が自力で平和の理念を掴み取ることは到底かなわないと私は思っています。
私がいま述べたようなことを織り込んだうえで、高坂氏は次のように述べます。すなわち、現在の日本の平和運動の前提となっている命題のなかでもっとも基本的なもの、すなわち、権力政治の否定と道義主義の肯定の立場が問題になってくる、と。それは、「権力政治をアプリオリに否定する」。そのラジカルな姿勢の根にあるのは、リベラリズムがよって立つ基盤としての「世論の正しさとその力」への反省が欠如しているという一種の幼稚さである。高坂氏は、「幼稚」とは形容していませんが、私なりにアレンジするとそうなります。ここで、カントが登場します。そうして高坂氏は、絶妙な筆使いでカントの一側面をきちんと評価します。
リベラリズムの国際政治観の基礎を作ったカントは、世論の有効性の問題と書面切って取り組んでいる。彼はその著書、『永遠平和のために』のなかで、永遠平和のための確定条項として、まず、「各国家における公民的体制は共和的でなければならない」と規定しているが、それは、世論が戦争を防止するために必要な力を持ちうる条件を規定したものなのである。
カントは、『永遠平和のために』(一七九五年)において、共和的な体制の条件として次の三つをあげます。
① 各人が社会の成員として、自由であるという原則が守られること
② 社会のすべての成員が臣民として、唯一で共同の法に従属するという原則が守られること
③ 社会のすべての成員が国家の市民として、平等であるという法則が守られること
①は個人の自由権の尊重、②は法のもとの平等の確立(あるいは法治国家の確立)、③は平等権の尊重 とまとめることができるでしょう。
これは、私たちが今日言うところの民主主義体制です。つまりカントは、世界平和の実現のためには、民主主義体制の確立が絶対条件であると主張していることになります。
では、カントはなにゆえ世界平和の実現のためには、民主主義体制の確立が絶対条件であると考えたのでしょう。彼の言葉にちょっと耳を傾けてみましょう。
この体制では戦争をする場合には、「戦争するかどうか」について、国民の同意をえる必要がある。共和的な体制で、それ以外の方法で戦争を始めることはありえないのである。そして国民は戦争を始めた場合にみずからにふりかかってくる恐れのあるすべての事柄について、決断しなければならなくなる。みずから兵士として戦わなければならないし、戦争の経費を自分の資産から支払わねばならないし、戦争が残す惨禍をつぐなわねばならない。さらにこれらの諸悪に加えて、たえず次の戦争が控えているために、完済することのできない借金の重荷を背負わねばならず、そのために平和の時期すらも耐えがたいものになる。だから国民は、このような割に合わない〈ばくち〉を始めることに慎重になるのは、ごく当然のことである。
こう考えてカントは、世界平和の実現のためには民主主義体制の確立が絶対条件であると主張するに至ったのですね。彼は、「デモクラティック・ピース」を二百年以上も前に提唱していたことになります。それはそれですごいことですね。
ここでまたもや道草を食いますが、イスラム教圏を見る限り、私は「デモクラティック・ピース」の考え方は基本的に通用しないと思っています。欧米諸国がイスラム圏における独裁政権打倒の動きをひところ「アラブの春」などと形容して持ち上げていました。しかし、イスラム圏において独裁政権が倒された後、アルカイダなどのテログループの跋扈を含む無秩序な混乱か、イスラム原理主義政権の成立か、どちらかに傾く場合がどうも多いような気がします。つまり、イスラム圏においては独裁政権が国を治めているときのほうがむしろ秩序が保たれるような印象があるのです。だから、欧米諸国はそろそろ自分たちキリスト教圏以外の国々に「デモクラティック・ピース」を押しつけるのはやめた方がいいのではないかと、私は思っています。そこに国連の平和理念のひとつの限界を私は見ます。しかし、その批判をカントにぶつけるつもりなどまったくありません。そのアイデアを考案した彼は、やはりたいしたものなのです。そういうカントを馬鹿みたいに持ち上げたがる今日の日本の国連中心主義者たちは、大いに批判され馬鹿にされてしかるべきである、とは思いますけれど。
カントの『永遠平和のために』に話を戻しましょう。彼は、世界平和のために国際機構を確立する必要があることは信じていますが、かといって世界政府を樹立することに対しては消極的です。おそらく、当時の国際政治の現状を直視して、ヨーロッパの諸国家がそれぞれの主権を手離す姿がどうしても想像できなかったのでしょう。それを彼は「国家は(中略)それを一般的には正しいと認めながらも、個々の場合には否認する」と言い表しています。彼は、実はなかなかのリアリストでもあったのです。そのうえで、「だからすべてのものが失われてしまわないためには、一つの世界共和国という積極的な理念の代用として、消極的な理念が必要となるのである。この消極的な理念が、たえず拡大しつづける持続的な連合という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制するのである」と言っています。これは、今日の国際連合の正確な雛形になっていますね。さらにカントは、この「連合」が成り立つうえで「啓蒙された強力な民族」による共和国、すなわち、覇権国家の役割の重要性を強調します。国際連合がアメリカ主導で創立された歴史的な事実に鑑みれば、その発言は、予言的ですらあります。
カントは、夢想家気質の哲学者ではありません。国際政治のありのままがその慧眼にはっきりと映っていたのです。同書の結語部分には次のようにあります。彼が、永遠平和という課題の困難さをよく分かっていたことが感じられます。
公法の状態(永遠平和のこと――引用者注)を実現することは義務であり、同時に根拠のある希望でもある。これが実現されるのが、たとえ無限に遠い将来のことであり、その実現に向けてたえず進んでいくだけとしてもである。だから、永遠平和は、これまで誤って平和条約と呼ばれてきたものの後につづくものではないし(これはたんなる戦争の休止にすぎない)、たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。この課題が次第に実現され、つねにその目標に近づいてゆくこと、そして進歩を実現するために必要な時間がますます短縮されることを期待したい。
高坂氏は、この結語の厳しいトーンをふまえて、次のように言います。
彼はその努力を通じて、永遠平和のための条件が容易にはもたらされえないことを認識することができた。したがって彼は、すべての民族が自由にして共和的にみずからを統治するまでの長い過渡期の矛盾を想定することができた。それゆえにこそ彼は、永遠平和が現実化されるためのプログラムを与えようとはしなかった。彼は人々を現実と理想の激しい緊張のなかに残しておいたままで、書物を終えてしまっているのである。
高坂氏は、真の平和主義者は、その「現実と理想の激しい緊張」に耐え抜く強靭な思考力をこそ有するべきであると言っているのです。「現実」とは、国家内と国家間の生々しくて激しい権力政治であり、「理想」とは、リベラルな平和論のことです。
したがって、われわれがカントの『永遠平和のために』から学ぶことができるもっとも重要な教訓は次のことである。世論に対する素朴な信念から出発した平和への努力は(その起源を国際連盟に求めるにせよ、日本の場合のように敗戦後に求めるにせよ)、現在、冷厳な国際政治の現実を経験し、平和を求める世論はそのまま平和に直結するものではないというにがい真理に直面している。そのときにあたって、一方的軍縮論というリベラリズムの自殺行為へ走ることなく、また、現在の体制を否定したあとでこの地上に理想郷が出現するという終末論に魅せられることもなく、真のリベラリズムの精神を生かすためには、まず、リベラリズムの存在理由ともいうべき世論の有効性に対して、仮借なき反省を行なうことが必要である。そうすれば、権力政治の単純な否定に代わって、権力政治への深い理解が生まれ、理想への一途な夢からさめて、理想と現実との間の激しい緊張関係のなかに立つことになるであろう。そうすれば、永遠平和への過渡期において、一歩ずつ永遠平和に近づくための過渡的平和条件を見出すことができるであろう。
後段の結論らしき上記の引用に私からつけ加えることがあるとすれば、中共の露骨な覇権主義の矢面に立たされているいま、高坂氏が示した真の理想主義=真の現実主義の道を追求することの重要性が、当時にも増して高まっているということです。
そろそろ、全体のまとめをしましょう。
国連は、国際政治の生々しくて激しい権力政治に基づく現実主義が70%の本体で、そこに、カントやルソーに始まるリベラルな平和論の理想主義の流れが30%ほど加味されている、というイメージがおおむね妥当なところかと思われます。「ちょぼちょぼ」の人間存在それ自体がおおむねそんなところだから、それほど間違ったイメージではないでしょう。
シリアへの軍事介入におけるアメリカのリーダー・シップの失墜という事態を目の当たりにするにつけ、いよいよG0(ゼロ)世界(覇権国家不在の世界)が現実のものになってきたことを実感します。
それは、権力政治的な側面における無秩序の深化を意味するので、国連の機能低下の進行を招来するものと思われます。
他方では、それは、高坂氏が言う意味での現実主義によって鍛え上げられたリベラルな平和論への期待を招来するものと思われるので、国連の理想主義的な側面における役割への期待はこれまで以上に高まるのではないでしょうか。溺れるもの藁をもつかむというわけで。
そういう両側面における矛盾し、分裂したイメージを抱えながら、国連はこれからも道なき道を歩み続けるよりほかないのでしょう。とにかく、その緊張に耐え切れずに短気を起こして途中で投げ出さないことが肝要、とは言えるでしょう。これを機に、日本は、国連を妙に尊重しすぎるこれまでの偏った、敗戦国コンプレクスまみれの姿勢を改めて、バランスの取れた、大国にふさわしい余裕のある姿勢で国連に関わるようにすべきであると、私は考えています。
国連について考えてみたい。
まずは、国連構想が実現されていくプロセスを中央公論社の『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』を導き手にしながら追ってみましょう。折に触れ寄り道をしながらの説明になるものと思われますので、気長におつきあい願えれば幸いです。
国連構想は、その実現化の重要な局面においてつねにアメリカ主導でした。第二次世界大戦後の世界の安全保障を新たな国際機構の設立によって実現しようとする構想はすでに一九四一年八月の大西洋憲章第八項で米英両国首脳(ローズヴェルトとチャーチル)によって表明されていました。下の引用文中の「両国」とは米英のことを指しています。また、「陸、海または空の軍備が自国国境外への侵略の脅威を与えまたは与うることあるべき国」とは、ドイツと日本(とイタリア)のことです。日本が第二次世界大戦に参戦したのは、この憲章が米英二国間で調印されてから四ヶ月後のことです。「強力の使用」とは見慣れぬ用法ですが、原文では「the use of force」とあるので、おそらく「他国に対する侵略の意図による軍事力の行使」という意味なのではないでしょうか。
八、両国は、世界の一切の国民は実在論的理由によると精神的理由によるとを問はず強力の使用を抛棄(ほうき)するに至ることを要すと信ず。陸、海または空の軍備が自国国境外への侵略の脅威を与えまたは与うることあるべき国により引続き使用せらるるときは将来の平和は維持せらるることを得ざるが故に、両国は一層広汎にして永久的なる一般的安全保障制度の確立に至るまではかかる国の武装解除は不可欠のものなりと信ず。両国はまた平和を愛好する国民のために圧倒的軍備負担を軽減すべき他の一切の実行可能の措置を援助しかつ助長すべし。(出典:外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊・原文のカタカナは、すべてひらがなに直し、引用者の判断で難読漢字にはよみがなをカッコ書きでその次に入れました。また、漢字をひらがなに直した部分もあります)
引用文中に「一層広汎にして永久的なる一般的安全保障制度の確立」(原文:the establishment of a wider and permanent system of general security )とあるのが、国連の構想の萌芽と考えられる箇所です。また、「平和を愛好する国民」(原文:peace-loving peoples)という文言は、約五年後に制定作業が開始された日本国憲法の前文中の「平和を愛する諸国民」(the peace-loving peoples)という文言として取り入れられるに至ったものと思われます。
このように早い段階から構想はあったのですが、当時の米国大統領ローズヴェルトは、一次世界大戦後の国際連盟への加入を合衆国議会によって拒否されたウィルソン大統領の事例が頭から離れなかったため、構想の具体化には慎重な姿勢を崩さず、国務省内で国際連合憲章案がまとめられたのは四三年八月のことでした。
ルーズベルトの慎重な姿勢を積極的なそれへ変化させるうえで大きかったのは、当時の野党・共和党の積極姿勢の表明と世論の動向でした。前者についてはここでは省くことにして、後者に触れておきましょう。
アメリカの代表的な雑誌のひとつである『フォーチュン』の調査によれば、第二次世界大戦後の国際組織への加盟を支持する有権者は、四一年には13%に過ぎなかったのが、四四年三月には68%にも達していました。おそらく、思っていたよりも戦争が長引いていることに直面して、伝統的に孤立主義者が多くを占めてきた米国民も、さすがに「こういうことは二度とあってはならない」という思いが強まってきて、世界平和を維持する国際機関の存在の重要性を認識し始めたのでしょう。
このような世論の変化に力づけられたローズヴェルト政権は、四三年十月にモスクワで開催された米英ソ三国外相会談の場に合衆国案を提出しました。紆余曲折はあったものの、討議の結果、主権平等原則に基づいて戦後世界に国際的な平和機構を樹立する点で三国は初めて合意しました。これが「一般安全保障に関するモスクワ宣言」となり、中国もこれに同意しました。
戦況に触れておくと、一九四二年六月日七日 のミッドウェー海戦で日本軍は敗北し、それを機に戦局が劣勢に転じました。翌四三年五月十二日には米軍のアッツ島上陸が始まり、二九日には島の日本軍は全滅しました。そのときはじめて「玉砕」という言葉が使われたそうです。日本の敗色が次第に濃厚になってきたのです。そういう最中に、アメリカを中心とする連合国側は余裕を持って戦後構想を具体化へ向けて練り上げ始めたわけです。
話を戻しましょう。先の合意を受けて勢いづいたローズヴェルトは、四三年十一月二八日~十二月一日にテヘランで開催された米英ソ三国首脳会談の場で、「四人の警察官」構想を提案し、了承を得ました。ここで、「四人の警察官」構想とは、来るべき国際組織において、すべての連合国からなる総会が勧告権をもち、紛争解決のための強制機関は米英ソ中四大国が担うとする構想のことです(敗戦国の末裔として、「四人の警察官」とは穏やかならぬ言葉です。それについては、後ほど触れます)。ここに主権平等原則に基づく総会と大国主導の安全保障理事会という二本立ての方向性が明確になりました。そうして、その細目については、四四年八月から約一ヶ月半かけてワシントン郊外のダンバートン・オークスで四大国代表によって開かれた会議で詰められることになりました。
それに進む前に、先ほどの「四人の警察官」という穏当ならざる言葉に触れておきましょう。産経新聞記者の古森義久氏が、二〇〇三年九月十二日の産経新聞朝刊に、この問題について次のような大変興味深い文章を寄せています。http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/01297/contents/441.htm
第二次大戦の実際の戦闘で自らも莫大(ばくだい)な犠牲を払い、枢軸側を破った勝者は、米英ソの三大国だった。だから枢軸側への要求や戦後への構想を決める最重要な会議では当時の中国政権である中華民国は除外された。テヘラン会議やヤルタ会談は米英ソ三大国の首脳だけで進められた。国連がらみの戦後秩序を論じるときにも当初はこの三大国だけの「三人の警察官」構想が主だったのである。
ところが一九四三年十一月のテヘラン会議で米国のルーズベルト大統領が熱心に中国を連合国の主要メンバーに引きずりあげることを主張した。戦後への構想は「四人の警察官」となった。中国は人工的に大国の扱いを受けるようになったのだ。
(中略)
ルーズベルト大統領は中国の格上げは対日戦争での中国の士気を高めるだけでなく、戦後のアジアで中国を親米の強力な存在とし、ソ連の覇権や日本の再興を抑えるのに役立つ、と計算していた。アジアの国を大国扱いすることは戦後の世界での欧米支配の印象を薄めるという考慮もあった。
しかしチャーチル首相は米国のこの動きを「中国の真の重要性をとてつもなく拡大する異様な格上げ」と批判した。スターリン首相も中国の戦争貢献の少なさを指摘し、さらに激しく反対した。だがルーズベルト大統領はソ連への軍事援助の削減までをほのめかして、反対を抑えていった。
古森氏は、さらにフランスの「警察官」への昇格についても触れています。この論の流れからやや脱線気味にはなりますが、とても面白いのでこのまま引用を続けましょう。
フランスは最初から最後まで「警察官」にさえ含まれていなかった。戦争ではドイツに敗れて降伏し、全土を制圧され、親ナチスのビシー政権を誕生させた。ドイツへの抵抗勢力としてはドゴール将軍がかろうじてイギリスで亡命政権ふうの「国民解放戦線」を旗あげした。だが米国もソ連もこの組織を政府としては認めず、フランスに冷淡だった。スターリン首相はテヘラン会議では「真のフランスはビシー政権であり、フランスは国として戦後は懲罰を受けるべきだ」とまでの侮蔑(ぶべつ)を述べていた。
だがチャーチル首相が一貫してドゴール将軍下のフランスを擁護した。国連づくりのプロセスでも主要連合国並みの資格を与えることを主張した。米国もソ連もやがて同調していった。米英軍のフランス奪回後にパリにもどり、一九四四年九月に臨時政府を成立させたドゴール将軍に対しフランス国民が熱狂的支持をみせたことが大きかった。
だがフランスは国連の安保理常任理事国の実質上の資格である第二次大戦の勝者ではないことは明白だったのである。中国も同様だといえよう。にもかかわらず両国とも国連では真の勝者たちの政治的、戦略的な意思によって勝者の特権を与えられたのだった。
この点でも国連はスタート時から平和への希求という崇高な顔の裏に大国のパワー政治のぎらぎらした素顔を宿していたのである。
中国とフランスが常任理事国に選ばれたプロセスは明らかにそうしたパワー政治が公正や平等、論理や規則という原則を押しのけた形跡をあらわにする。
フランスのことはとりあえず措くとして、戦勝国とは称し難い中国が、世界の「警察官」という勝者の特権を与えられたのは、ひとえにローズヴェルトの意向によることが引用文からうかがわれます。彼は、イギリスやソ連の強い反対を押し切ってまでも、その意向を貫き通しました。しかし、彼の「戦後のアジアで中国を親米の強力な存在とする」という目論見は見事に外れました。いまでは中国は、世界で唯一アメリカの覇権に挑戦状を叩きつける国にまで「成長」を遂げています。ローズヴェルトの意思決定は誤りであったと断じるよりほかはありません。
「四人の警察」についてはこれくらいにして、先ほどのダンバートン・オークス会議に話を進めましょう。
同会議は、二回に分けて行われ、一度目は米英ソ間で、一度目は米英中間で行われました。二回に分けられたのは、表面化しつつあった米英とソ連との対立関係を先鋭化させずに米英が終始リーダー・シップをとろうとしたからでしょう。この会議で採択された提案は「ダンバートン・オークス提案」といわれ、これはサンフランシスコ会議で採択された国連憲章のもととなるものでした。しかし、安全保障理事会における表決手続き(つまり拒否権問題)やソ連の代表権問題などでは合意に至らず、決着は四五年二月のヤルタ会議に持ち越されました。
ヤルタ会議で英米は、紛争の当事国となった大国は安全保障理事会での表決を棄権すべきと主張しました。それに対してソ連は、すべての議題について「大国一致」の原則を貫くよう主張し、ダンバートン・オークス会議に続いて英米とソ連は再度対立しました。結局この対立は、手続き問題以外の議題では大国の拒否権を認める方向で妥協が図られました。しかしこの点は、大国が関与した紛争に対して安全保障理事会が機能麻痺に陥る原因を作ることになりました。また、ソ連の代表権問題では、ソ連邦を構成する全共和国ではなく、白ロシアとウクライナだけに限って追加加入させることで妥協が図られました。
なおヤルタ会議では、ポーランド問題やドイツ問題や朝鮮半島問題という戦後国際政治体制の根幹に関わる問題についても話し合われました。その詳細については、ここでは触れません。当会談以後の戦後体制は、しばしばヤルタ体制と呼ばれます。これ以降、アメリカを中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が開始されたと言われています。ここから戦後が始まったと言っても過言ではないということですね。
またこの会議で、ルーズベルトが、スターリンに対して、ドイツ降伏の二、三ヵ月後に日ソ中立条約を破棄して対日参戦するよう要請し、その見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、そして満州に日本が有する諸々の権益をソ連に与えるという密約を交わした(ヤルタ協定)ことは前回申し上げました。http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/25ea208c021f47f7d85b4c7cbdf4be4a
ちなみに、ドイツが最終的に降伏したのは、ヤルタ会議から約3ヶ月後の、一九四五年五月九日です。また、ソ連が日本に宣戦布告をしたのは、同年八月八日です。ドイツ降伏のちょうど3ヶ月後。スターリンは、物差しで測ったように正確に密約を守った、実に「律儀」な男であったわけです。さらにつけ加えれば、広島に原爆が投下されたのが八月六日、長崎に投下されたのが同月九日。スターリンは事を進めるのに実に慎重な男でもあったわけです。
さて、これまで述べてきた流れを踏まえて、四五年四月末からサンフランシスコで国際連合の創立総会が開催されました。この会議には連合国側に立っていた五〇カ国が参加することになりました。ポーランドの参加については、米英とソ連との間に対立があったために認められず、妥協の末に連合政権が樹立されてから参加が認められ、結局原加盟国は五一カ国となりました。
つまり国際連合は、対日戦の続行中に招集されたことからも分かるとおり、「連合国(United Nations)」を母体として発足したのであり、国際連合の英語の表記(もちろん「United Nations」)にその継続性が示されていたし、いまも示されているのです。それが証拠に、安保理を構成する十五カ国のうち、常任理事国を構成する中・ロシア(旧ソ連邦から議席を継承)・英・米・仏の5カ国は、対枢軸国戦の戦勝国としての「四人の警察官」プラスワンであり、国連憲章が改正されない限り恒久的にその地位にあり、さらに拒否権も与えられているのです。彼らは、永遠の特権的な戦勝国というわけです。
また、ほどんど死文化しているとは言われていますが、敵国条項(国連憲章中、第53条、第77条、第107条の3ヶ条)は依然として破棄されていません。日本国政府の公式見解として、日本はそれに該当すると判断しています。だれがどう考えても、そういうことになりますよね。当条項によれば、第二次世界大戦中に「連合国の敵国」だった国が、戦争により確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こしたりした場合、国際連合加盟国や地域安全保障機構は、安保理の許可がなくても、当該国に対して軍事的制裁を課すことが容認され、また、この行為は制止できないとしているのです。なんだか穏当ではありませんね。ほとんど死文化・形骸化しているとは言われるものの、憲章中にその不穏当な姿をとどめているのは事実なのです。それゆえ私は、今後中国がこの条項を盾にとって悪質な情報戦を展開する局面もありうると思っています。それを想像するだけでも片腹痛いこと限りなし、と言いたいところです。現状では、アメリカがそれに乗るとは思えませんが、韓国あたりは戦勝国でもなんでもないにもかかわらず、最近の中国への傾斜ぶりからすればそのウソ話に乗りそうですね。いま、とんでもない人が国際連合事務総長の椅子に座っているので、そういうことになると、なにやら面倒臭いことが起こりそうな気がします。杞憂に過ぎなければいいとは思います。
ここまでが話の前段です。
参考
・『世界の歴史28第二次世界大戦から米ソ対立へ』(中央公論社)
・http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/atlantic_cha_e.html 大西洋憲章英文
・http://home.c07.itscom.net/sampei/kenpo/kenpo.html 日本国憲法英文
・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E5%9B%BD%E6%9D%A1%E9%A0%85 Wikipedia 「敵国条項」
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前段では、一九四一年八月の大西洋憲章第八項で米英両国首脳(ローズヴェルトとチャーチル)によって、第二次世界大戦後の世界の安全保障を新たな国際機構の設立によって実現しようとする構想が表明されたことを起点として、四五年四月末にサンフランシスコで国際連合の創立総会が開催されるまでの歴史を点描しました。その要点を列挙すれば次のようになります。
① 国連構想の実現のプロセスの先導役は、つねにアメリカであった。そのアメリカがもっとも尊重したのは、イギリスの意見であった。
② 国連は、その名が示す通り、第二次世界大戦の戦勝国である連合国を母体として発足した。
③ それゆえ常任理事国5ヵ国は、いずれも連合国の中心メンバーである。そのなかで中国とフランスは実質的には戦勝国とは言えないが、それぞれアメリカとイギリスの政治的、戦略的な意思によって戦勝国の特権としての常任理事国入りを認められた。その意思の核心には、ソ連の力の封じ込めの意図があったものと思われる。
④ 連合国の敵としての枢軸国であった日独伊には、敵国条項が適用される。その条項は、ほとんど死文化・形骸化されたといわれているものの、いまだに残っている。
⑤ 国連構想の実現化のプロセスの途中から、米ソ対立が影を落とし始め、その影は次第に濃くなった。
以上を要すれば、「その1」において国連の主に権力政治的な側面について述べてきたことになります。
ところで、人間世界は現実主義だけで事が進み成就するわけではありません。『聖書』においても、「ひとはパンのみで生きるにあらず」とあります。現実主義という「パン」のほかに、「ぶどう酒」すなわち理想主義的な要素が幾分かないと、人間はどこか奮起しない生き物なのです。人間が編み出した国連もまたその例外ではありません。
では、国連における理想主義的な側面とは何なのでしょう。それは、ひとことで言えば、平和についての道義主義的なリベラリズムの流れです。それが国連構想の実現化のプロセスやその後の展開に一定の役割を果たしてきたことは、これまた、国連の歴史の偽らざる一側面なのです。その理想主義的な流れは、国連憲章前文やUNESCO憲章の前文にはっきりと認めることができます。
〈国連憲章前文〉
われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。(以下、略)
〈ユネスコ憲章前文〉
この憲章の当事国政府は、その国民に代って次のとおり宣言する。
戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。
文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。
政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。 (以下、略)
国連憲章前文において、主語が「われら連合国の人民は」となっているのが敗戦国の末裔としては気になるところですが、この際そこには片目をつぶりましょう。ここに、民主主義の諸価値(基本的人権の尊重・男女平等・国家間の平等)の擁護・実現が世界平和の実現・維持にとって不可欠であるとする「デモクラティック・ピース」の思想が示されているのは明らかです。
また、ユネスコ憲章前文には、リベラルな平和運動の「平凡な市民たちの平和を求めるささやかな願いの集結が平和を建設する根源的な力であり、それは世論として現実政治をも動かす」という基本理念がその核として織りこまれていることも分かります。
「デモクラティック・ピース」の理念とリベラルな平和運動の理念とは、相補的な関係にあります。つまり、「草の根の民の声こそが真の民主主義においてもっとも尊重されねばならないものである。その民主主義の核心としての庶民の真摯な平和祈念の声が、平和実現の源として世界の世論を形成し、現実政治をも動かしていく。すなわち、民主主義の進展=世界平和の進展である」というふうに。この両者がリンクすると、どことなく宗教めいた信念を彷彿とさせますね。
以下、リベラルな理想主義的平和論(あるいは運動)の可能性とその限界や問題点について展開します。それは同時に、その理念を自らの理想主義的側面の核心とする国連の、世界平和実現を目的とする世界機関としての可能性とその限界や問題点をあぶり出す作業でもあります。その際、タネ本として高坂正堯氏の「二十世紀の平和の条件」(『海洋国家日本の構想』所収)を使用します。いちいち引用するのは、読み手としてもわずらわしいでしょうから、なるべく祖述の形をとります。とはいうもののそれに専念せずに、またもやあっちこっちで道草を食うだろうことをお許しください。
高坂氏によれば、リベラルな理想主義的平和論の問題点とその流れは次のようになります。
その最大の問題点は、現代の権力政治状況において決して有効であるとは言い難い「世論の力」なるものに疑問を投げかけることなく、かえって、その力を過大に評価し、それを前提としていることです。言いかえれば、現実の権力政治における平和実現の可能性のリアルな認識をかたくななまでに拒否して、あくまでも理想主義を高く掲げようとする姿勢です。それで思い出すのは、時代はちょっと下りますが、80年代の、旧社会党系市民団体主導の反核運動で、原爆投下で自分たちが死んだありさまを想像しながら地べたに大勢でゴロンと寝そべる「ダイ・イン」なる運動形態があることを知ったとき、自分が唖然としてしまったことです。これなんぞ、その問題点が「自己満足」という堕落し腐り切った形で表れている例としてとらえることができるでしょう。故・吉本隆明が、『反核異論』でそれを痛烈に批判したのは正当なことであったと、私はいまでも思っています。
高坂氏によれば、「世論の力」に過大に信を置く平和運動の哲学は、国際政治におけるユートピア思想の基盤を構成してきたリベラリズムの一変形です。この流れは、十八世紀にルソーやカントによって準備され、十九世紀を通じて発展し、二十世紀には国際連盟という形をとることになりました。「戦争は君主が彼ら自身の利益のためにおこなうもので、人民は戦争によって被害を受けるだけだから、人民は戦争を欲しない。したがって、世論が力を発揮しうる共和政体のもとでは、世論は戦争を防止することができるであろう」とするルソーやカントの考え方は、国際連盟の理念に脈々と流れこんでいるのです。
しかし皮肉にも、その「世論の力」を最大限に活用して、ヒトラーは二十世紀の只中に世界平和の理念とは正反対の世界破壊的な全体主義国家を樹立したのです。高坂氏によれば、このナチズムの嵐の前に、国際連盟の基礎となっていたリベラリズムの哲学は、木っ端微塵にくだけてしまったのでした。
しかし、独伊日の枢軸国側との戦いが終わりに近づくとともに、リベラリズムの哲学はアメリカの国務長官ハルなどを中心として復活してきました。それをもっとも典型的に表現しているのが、先ほど掲げたユネスコ憲章前文です。また先ほど述べたとおり、「デモクラティック・ピース」の理念とリベラルな平和運動の理念とが相補的な関係にあることに着目すれば、国連憲章前文とユネスコ憲章前文とは相補的な関係にあると言えるでしょう。相補って一体、というわけです。高坂氏は、以上の流れを踏まえて次のように言います。
敗戦後の暗い現実のなかに生きていた日本の知識人は、その(リベラルな理想主義的平和論の――引用者補)哲学をむさぼるように吸収したのであった。こうした歴史的文脈において見るとき、戦後の日本の平和運動がリベラリストと呼ばれる人々によって始められたことが理解できるであろう。「平和問題談話会」のメンバーを構成したこれらの人々は、『戦争は人の心の中に生まれるものであるから、人の心の中に、平和のとりでを築かなければならいない』というユネスコ憲章の言葉に、彼らの代弁者を見出したのであった。
「平和問題談話会」とは何でしょうか。調べてみたら、次のような説明がありました。
第2次世界大戦後,再び国際情勢が緊迫してきた1948年7月に発表されたユネスコの社会科学者による平和の訴えに示唆を受け,同年12月12日に東京青山の明治記念館に安倍能成,仁科芳雄,大内兵衛ら50余名が集い,〈戦争と平和に関する日本の科学者の声明〉を出したが,これに署名した学者が,49年初頭に東西でそれぞれ東京平和問題談話会,京都平和問題談話会を組織し,同年12月21日,東京丸の内の工業俱楽部で総会を開き,横田喜三郎,入江啓四郎を招いて討議し,〈講和問題についての声明〉をまとめ,50年1月15日付で発表,全面講和の実現を要望した。 コトバンク.JP より
http://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%95%8F%E9%A1%8C%E8%AB%87%E8%A9%B1%E4%BC%9A
全面講和なるものが、その実現の政治日程が判然としない、いわゆる「絵に書いた餅」のような政治選択であったことは、今日においては明らかです。当時の日本の名だたる知識人たちが、そういう痴呆的な政治的意思決定を大真面目に政府に対して求めていたことを、私は自分の胸にあらためて深く刻み込んでおきましょう。というのは、日本の知識人たちのその惨めな姿もまた、敗戦のわびしい眺めのひとつとして私の目に映るからです。戦争に負けることは、あくまでも惨めなことなのです。その惨めさから目を背けるために、頭の良いはずの人たちが、そろいもそろってかりそめの理想主義に逃げこんでいたのです。そのことが、彼らをいっそう惨めに見せます。「日本はアメリカに負けて良かったんだ」なんてのはウソに決まっています。開戦時と終戦時の外相だった東郷茂徳が、戦後巣鴨プリズンで詠っています、「いざ児等(こら)よ 戦ふ勿(なか)れ 戦はば 勝つべきものぞ ゆめな忘れそ」と。虚心に読めば、彼が血を吐く思いでこの歌を詠んでいるのが分かるでしょう。これくらいの気骨がなければ「敗戦を戦う」というキツい営みを実行することはかなわないでしょう。また、そのことを抜きにして、敗戦国日本の知識人が自力で平和の理念を掴み取ることは到底かなわないと私は思っています。
私がいま述べたようなことを織り込んだうえで、高坂氏は次のように述べます。すなわち、現在の日本の平和運動の前提となっている命題のなかでもっとも基本的なもの、すなわち、権力政治の否定と道義主義の肯定の立場が問題になってくる、と。それは、「権力政治をアプリオリに否定する」。そのラジカルな姿勢の根にあるのは、リベラリズムがよって立つ基盤としての「世論の正しさとその力」への反省が欠如しているという一種の幼稚さである。高坂氏は、「幼稚」とは形容していませんが、私なりにアレンジするとそうなります。ここで、カントが登場します。そうして高坂氏は、絶妙な筆使いでカントの一側面をきちんと評価します。
リベラリズムの国際政治観の基礎を作ったカントは、世論の有効性の問題と書面切って取り組んでいる。彼はその著書、『永遠平和のために』のなかで、永遠平和のための確定条項として、まず、「各国家における公民的体制は共和的でなければならない」と規定しているが、それは、世論が戦争を防止するために必要な力を持ちうる条件を規定したものなのである。
カントは、『永遠平和のために』(一七九五年)において、共和的な体制の条件として次の三つをあげます。
① 各人が社会の成員として、自由であるという原則が守られること
② 社会のすべての成員が臣民として、唯一で共同の法に従属するという原則が守られること
③ 社会のすべての成員が国家の市民として、平等であるという法則が守られること
①は個人の自由権の尊重、②は法のもとの平等の確立(あるいは法治国家の確立)、③は平等権の尊重 とまとめることができるでしょう。
これは、私たちが今日言うところの民主主義体制です。つまりカントは、世界平和の実現のためには、民主主義体制の確立が絶対条件であると主張していることになります。
では、カントはなにゆえ世界平和の実現のためには、民主主義体制の確立が絶対条件であると考えたのでしょう。彼の言葉にちょっと耳を傾けてみましょう。
この体制では戦争をする場合には、「戦争するかどうか」について、国民の同意をえる必要がある。共和的な体制で、それ以外の方法で戦争を始めることはありえないのである。そして国民は戦争を始めた場合にみずからにふりかかってくる恐れのあるすべての事柄について、決断しなければならなくなる。みずから兵士として戦わなければならないし、戦争の経費を自分の資産から支払わねばならないし、戦争が残す惨禍をつぐなわねばならない。さらにこれらの諸悪に加えて、たえず次の戦争が控えているために、完済することのできない借金の重荷を背負わねばならず、そのために平和の時期すらも耐えがたいものになる。だから国民は、このような割に合わない〈ばくち〉を始めることに慎重になるのは、ごく当然のことである。
こう考えてカントは、世界平和の実現のためには民主主義体制の確立が絶対条件であると主張するに至ったのですね。彼は、「デモクラティック・ピース」を二百年以上も前に提唱していたことになります。それはそれですごいことですね。
ここでまたもや道草を食いますが、イスラム教圏を見る限り、私は「デモクラティック・ピース」の考え方は基本的に通用しないと思っています。欧米諸国がイスラム圏における独裁政権打倒の動きをひところ「アラブの春」などと形容して持ち上げていました。しかし、イスラム圏において独裁政権が倒された後、アルカイダなどのテログループの跋扈を含む無秩序な混乱か、イスラム原理主義政権の成立か、どちらかに傾く場合がどうも多いような気がします。つまり、イスラム圏においては独裁政権が国を治めているときのほうがむしろ秩序が保たれるような印象があるのです。だから、欧米諸国はそろそろ自分たちキリスト教圏以外の国々に「デモクラティック・ピース」を押しつけるのはやめた方がいいのではないかと、私は思っています。そこに国連の平和理念のひとつの限界を私は見ます。しかし、その批判をカントにぶつけるつもりなどまったくありません。そのアイデアを考案した彼は、やはりたいしたものなのです。そういうカントを馬鹿みたいに持ち上げたがる今日の日本の国連中心主義者たちは、大いに批判され馬鹿にされてしかるべきである、とは思いますけれど。
カントの『永遠平和のために』に話を戻しましょう。彼は、世界平和のために国際機構を確立する必要があることは信じていますが、かといって世界政府を樹立することに対しては消極的です。おそらく、当時の国際政治の現状を直視して、ヨーロッパの諸国家がそれぞれの主権を手離す姿がどうしても想像できなかったのでしょう。それを彼は「国家は(中略)それを一般的には正しいと認めながらも、個々の場合には否認する」と言い表しています。彼は、実はなかなかのリアリストでもあったのです。そのうえで、「だからすべてのものが失われてしまわないためには、一つの世界共和国という積極的な理念の代用として、消極的な理念が必要となるのである。この消極的な理念が、たえず拡大しつづける持続的な連合という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制するのである」と言っています。これは、今日の国際連合の正確な雛形になっていますね。さらにカントは、この「連合」が成り立つうえで「啓蒙された強力な民族」による共和国、すなわち、覇権国家の役割の重要性を強調します。国際連合がアメリカ主導で創立された歴史的な事実に鑑みれば、その発言は、予言的ですらあります。
カントは、夢想家気質の哲学者ではありません。国際政治のありのままがその慧眼にはっきりと映っていたのです。同書の結語部分には次のようにあります。彼が、永遠平和という課題の困難さをよく分かっていたことが感じられます。
公法の状態(永遠平和のこと――引用者注)を実現することは義務であり、同時に根拠のある希望でもある。これが実現されるのが、たとえ無限に遠い将来のことであり、その実現に向けてたえず進んでいくだけとしてもである。だから、永遠平和は、これまで誤って平和条約と呼ばれてきたものの後につづくものではないし(これはたんなる戦争の休止にすぎない)、たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。この課題が次第に実現され、つねにその目標に近づいてゆくこと、そして進歩を実現するために必要な時間がますます短縮されることを期待したい。
高坂氏は、この結語の厳しいトーンをふまえて、次のように言います。
彼はその努力を通じて、永遠平和のための条件が容易にはもたらされえないことを認識することができた。したがって彼は、すべての民族が自由にして共和的にみずからを統治するまでの長い過渡期の矛盾を想定することができた。それゆえにこそ彼は、永遠平和が現実化されるためのプログラムを与えようとはしなかった。彼は人々を現実と理想の激しい緊張のなかに残しておいたままで、書物を終えてしまっているのである。
高坂氏は、真の平和主義者は、その「現実と理想の激しい緊張」に耐え抜く強靭な思考力をこそ有するべきであると言っているのです。「現実」とは、国家内と国家間の生々しくて激しい権力政治であり、「理想」とは、リベラルな平和論のことです。
したがって、われわれがカントの『永遠平和のために』から学ぶことができるもっとも重要な教訓は次のことである。世論に対する素朴な信念から出発した平和への努力は(その起源を国際連盟に求めるにせよ、日本の場合のように敗戦後に求めるにせよ)、現在、冷厳な国際政治の現実を経験し、平和を求める世論はそのまま平和に直結するものではないというにがい真理に直面している。そのときにあたって、一方的軍縮論というリベラリズムの自殺行為へ走ることなく、また、現在の体制を否定したあとでこの地上に理想郷が出現するという終末論に魅せられることもなく、真のリベラリズムの精神を生かすためには、まず、リベラリズムの存在理由ともいうべき世論の有効性に対して、仮借なき反省を行なうことが必要である。そうすれば、権力政治の単純な否定に代わって、権力政治への深い理解が生まれ、理想への一途な夢からさめて、理想と現実との間の激しい緊張関係のなかに立つことになるであろう。そうすれば、永遠平和への過渡期において、一歩ずつ永遠平和に近づくための過渡的平和条件を見出すことができるであろう。
後段の結論らしき上記の引用に私からつけ加えることがあるとすれば、中共の露骨な覇権主義の矢面に立たされているいま、高坂氏が示した真の理想主義=真の現実主義の道を追求することの重要性が、当時にも増して高まっているということです。
そろそろ、全体のまとめをしましょう。
国連は、国際政治の生々しくて激しい権力政治に基づく現実主義が70%の本体で、そこに、カントやルソーに始まるリベラルな平和論の理想主義の流れが30%ほど加味されている、というイメージがおおむね妥当なところかと思われます。「ちょぼちょぼ」の人間存在それ自体がおおむねそんなところだから、それほど間違ったイメージではないでしょう。
シリアへの軍事介入におけるアメリカのリーダー・シップの失墜という事態を目の当たりにするにつけ、いよいよG0(ゼロ)世界(覇権国家不在の世界)が現実のものになってきたことを実感します。
それは、権力政治的な側面における無秩序の深化を意味するので、国連の機能低下の進行を招来するものと思われます。
他方では、それは、高坂氏が言う意味での現実主義によって鍛え上げられたリベラルな平和論への期待を招来するものと思われるので、国連の理想主義的な側面における役割への期待はこれまで以上に高まるのではないでしょうか。溺れるもの藁をもつかむというわけで。
そういう両側面における矛盾し、分裂したイメージを抱えながら、国連はこれからも道なき道を歩み続けるよりほかないのでしょう。とにかく、その緊張に耐え切れずに短気を起こして途中で投げ出さないことが肝要、とは言えるでしょう。これを機に、日本は、国連を妙に尊重しすぎるこれまでの偏った、敗戦国コンプレクスまみれの姿勢を改めて、バランスの取れた、大国にふさわしい余裕のある姿勢で国連に関わるようにすべきであると、私は考えています。
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