中立性という名の政治性――榊原英資批判(その1)
小浜逸郎
総選挙へ向けて各党の動きが活発化する中、去る11月29日、産経新聞「正論」欄に、榊原英資(さかきばら・えいすけ)氏の「日銀中立性には円の信認がかかる」という論文が発表されました。
榊原氏といえば、旧大蔵官僚として辣腕を振るい、国際金融局長、財務官を務めた輝かしい経歴の持ち主です。国際金融局長時代には、強力な為替介入政策をとって当時の超円高傾向の是正に功績をもたらしましたし、アメリカの財務官僚とも堂々と渡り合うその姿勢が頼もしく見えたことも事実です。退官後も評論家としてその弁舌の流暢さと頭の良さとで鳴らした人で、ひところはテレビへの露出度もかなりのものがありました。現在でもテレビ・ラジオのレギュラー番組を持っているようです。しゃべりながらやたら体を左右にゆするのが、どうもおっちょこちょいに見えてあまりいただけませんけれどね。まあ、それは内からのエネルギーが溢れてきてしまう証拠のようなものですから、いいでしょう。
この人はまた、2003年の総選挙で民主党が政権を取った場合、財務大臣に就任することに決まっていました。「閣僚予定者名簿」に載っていたのです。
ところでくだんの論文は、原稿用紙わずか5枚のものですが、公正めかしたその論調の陰にじつは「安倍政権成立反対」を訴えるという、明らかな政治的メッセージを隠した欺瞞の見本ともいうべき文章です。いわゆる玉虫色の「官僚の作文」ならまだましです。どうせそんなものさとあきらめられるからです。逆に、ひとりの有権者、識者として、これこれの理由で安倍政権成立には反対であるとはっきり言うなら、その方がはるかに潔いといえましょう。そのどちらでもないところがいかにも曲者です。
要するにこの文章の本質は、安倍政権が成立すると、ご実家である財務省(旧大蔵省)及びこれと癒着した日銀が脅かされるのではないかというお家意識に金縛りになって(いまさらそんな必要はないはずなのに)、事の善悪もわきまえずにひたすらお家の防衛に走っているだけの代物です。短いので、以下に全文を転載しましょう。
ちなみに私自身(小浜)は、このたびの総選挙における安倍自民党の政権公約、ことに即効性のある円高デフレ不況対策、景気浮揚なくして増税なしの鉄則の遵守、原発問題に対する空文句を排した現実的な対応、TPP参加に対する慎重な態度、などに賛同するので、安倍自民党を支持することをこの機会にはっきり表明しておきたいと思います。
さて榊原論文です。みなさん、よく注意してお読みください。書かれていることは論理破綻、ウソ八百、だましテクニックのオンパレードです。
金融政策、あるいは日本銀行をめぐる自民党の安倍晋三総裁の発言はかなりのインパクトを市場に与え、円相場は1ドル=82円台までの円安に振れ、株式市場はこれを好感して、日経平均株価は上昇した。12月16日の衆議院選挙で自民党が勝利し政権交代が実現する可能性が高いと思われているので、「次期総理」の発言は非常に重く受け止められたのだ。
円安、株高は結果としては悪いことではなかったが、こうした発言は成熟した先進国では禁じ手に近い。日本銀行も米連邦準備制度理事会(FRB)も欧州中央銀行(ECB)も、政治から独立した「中立性」を維持してきたからこそ、市場に強く信頼されてきた。新興市場国や発展途上国ならともかく、先進国では中央銀行は政治から独立した存在だ。
政府と中央銀行ではインフレターゲットを共有するなど、中央銀行の中立性を侵さない範囲での協調はあり得るし、過去にも行われた例はあるが、今回の安倍発言は、日銀法改正にまで言及するなど、あまりに乱暴である。
安倍総裁が日本経済の先行きに「懸念」を持っていることは理解できる。さらなる金融緩和が必要と考えている人たちも決して少なくない。が、そのことと、中央銀行の中立性を放棄させてまで政治家が特定の政策を金融当局に強制することとは別の事だ。
本来は日銀総裁と今後の財政金融政策について、穏やかに話し合う機会を頻繁に持つようにするのが筋だろう。しかし、その場合も日銀総裁は政治的スタンスはとれない。むしろ、安倍総裁が日銀の説明を聞くといった範囲にとどめるべきだといえよう。
白川方明(まさあき)日銀総裁の任期は来年春までで、総裁の任命権は政府にある。政権交代が実現すれば、次期首相は日銀総裁の任命権者になる。ただし、衆議院および参議院の同意が必要だ。現在、参議院では、自民党も民主党も、単独では過半数の議席をもたないし、自民党と公明党を足しても過半数には届かない。ということは、今回の衆議院選挙の結果がどうなろうとも、次期総裁の選出は慎重に行われないと参議院で否決される可能性があるということだ。
過去、政府が国会に提出した武藤敏郎(日本銀行副総裁)、田波耕二(国際協力銀行総裁)の日銀総裁人事案は、いずれも参議院で否決されている。衆院選で自民党が勝利し、安倍政権が実現したとしても、総裁任命人事は他の政党の協力が必要になる。
客観的に誰が見てもこの人ならという人物を選ばないと、承認はそう簡単にはいかないだろう。その意味でも、現在の段階で安倍総裁が日本銀行や金融政策について多くを発言することは望ましくないのではなかろうか。
日本の場合、中央銀行だけでなく、行政府、つまり各省庁の人事もほとんど政治色がない。各省とも、次官や局長は長い間の人事の展開の中で政治状況とはそれほど関係なく決まってきている。2009年に自民党から民主党へ政権交代をした後でも、各省の人事は大きく動いていない。つまり、中央銀行のみならず官僚機構も、日本では政治からそこそこの中立性を維持してきたのだ。
アメリカで大統領が代わると、各省の次官だけでなく次官補、次官補代理クラスまで大きく代わるのと対照的な構図だ。アメリカのように少なくとも官僚機構は(政治化)すべきだという意見もありうるだろう。そうしなければ、首相や大臣たちが行政機構を思うように動かせないからだ。
しかし、日本では少なくとも今まではそうなってはいないし、将来、これが大きく変わるとも思えない。06年9月26日、安倍首相が就任してから約6年で首相は6人目。平均在任期間は1年強だ。閣僚の在任期間はさらに短く、財務省で7・4カ月。これでは、総理大臣も各省大臣も行政を大きく動かすことはできない。
好むと好まざるとにかかわらず、日本の政治、行政はほとんどの時期、中立的な官僚機構によって動かされてきたのだ。5年強在任した小泉純一郎首相、あるいは中曽根康弘首相はそれなりのインパクトを政治、行政にもたらしたが、他の首相たちは任期も短く、そのリーダーシップは基本的に官僚に依存したものだったということができるのだろう。
これだけ首相が頻繁に代わっているのに、政府、行政に目立った混乱がないのは、官僚機構が中立的でかつ安定的だからということができる。元官僚の筆者にはかなりのバイアスがあるかもしれないが、これが日本の政治・行政の強みだろう。半面、大きく方向を変えようというときは、このシステムはマイナスに働く可能性が強い。中立的、安定的な官僚機構に革命はできないからだ。
しかし、いずれにせよ、中央銀行や官僚機構を過度に政治化しようという試みは危ういし、また、成功もしないだろう。
では、まずみなさんにクイズ。この短い文章に「中立性」「中立的」という言葉が計何回出てくるでしょう。
はい正解。なんと7回ですね。
これは何を意味しているかというと、官僚が政治的中立性を確保・維持できていたからこそ、日本の行政は何とか機能してきたので、したがって、頻繁な政権交代があっても、それとは関係なく国民生活もうまく保たれてきたということを強調しているわけです。昔から「日本は官僚がしっかりしているからもっているんだ」というよく聞くセリフと同じですね。
たしかに、地方官僚もふくめて、全体としては、日本の官僚は今でも少ない人数でじつによく働き、しかも諸外国に比べて賄賂や汚職が少なく、かつ有能な人が多い。私は2009年4月から2012年3月まで横浜市の教育委員を務めましたが、そのささやかな経験で得た実感からもこれは言えることです。
ちなみに私は、近頃珍奇な合流によって成立したばかりの「日本何とかの会」のように、中央官僚一般の役割を否定して、中央政府の大切さを無視するような粗雑なスローガンにまったく与しません。このスローガンは、三つの点で間違っています。
一つ目。現在の一部の中央官僚の存在が国民生活にとって障害になっているという事実があったからといって、そこからは中央官僚体制一般を否定するという論理はけっして導けません。メンバーを入れ替えたり組織体質を改善すれば解決可能な問題です。「日本何とかの会」は、現在の具体的で個別的な課題として改革すれば済む問題を、全体の形式一般を壊すべきだというように、すっかりはき違えているのです。
二つ目。この「日本何とかの会」の中央官僚打破の方針は、東西両大都市の行政ボスが結託して地域主権や道州制を確立しようという意図のもとに仕組まれたものです。たしかに地方には地方固有の課題があり、ある部分は地方行政に任せた方が効率的で効果的という部分はあるでしょう。しかし、複数の地方にまたがって国全体の利害にかかわる重要課題は、国家の意思決定としての中央政府が責任をもって取り組まなければ解決できませんし、また財政の重要部分を地方に任せると、ただでさえ進んでいる都市と地方との格差がますます開いてしまうことは明らかです。お金の適切な配分を決める役割を国が握っていないと、地域間の紛争解決ができず、力の勝負になってしまうのです。この方針は、下手をすると堅実な国家体制そのものを崩壊に導きます。
三つ目。現在の「日本何とかの会」の現状刷新ムードが、民主党の大失政に乗じて作られてきたことは明瞭です。民主党政治を解体させることは大いに結構ですが、始末の悪いことに、このムードは、日本人にとって伝統的な(悪い伝統ですが)、「お上を引きずりおろせ」という野卑で粗雑な感情的動機と強く結びついています。これは、官僚や政府要人、国会議員らが高給を取ったり天下りしたり高額の歳費を使うのを「根絶」することを目指しているので、国民感情に適合しやすい。
折からこの不景気です。苦しんでいるのは、非自発的な失業者ばかりではありません。民間労働者、特に若年層は低賃金で過酷な労働を強いられ、いやならやめろという状況です。彼らにはいま、相当な不満がたまっていると想定されます。そういう時に、安定していて相対的に高給を取っているお役人がうらやましく見えるのは当然です。羨望は往々にして怨念(ルサンチマン)に変化します。現在の因循姑息(いんじゅんこそく)な財政担当者たちは、この怨念のガス抜き効果を狙って、自分たちもムダをなくして節約しますからどうぞ増税を受け容れてくださいと、国民だましのトリックを用いているのです。そして肝心の不況対策に関しては、何ら有効な手を打てないし、打とうともしない。
「日本何とかの会」も、根がポピュリズムそのものですから、このトリックにすっかり引っかかってしまっています。しかし、このトリックを用いているのは、あくまで財務省、日銀の現在の担当者たちであって、中央官僚体制一般が間違っているわけではありません。そこを混同しているのが、「何とかの会」をはじめとした中央政治批判者たちの致命的な欠陥です。人事を刷新し、少々法律をいじれば、大胆な政策によって劇的に景気回復を実現することは十分に可能なのです。
さて本題の榊原論文です。
さらなる金融緩和と日銀の国債買いオペ強化、日銀執行部人事の刷新、マイナス金利政策の実施、公共投資の大幅拡大、2%のインフレターゲットの設定、日銀法の改正などに言及した安倍自民党総裁の発言は、きわめて時宜にかなったものです。これ以外に日本の経済的窮境を救う手は、中央政治がなしうる方法としてはほかに考えられません。そればかりではありません。公共投資の拡大は、震災復興や防災体制の確立、劣化しつつあるインフラのメンテナンスなど、焦眉喫緊の課題を解決するために必要不可欠なのです。
それなのに、榊原氏は、「こうした発言は成熟した先進国では禁じ手に近い。日本銀行も米連邦準備制度理事会(FRB)も欧州中央銀行(ECB)も、政治から独立した『中立性』を維持してきたからこそ、市場に強く信頼されてきた」と、専門家ぶってウソ八百の一発目をかましています。
この榊原発言は、事実とまったく相違して、日銀がいくら十兆円規模の融資枠拡大を試みても、市場、ことに投資家たちはもともと今の日銀など信頼していませんから、株価も上がらず、為替も円高のままでした。投資家たちの反応は正直なるかな、安倍総裁が発言しただけで、現に金融市場は大きく好感し、株高、円安に動いたではありませんか。自己保身に走るしか能のない白川総裁は、この事態に狼狽して、さっそく「2%は非現実的だ」などと反論しましたが、なんの効果もありませんでしたね。
外国の事情はどうでしょう。ECBはともかく、FRBはアメリカ国内の生産力増強、景気回復のために一貫してインフレターゲットを高く設定してお札を刷りまくってきました。これは、アメリカの底力を考えれば、国際的には必然的にドル安に結びつきます。ですから、これまで国民の消費力に頼っていた輸入重視の経済政策から輸出重視に切り替えようとしている連邦政府の方針と軌を一にするものであって、結果的に、無策の日本にとっては、対ドル超円高となって現われることになります。これがどうして政治から独立した「中立性」なのでしょうか。むしろ国益にかなう積極的な政治手法ではありませんか。
そもそも、政府の財政政策と密接に絡み合っている中央銀行の金融政策が、政治から「中立」を保つことなどあり得ません。両者は連係プレーであってこそ意味をもつのです。このことをよくわきまえなかった先例に、EUの失敗があります。通貨統一をして金融政策権はECBが握っていながら、財政政策は各国の主権に任されている。これでは混乱が起きて当然です。中央銀行の対策は、政府の政策と独立になしうるものなどではなく、マクロ的な経済対策は、そのまま政治的な対策なのです。したがって、日銀の無能無策も、その政治責任を厳しく問われなくてはなりません。
次です。
政府と中央銀行ではインフレターゲットを共有するなど、中央銀行の中立性を侵さない範囲での協調はあり得るし、過去にも行われた例はあるが、今回の安倍発言は、日銀法改正にまで言及するなど、あまりに乱暴である。
どうして乱暴なのですか。いまは選挙運動期間中ですよ。ある政党が、現在の中央政治の体たらくをこのように変える、と一定の政治理念をもって宣言するのは当たり前ではありませんか。どこの政党だってやっていることです。それともなんですか、榊原さん、民主党が政権を取るために、「中立的」であるはずの官僚行政への介入を意味する「政治主導」とやらをマニフェストに書き込んだことは、乱暴ではないとでもいうのですか。できもしないこんなことを書く方がよっぽど乱暴ではありませんか。
次です。
安倍総裁が日本経済の先行きに「懸念」を持っていることは理解できる。さらなる金融緩和が必要と考えている人たちも決して少なくない。が、そのことと、中央銀行の中立性を放棄させてまで政治家が特定の政策を金融当局に強制することとは別の事だ。
よろしいですか。いま安倍自民党は、政権を取ったらこうする、と言っているのであって、何も「強制」などしていません。しかし、国民の信任を受けて政権を取った暁には、日銀の側から「強制」と見えることでも、政策の実現のために法的に許された権限内で介入的な措置を取るのは当然のことです。現に民主党政権は、「事業仕分け」というかたちで行政当局に「強制」的な介入を行ったではありませんか。派手なパフォーマンスだけの何の意味もない「強制」でしたけどね。
中央行政当局と金融当局とは違うなんて屁理屈は聞きませんよ。いま述べたように、国の命運を左右するマクロの政策を行うという意味で、両者は同じ重みをもっています。ある政党が政権を取った場合、政権の権限内で金融当局のあり方を改善しようとする、人事を変えたり法改正に乗り出したりする、これは国民の意志を正しく政治に反映させるための王道でしょう。自由な立場の言論人であるはずの榊原さん、中立、中立と、実質的には無意味な理念を振りかざして、請われたわけでもないのに「お家を守る」走狗の役割を買って出るのはおやめになったらいかがでしょうか。いや、もしかしたらその筋から請われているのかな?
もっといけないのはその次です。
本来は日銀総裁と今後の財政金融政策について、穏やかに話し合う機会を頻繁に持つようにするのが筋だろう。しかし、その場合も日銀総裁は政治的スタンスはとれない。むしろ、安倍総裁が日銀の説明を聞くといった範囲にとどめるべきだといえよう。
この文章は論理がめちゃくちゃですね。榊原さんの頭はすっかり混乱しています。安倍総裁が現在の野党の立場で「穏やかに話し合う機会を頻繁に持つ」べきだと言っているのか、それとも首相になってからそうすべきだと言っているのか。後者の場合ですら、そんな悠長なことに終始していたら、いまの日銀総裁のひどさを目の当たりにしている私どもとしては、日本経済はどんどん悪化の一途をたどると断定せざるを得ません。いわんや、投票日を目前に控えた前者の場合においてをや。
日銀総裁が政治的スタンスがとれない(実際にはそんなことはないのですが)からといって、安倍総裁がどうして日銀の説明を聞くだけの範囲にとどめなくてはならないのですか。いつの間にか、主体が白川さんから安倍さんに入れ替わっていますね。もし両方ともそういうことしかできないなら、中央政治は、こと金融政策に関して何もできないと言っているに等しいではありませんか。
もう少し続けましょう。
過去、政府が国会に提出した武藤敏郎(日本銀行副総裁)、田波耕二(国際協力銀行総裁)の日銀総裁人事案は、いずれも参議院で否決されている。衆院選で自民党が勝利し、安倍政権が実現したとしても、総裁任命人事は他の政党の協力が必要になる。
客観的に誰が見てもこの人ならという人物を選ばないと、承認はそう簡単にはいかないだろう。その意味でも、現在の段階で安倍総裁が日本銀行や金融政策について多くを発言することは望ましくないのではなかろうか。
これまたひどい言い分です。なんで承認が簡単にいかないから一政党の党首が日銀や金融政策について発言することが「望ましくない」のか。全然論理が通りません。簡単にいかないからあきらめろと言っているのと同じですね。
まず、過去の武藤、田波両氏の人事案否決のいきさつですが、月刊誌『正論』2013年1月号掲載の上念司氏の論文(「正論壁新聞」)によれば、民主党こそが不同意を連発したのであり、受験秀才であるだけで何の決断力もない白川さんを選んだのは、なんと民主党のなかの極左ボス、仙石由人氏だそうです。
あまり陰謀史観的な雑な言い方はしたくないのですが、この上念氏の指摘が正しいなら、白川総裁は国内反日勢力の傀儡(かいらい)であったということになります。榊原さんのここでの文脈からすれば、白川さんこそ「客観的に誰が見てもこの人ならという人物」ということになりますから、榊原さんは、「客観的」とか「中立的」とかいう評価によって、自分では政治的決断が何もできず反日勢力に利用されるだけの無能力者こそ、日銀総裁にふさわしいと言っていることになりますね。
だいたい、「客観的に誰が見てもこの人ならという人物」なんて、この世に存在するんですか。私が許せないのは、こういう幼稚な「科学主義」の論理を人間世界に当てはめて通用すると思っている榊原さんの安っぽいデマゴギーなのです。
きちんと読む読者の目はごまかせませんよ。榊原さんは結局何が言いたいのか。安倍総裁の論鋒の鋭さにたじたじとなっている自分の怯えを隠すために、「客観的」と称して、日銀総裁人事の承認が簡単にいかないという事実を隠れ蓑にしつつ、しかも、いかにも安倍さんのために言ってあげるという体裁を保ちながら、じつは、安倍自民党の台頭を抑えたくてしょうがないということです。だったらそう言えばいいのに。
これって、「中立的」とはほど遠く、とても「政治的」なことですね。一見ソフトで手の込んだ、しかしよく見れば言論の自由を弾圧する思想の片鱗がうかがえます。なぜかと言えば、論理に論理を対置して対等に渡り合うのではなく、「きみきみ、いまそれを言っても通らないし、ためにならないよ」といったおためごかしによって、討論相手を懐柔しようとする狡猾な「大人の手口」が見え見えだからです。結果的にレイム・ダック(死に体)の民主党を擁護する形にしかなっていません。
はっきり安倍自民党の政権公約にはこれこれの理由で賛成できないというなら、たとえその思想が極左であろうとかまわないのです。互いに堂々とやり合えば済む話ですから。しかしここでの榊原さんの言説は、知識人の「中立性」の装いを悪用した欺瞞性に満ち溢れています。かつて日本の国益のために、したたかなアメリカ経済人と対等に渡り合った闘将・榊原財務官、いまいずこ。
最後です。
これだけ首相が頻繁に代わっているのに、政府、行政に目立った混乱がないのは、官僚機構が中立的でかつ安定的だからということができる。元官僚の筆者にはかなりのバイアスがあるかもしれないが、これが日本の政治・行政の強みだろう。半面、大きく方向を変えようというときは、このシステムはマイナスに働く可能性が強い。中立的、安定的な官僚機構に革命はできないからだ。
しかし、いずれにせよ、中央銀行や官僚機構を過度に政治化しようという試みは危ういし、また、成功もしないだろう。
これはまた、官僚機構の体質がこうだから変えようとするのはやめなさいと言っているだけですね。ただの現状追随主義です。加えて、ここでも論理破綻は明瞭です。
「中立的、安定的な官僚機構に革命はできない」のは当たり前です。誰も官僚機構に革命をやってくれなどと要求していない。もし現在の官僚機構に欠陥があるなら(機構そのものに欠陥があるのではないことはすでに述べましたが)、国民のマジョリティの意思を反映した政治の力によってこそ改善が可能なはずです。それを少しでも変えようという勢力が出てくると、すっかり慌てて、官僚は変わらないから変えられないと、おっとり刀で同義反復を繰り返す。それでは何も変わるはずがないし、政治の無力をいっそう印象づけるだけのことです。
では榊原さん、あなたは民主党が「政治主導」を唱えたときに、それは無理だからやめておきなさいと忠告したのですか。寡聞にして私はそれを知りませんが、もしそれをやっていたのでしたら、あなたの言う「中立性」「客観性」を少しは信用することにしましょう。
榊原さんは、安倍総裁の発言に「中央銀行や官僚機構を過度に政治化しようという試み」を見ているようですが、安倍総裁の主張はけっして「過度」ではありません。そもそも「過度」ならダメで「穏健」ならいいといった定量的な問題提起で済む話ではなく、なぜ安倍自民党が、ちまちました金融緩和や為替介入ではいまの日本の経済的苦境、国民の生活難を克服できないと考えて、くだんの主張をしているのか、その具体的な「質」をめぐって、定性的な議論をするべきでしょう。
しかし、榊原さんのこの論稿は、少しもそれについて触れていませんね。それではまともな議論はできません。こういうお家意識丸出しの官僚OBの言い分に出会うと、ああ、やっぱり秀才官僚ってダメなのね、という粗雑な括り方をしたくなってしまいます。どうかそうさせないように、優秀な元官僚としての豊富な経験と経済知識を存分に駆使して、安倍自民党の主張は、これこれこういう理由で日本国民の今後の生活にとっていい結果をもたらさないのだという説得力ある論を展開してください。そうして、経済音痴である私たちをしっかり啓蒙してください。それでこそ経済畑出身の知識人の誇りが保てるというものでしょう
小浜逸郎
総選挙へ向けて各党の動きが活発化する中、去る11月29日、産経新聞「正論」欄に、榊原英資(さかきばら・えいすけ)氏の「日銀中立性には円の信認がかかる」という論文が発表されました。
榊原氏といえば、旧大蔵官僚として辣腕を振るい、国際金融局長、財務官を務めた輝かしい経歴の持ち主です。国際金融局長時代には、強力な為替介入政策をとって当時の超円高傾向の是正に功績をもたらしましたし、アメリカの財務官僚とも堂々と渡り合うその姿勢が頼もしく見えたことも事実です。退官後も評論家としてその弁舌の流暢さと頭の良さとで鳴らした人で、ひところはテレビへの露出度もかなりのものがありました。現在でもテレビ・ラジオのレギュラー番組を持っているようです。しゃべりながらやたら体を左右にゆするのが、どうもおっちょこちょいに見えてあまりいただけませんけれどね。まあ、それは内からのエネルギーが溢れてきてしまう証拠のようなものですから、いいでしょう。
この人はまた、2003年の総選挙で民主党が政権を取った場合、財務大臣に就任することに決まっていました。「閣僚予定者名簿」に載っていたのです。
ところでくだんの論文は、原稿用紙わずか5枚のものですが、公正めかしたその論調の陰にじつは「安倍政権成立反対」を訴えるという、明らかな政治的メッセージを隠した欺瞞の見本ともいうべき文章です。いわゆる玉虫色の「官僚の作文」ならまだましです。どうせそんなものさとあきらめられるからです。逆に、ひとりの有権者、識者として、これこれの理由で安倍政権成立には反対であるとはっきり言うなら、その方がはるかに潔いといえましょう。そのどちらでもないところがいかにも曲者です。
要するにこの文章の本質は、安倍政権が成立すると、ご実家である財務省(旧大蔵省)及びこれと癒着した日銀が脅かされるのではないかというお家意識に金縛りになって(いまさらそんな必要はないはずなのに)、事の善悪もわきまえずにひたすらお家の防衛に走っているだけの代物です。短いので、以下に全文を転載しましょう。
ちなみに私自身(小浜)は、このたびの総選挙における安倍自民党の政権公約、ことに即効性のある円高デフレ不況対策、景気浮揚なくして増税なしの鉄則の遵守、原発問題に対する空文句を排した現実的な対応、TPP参加に対する慎重な態度、などに賛同するので、安倍自民党を支持することをこの機会にはっきり表明しておきたいと思います。
さて榊原論文です。みなさん、よく注意してお読みください。書かれていることは論理破綻、ウソ八百、だましテクニックのオンパレードです。
金融政策、あるいは日本銀行をめぐる自民党の安倍晋三総裁の発言はかなりのインパクトを市場に与え、円相場は1ドル=82円台までの円安に振れ、株式市場はこれを好感して、日経平均株価は上昇した。12月16日の衆議院選挙で自民党が勝利し政権交代が実現する可能性が高いと思われているので、「次期総理」の発言は非常に重く受け止められたのだ。
円安、株高は結果としては悪いことではなかったが、こうした発言は成熟した先進国では禁じ手に近い。日本銀行も米連邦準備制度理事会(FRB)も欧州中央銀行(ECB)も、政治から独立した「中立性」を維持してきたからこそ、市場に強く信頼されてきた。新興市場国や発展途上国ならともかく、先進国では中央銀行は政治から独立した存在だ。
政府と中央銀行ではインフレターゲットを共有するなど、中央銀行の中立性を侵さない範囲での協調はあり得るし、過去にも行われた例はあるが、今回の安倍発言は、日銀法改正にまで言及するなど、あまりに乱暴である。
安倍総裁が日本経済の先行きに「懸念」を持っていることは理解できる。さらなる金融緩和が必要と考えている人たちも決して少なくない。が、そのことと、中央銀行の中立性を放棄させてまで政治家が特定の政策を金融当局に強制することとは別の事だ。
本来は日銀総裁と今後の財政金融政策について、穏やかに話し合う機会を頻繁に持つようにするのが筋だろう。しかし、その場合も日銀総裁は政治的スタンスはとれない。むしろ、安倍総裁が日銀の説明を聞くといった範囲にとどめるべきだといえよう。
白川方明(まさあき)日銀総裁の任期は来年春までで、総裁の任命権は政府にある。政権交代が実現すれば、次期首相は日銀総裁の任命権者になる。ただし、衆議院および参議院の同意が必要だ。現在、参議院では、自民党も民主党も、単独では過半数の議席をもたないし、自民党と公明党を足しても過半数には届かない。ということは、今回の衆議院選挙の結果がどうなろうとも、次期総裁の選出は慎重に行われないと参議院で否決される可能性があるということだ。
過去、政府が国会に提出した武藤敏郎(日本銀行副総裁)、田波耕二(国際協力銀行総裁)の日銀総裁人事案は、いずれも参議院で否決されている。衆院選で自民党が勝利し、安倍政権が実現したとしても、総裁任命人事は他の政党の協力が必要になる。
客観的に誰が見てもこの人ならという人物を選ばないと、承認はそう簡単にはいかないだろう。その意味でも、現在の段階で安倍総裁が日本銀行や金融政策について多くを発言することは望ましくないのではなかろうか。
日本の場合、中央銀行だけでなく、行政府、つまり各省庁の人事もほとんど政治色がない。各省とも、次官や局長は長い間の人事の展開の中で政治状況とはそれほど関係なく決まってきている。2009年に自民党から民主党へ政権交代をした後でも、各省の人事は大きく動いていない。つまり、中央銀行のみならず官僚機構も、日本では政治からそこそこの中立性を維持してきたのだ。
アメリカで大統領が代わると、各省の次官だけでなく次官補、次官補代理クラスまで大きく代わるのと対照的な構図だ。アメリカのように少なくとも官僚機構は(政治化)すべきだという意見もありうるだろう。そうしなければ、首相や大臣たちが行政機構を思うように動かせないからだ。
しかし、日本では少なくとも今まではそうなってはいないし、将来、これが大きく変わるとも思えない。06年9月26日、安倍首相が就任してから約6年で首相は6人目。平均在任期間は1年強だ。閣僚の在任期間はさらに短く、財務省で7・4カ月。これでは、総理大臣も各省大臣も行政を大きく動かすことはできない。
好むと好まざるとにかかわらず、日本の政治、行政はほとんどの時期、中立的な官僚機構によって動かされてきたのだ。5年強在任した小泉純一郎首相、あるいは中曽根康弘首相はそれなりのインパクトを政治、行政にもたらしたが、他の首相たちは任期も短く、そのリーダーシップは基本的に官僚に依存したものだったということができるのだろう。
これだけ首相が頻繁に代わっているのに、政府、行政に目立った混乱がないのは、官僚機構が中立的でかつ安定的だからということができる。元官僚の筆者にはかなりのバイアスがあるかもしれないが、これが日本の政治・行政の強みだろう。半面、大きく方向を変えようというときは、このシステムはマイナスに働く可能性が強い。中立的、安定的な官僚機構に革命はできないからだ。
しかし、いずれにせよ、中央銀行や官僚機構を過度に政治化しようという試みは危ういし、また、成功もしないだろう。
では、まずみなさんにクイズ。この短い文章に「中立性」「中立的」という言葉が計何回出てくるでしょう。
はい正解。なんと7回ですね。
これは何を意味しているかというと、官僚が政治的中立性を確保・維持できていたからこそ、日本の行政は何とか機能してきたので、したがって、頻繁な政権交代があっても、それとは関係なく国民生活もうまく保たれてきたということを強調しているわけです。昔から「日本は官僚がしっかりしているからもっているんだ」というよく聞くセリフと同じですね。
たしかに、地方官僚もふくめて、全体としては、日本の官僚は今でも少ない人数でじつによく働き、しかも諸外国に比べて賄賂や汚職が少なく、かつ有能な人が多い。私は2009年4月から2012年3月まで横浜市の教育委員を務めましたが、そのささやかな経験で得た実感からもこれは言えることです。
ちなみに私は、近頃珍奇な合流によって成立したばかりの「日本何とかの会」のように、中央官僚一般の役割を否定して、中央政府の大切さを無視するような粗雑なスローガンにまったく与しません。このスローガンは、三つの点で間違っています。
一つ目。現在の一部の中央官僚の存在が国民生活にとって障害になっているという事実があったからといって、そこからは中央官僚体制一般を否定するという論理はけっして導けません。メンバーを入れ替えたり組織体質を改善すれば解決可能な問題です。「日本何とかの会」は、現在の具体的で個別的な課題として改革すれば済む問題を、全体の形式一般を壊すべきだというように、すっかりはき違えているのです。
二つ目。この「日本何とかの会」の中央官僚打破の方針は、東西両大都市の行政ボスが結託して地域主権や道州制を確立しようという意図のもとに仕組まれたものです。たしかに地方には地方固有の課題があり、ある部分は地方行政に任せた方が効率的で効果的という部分はあるでしょう。しかし、複数の地方にまたがって国全体の利害にかかわる重要課題は、国家の意思決定としての中央政府が責任をもって取り組まなければ解決できませんし、また財政の重要部分を地方に任せると、ただでさえ進んでいる都市と地方との格差がますます開いてしまうことは明らかです。お金の適切な配分を決める役割を国が握っていないと、地域間の紛争解決ができず、力の勝負になってしまうのです。この方針は、下手をすると堅実な国家体制そのものを崩壊に導きます。
三つ目。現在の「日本何とかの会」の現状刷新ムードが、民主党の大失政に乗じて作られてきたことは明瞭です。民主党政治を解体させることは大いに結構ですが、始末の悪いことに、このムードは、日本人にとって伝統的な(悪い伝統ですが)、「お上を引きずりおろせ」という野卑で粗雑な感情的動機と強く結びついています。これは、官僚や政府要人、国会議員らが高給を取ったり天下りしたり高額の歳費を使うのを「根絶」することを目指しているので、国民感情に適合しやすい。
折からこの不景気です。苦しんでいるのは、非自発的な失業者ばかりではありません。民間労働者、特に若年層は低賃金で過酷な労働を強いられ、いやならやめろという状況です。彼らにはいま、相当な不満がたまっていると想定されます。そういう時に、安定していて相対的に高給を取っているお役人がうらやましく見えるのは当然です。羨望は往々にして怨念(ルサンチマン)に変化します。現在の因循姑息(いんじゅんこそく)な財政担当者たちは、この怨念のガス抜き効果を狙って、自分たちもムダをなくして節約しますからどうぞ増税を受け容れてくださいと、国民だましのトリックを用いているのです。そして肝心の不況対策に関しては、何ら有効な手を打てないし、打とうともしない。
「日本何とかの会」も、根がポピュリズムそのものですから、このトリックにすっかり引っかかってしまっています。しかし、このトリックを用いているのは、あくまで財務省、日銀の現在の担当者たちであって、中央官僚体制一般が間違っているわけではありません。そこを混同しているのが、「何とかの会」をはじめとした中央政治批判者たちの致命的な欠陥です。人事を刷新し、少々法律をいじれば、大胆な政策によって劇的に景気回復を実現することは十分に可能なのです。
さて本題の榊原論文です。
さらなる金融緩和と日銀の国債買いオペ強化、日銀執行部人事の刷新、マイナス金利政策の実施、公共投資の大幅拡大、2%のインフレターゲットの設定、日銀法の改正などに言及した安倍自民党総裁の発言は、きわめて時宜にかなったものです。これ以外に日本の経済的窮境を救う手は、中央政治がなしうる方法としてはほかに考えられません。そればかりではありません。公共投資の拡大は、震災復興や防災体制の確立、劣化しつつあるインフラのメンテナンスなど、焦眉喫緊の課題を解決するために必要不可欠なのです。
それなのに、榊原氏は、「こうした発言は成熟した先進国では禁じ手に近い。日本銀行も米連邦準備制度理事会(FRB)も欧州中央銀行(ECB)も、政治から独立した『中立性』を維持してきたからこそ、市場に強く信頼されてきた」と、専門家ぶってウソ八百の一発目をかましています。
この榊原発言は、事実とまったく相違して、日銀がいくら十兆円規模の融資枠拡大を試みても、市場、ことに投資家たちはもともと今の日銀など信頼していませんから、株価も上がらず、為替も円高のままでした。投資家たちの反応は正直なるかな、安倍総裁が発言しただけで、現に金融市場は大きく好感し、株高、円安に動いたではありませんか。自己保身に走るしか能のない白川総裁は、この事態に狼狽して、さっそく「2%は非現実的だ」などと反論しましたが、なんの効果もありませんでしたね。
外国の事情はどうでしょう。ECBはともかく、FRBはアメリカ国内の生産力増強、景気回復のために一貫してインフレターゲットを高く設定してお札を刷りまくってきました。これは、アメリカの底力を考えれば、国際的には必然的にドル安に結びつきます。ですから、これまで国民の消費力に頼っていた輸入重視の経済政策から輸出重視に切り替えようとしている連邦政府の方針と軌を一にするものであって、結果的に、無策の日本にとっては、対ドル超円高となって現われることになります。これがどうして政治から独立した「中立性」なのでしょうか。むしろ国益にかなう積極的な政治手法ではありませんか。
そもそも、政府の財政政策と密接に絡み合っている中央銀行の金融政策が、政治から「中立」を保つことなどあり得ません。両者は連係プレーであってこそ意味をもつのです。このことをよくわきまえなかった先例に、EUの失敗があります。通貨統一をして金融政策権はECBが握っていながら、財政政策は各国の主権に任されている。これでは混乱が起きて当然です。中央銀行の対策は、政府の政策と独立になしうるものなどではなく、マクロ的な経済対策は、そのまま政治的な対策なのです。したがって、日銀の無能無策も、その政治責任を厳しく問われなくてはなりません。
次です。
政府と中央銀行ではインフレターゲットを共有するなど、中央銀行の中立性を侵さない範囲での協調はあり得るし、過去にも行われた例はあるが、今回の安倍発言は、日銀法改正にまで言及するなど、あまりに乱暴である。
どうして乱暴なのですか。いまは選挙運動期間中ですよ。ある政党が、現在の中央政治の体たらくをこのように変える、と一定の政治理念をもって宣言するのは当たり前ではありませんか。どこの政党だってやっていることです。それともなんですか、榊原さん、民主党が政権を取るために、「中立的」であるはずの官僚行政への介入を意味する「政治主導」とやらをマニフェストに書き込んだことは、乱暴ではないとでもいうのですか。できもしないこんなことを書く方がよっぽど乱暴ではありませんか。
次です。
安倍総裁が日本経済の先行きに「懸念」を持っていることは理解できる。さらなる金融緩和が必要と考えている人たちも決して少なくない。が、そのことと、中央銀行の中立性を放棄させてまで政治家が特定の政策を金融当局に強制することとは別の事だ。
よろしいですか。いま安倍自民党は、政権を取ったらこうする、と言っているのであって、何も「強制」などしていません。しかし、国民の信任を受けて政権を取った暁には、日銀の側から「強制」と見えることでも、政策の実現のために法的に許された権限内で介入的な措置を取るのは当然のことです。現に民主党政権は、「事業仕分け」というかたちで行政当局に「強制」的な介入を行ったではありませんか。派手なパフォーマンスだけの何の意味もない「強制」でしたけどね。
中央行政当局と金融当局とは違うなんて屁理屈は聞きませんよ。いま述べたように、国の命運を左右するマクロの政策を行うという意味で、両者は同じ重みをもっています。ある政党が政権を取った場合、政権の権限内で金融当局のあり方を改善しようとする、人事を変えたり法改正に乗り出したりする、これは国民の意志を正しく政治に反映させるための王道でしょう。自由な立場の言論人であるはずの榊原さん、中立、中立と、実質的には無意味な理念を振りかざして、請われたわけでもないのに「お家を守る」走狗の役割を買って出るのはおやめになったらいかがでしょうか。いや、もしかしたらその筋から請われているのかな?
もっといけないのはその次です。
本来は日銀総裁と今後の財政金融政策について、穏やかに話し合う機会を頻繁に持つようにするのが筋だろう。しかし、その場合も日銀総裁は政治的スタンスはとれない。むしろ、安倍総裁が日銀の説明を聞くといった範囲にとどめるべきだといえよう。
この文章は論理がめちゃくちゃですね。榊原さんの頭はすっかり混乱しています。安倍総裁が現在の野党の立場で「穏やかに話し合う機会を頻繁に持つ」べきだと言っているのか、それとも首相になってからそうすべきだと言っているのか。後者の場合ですら、そんな悠長なことに終始していたら、いまの日銀総裁のひどさを目の当たりにしている私どもとしては、日本経済はどんどん悪化の一途をたどると断定せざるを得ません。いわんや、投票日を目前に控えた前者の場合においてをや。
日銀総裁が政治的スタンスがとれない(実際にはそんなことはないのですが)からといって、安倍総裁がどうして日銀の説明を聞くだけの範囲にとどめなくてはならないのですか。いつの間にか、主体が白川さんから安倍さんに入れ替わっていますね。もし両方ともそういうことしかできないなら、中央政治は、こと金融政策に関して何もできないと言っているに等しいではありませんか。
もう少し続けましょう。
過去、政府が国会に提出した武藤敏郎(日本銀行副総裁)、田波耕二(国際協力銀行総裁)の日銀総裁人事案は、いずれも参議院で否決されている。衆院選で自民党が勝利し、安倍政権が実現したとしても、総裁任命人事は他の政党の協力が必要になる。
客観的に誰が見てもこの人ならという人物を選ばないと、承認はそう簡単にはいかないだろう。その意味でも、現在の段階で安倍総裁が日本銀行や金融政策について多くを発言することは望ましくないのではなかろうか。
これまたひどい言い分です。なんで承認が簡単にいかないから一政党の党首が日銀や金融政策について発言することが「望ましくない」のか。全然論理が通りません。簡単にいかないからあきらめろと言っているのと同じですね。
まず、過去の武藤、田波両氏の人事案否決のいきさつですが、月刊誌『正論』2013年1月号掲載の上念司氏の論文(「正論壁新聞」)によれば、民主党こそが不同意を連発したのであり、受験秀才であるだけで何の決断力もない白川さんを選んだのは、なんと民主党のなかの極左ボス、仙石由人氏だそうです。
あまり陰謀史観的な雑な言い方はしたくないのですが、この上念氏の指摘が正しいなら、白川総裁は国内反日勢力の傀儡(かいらい)であったということになります。榊原さんのここでの文脈からすれば、白川さんこそ「客観的に誰が見てもこの人ならという人物」ということになりますから、榊原さんは、「客観的」とか「中立的」とかいう評価によって、自分では政治的決断が何もできず反日勢力に利用されるだけの無能力者こそ、日銀総裁にふさわしいと言っていることになりますね。
だいたい、「客観的に誰が見てもこの人ならという人物」なんて、この世に存在するんですか。私が許せないのは、こういう幼稚な「科学主義」の論理を人間世界に当てはめて通用すると思っている榊原さんの安っぽいデマゴギーなのです。
きちんと読む読者の目はごまかせませんよ。榊原さんは結局何が言いたいのか。安倍総裁の論鋒の鋭さにたじたじとなっている自分の怯えを隠すために、「客観的」と称して、日銀総裁人事の承認が簡単にいかないという事実を隠れ蓑にしつつ、しかも、いかにも安倍さんのために言ってあげるという体裁を保ちながら、じつは、安倍自民党の台頭を抑えたくてしょうがないということです。だったらそう言えばいいのに。
これって、「中立的」とはほど遠く、とても「政治的」なことですね。一見ソフトで手の込んだ、しかしよく見れば言論の自由を弾圧する思想の片鱗がうかがえます。なぜかと言えば、論理に論理を対置して対等に渡り合うのではなく、「きみきみ、いまそれを言っても通らないし、ためにならないよ」といったおためごかしによって、討論相手を懐柔しようとする狡猾な「大人の手口」が見え見えだからです。結果的にレイム・ダック(死に体)の民主党を擁護する形にしかなっていません。
はっきり安倍自民党の政権公約にはこれこれの理由で賛成できないというなら、たとえその思想が極左であろうとかまわないのです。互いに堂々とやり合えば済む話ですから。しかしここでの榊原さんの言説は、知識人の「中立性」の装いを悪用した欺瞞性に満ち溢れています。かつて日本の国益のために、したたかなアメリカ経済人と対等に渡り合った闘将・榊原財務官、いまいずこ。
最後です。
これだけ首相が頻繁に代わっているのに、政府、行政に目立った混乱がないのは、官僚機構が中立的でかつ安定的だからということができる。元官僚の筆者にはかなりのバイアスがあるかもしれないが、これが日本の政治・行政の強みだろう。半面、大きく方向を変えようというときは、このシステムはマイナスに働く可能性が強い。中立的、安定的な官僚機構に革命はできないからだ。
しかし、いずれにせよ、中央銀行や官僚機構を過度に政治化しようという試みは危ういし、また、成功もしないだろう。
これはまた、官僚機構の体質がこうだから変えようとするのはやめなさいと言っているだけですね。ただの現状追随主義です。加えて、ここでも論理破綻は明瞭です。
「中立的、安定的な官僚機構に革命はできない」のは当たり前です。誰も官僚機構に革命をやってくれなどと要求していない。もし現在の官僚機構に欠陥があるなら(機構そのものに欠陥があるのではないことはすでに述べましたが)、国民のマジョリティの意思を反映した政治の力によってこそ改善が可能なはずです。それを少しでも変えようという勢力が出てくると、すっかり慌てて、官僚は変わらないから変えられないと、おっとり刀で同義反復を繰り返す。それでは何も変わるはずがないし、政治の無力をいっそう印象づけるだけのことです。
では榊原さん、あなたは民主党が「政治主導」を唱えたときに、それは無理だからやめておきなさいと忠告したのですか。寡聞にして私はそれを知りませんが、もしそれをやっていたのでしたら、あなたの言う「中立性」「客観性」を少しは信用することにしましょう。
榊原さんは、安倍総裁の発言に「中央銀行や官僚機構を過度に政治化しようという試み」を見ているようですが、安倍総裁の主張はけっして「過度」ではありません。そもそも「過度」ならダメで「穏健」ならいいといった定量的な問題提起で済む話ではなく、なぜ安倍自民党が、ちまちました金融緩和や為替介入ではいまの日本の経済的苦境、国民の生活難を克服できないと考えて、くだんの主張をしているのか、その具体的な「質」をめぐって、定性的な議論をするべきでしょう。
しかし、榊原さんのこの論稿は、少しもそれについて触れていませんね。それではまともな議論はできません。こういうお家意識丸出しの官僚OBの言い分に出会うと、ああ、やっぱり秀才官僚ってダメなのね、という粗雑な括り方をしたくなってしまいます。どうかそうさせないように、優秀な元官僚としての豊富な経験と経済知識を存分に駆使して、安倍自民党の主張は、これこれこういう理由で日本国民の今後の生活にとっていい結果をもたらさないのだという説得力ある論を展開してください。そうして、経済音痴である私たちをしっかり啓蒙してください。それでこそ経済畑出身の知識人の誇りが保てるというものでしょう
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