明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その2)
宮里立士
目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年(その1)
第二節 研究史における士族反乱の位置(今回)
・・歴史とはそのような価値概念によってきれいさっぱりと整理できるものなのであろうか・・
研究史においては、明治初年に続発した士族反乱とは、征韓論争という「十六世紀的絶対主義と十九世紀的絶対主義との対立」の、十六世紀的絶対主義の側が起こした反乱であり、「当時の国民的課題とは全く相反する」、「一片の近代化の志向性をもみいだすことはできない」(注7)、「歴史に逆行する反革命運動であり、それが敗退するのは歴史的必然」(注8)であった、と位置づけられている(注9)。つまり士族反乱は、維新変革と自由民権運動の間にあって、後二者が歴史の進歩をあらわしているのに対し、ひとり歴史の進歩を阻害する反動であり、後二者とは対蹠的存在なのである。故に両者の関係とは、水と油の関係であるべきであって、もし双方に何らかの関連があるとしても、それは無視してしかるべきもの、その関連がどうしても無視することができないほどに強い場合にのみ、それは維新変化の、自由民権運動の、進歩の度合いの不徹底さを示す要素として歴史的進歩の負の側面と理解されてきた。だが、歴史とはそのような価値概念によってきれいさっぱりと整理できるものなのであろうか。
なぜ士族反乱が反動なのか。それはかれらが明治初年、なによりも優先されるべき近代的国家機構の整備、資本主義の確立、といったことには一顧だにせず、征韓という対外的膨張の即時断行に狂奔し、士族独裁体制の確立を国内的には目指して、明治政府が行った武士の特権の剥奪を、旧に復することを目的としているのみであったからなのである。
そこには、すでに明治政府の主流派指導者すら構想していた民撰議員開設への展望、江戸時代と変わらぬ重い地租負担に喘いでいた農民層への眼差、そして当時最大の外交懸案であった条約改正問題への対処、という近代初頭の日本が真に受け止めねばならない諸問題に対する配慮がひとつもなされておらず、士族中心の侵略主義的発想のみあって、近代日本の歩みについて全く思念が行き届いていないというのだ。氏族反乱は故に、直接生産者たる農民層を排除して行われ、しかも旧藩以来の割拠主義と藩家臣団意識すら克服できず、時期的にも地域的にも極めて近接して決起されていながら、各反乱は連繋することもなく、明治政府によって各個撃滅されてしまった。(注10)
明治維新の絶対主義的部分でも最も救い難い部分が結集して、起こした騒動のように指弾されてきた士族反乱であるが、当時においてかれらが、呉下の阿蒙(いつまで経っても進歩しない人のことを指す言葉――筆写人注)のように、飛び抜けて蒙昧な手合いであったのか。もしそうであるならば、たとえば明治政府の掲げた市民平等の改革に対して、幕藩体制期そのままの身分差別の温存を訴え、あるいは時代錯誤も甚だしい要求を掲げて起こった農民一揆はどう考えればよいのだろう。(注11)自由民権運動の中でも、最も急進的な大井憲太郎一派が武力を以って朝鮮半島に乗り込み、騒乱事件を起こして、それを梃子にして日本における自由民権運動の前進を期した大阪事件はどう捉えればよいのであろうか。(注12)
もちろんこれらの事例は明治前半期における農民闘争の、自由民権運動の、歴史的限界として否定的に評価されている。しかし同じように歴史的限界を背負った士族反乱だけ、なぜ中身に立ち入った検証もなされずに、全否定の対象とされねばならないのか。それは士族反乱が歴史的進歩の方向を向いておらず、どう考えても旧時代の復権を目指した動きにみえるからであろうか。
だが、たとえば佐賀の乱の首謀者江藤新平が、明治政府きっての開明指導者のひとりであり、その決起文が「夫(それ)、国権行はるれば、則、民権随て全し」と書き出されているのは、どう考えればよいのか。(注13)廃刀令に抗議して何ら成算なく立ち上がった神風連の面々には、まず最初から征韓の断行やら士族独裁体制の確立などといった発想すらなかったことをどう説明するのか。(注14)西南戦争に至るまでの西郷隆盛の去就がなぜ朝野を問わず、日本全土注目の的であったのか。士族反乱が士族中心の国家体制を目指したとして、現実的にいって武士勢力の武力闘争の中から生まれて日の浅い新国家を、とりあえず担うことのできたのは、その後身たる士族たちではなかったか。そもそも既得権を何の異議申し立てもできずに奪われた士族が、武力行使というかたちであれ、抗議の意思を表わすことに全く否定的であってもいいのであろうか。
士族反乱を全否定し、黙殺する態度とは、無意識ではあれ、明治政府の敷いた近代化コースのみを日本近代黎明期、唯一の、あるいは至当の、道として追認する発想によってのみ可能となるのではなかろうか。(注15)
もちろん士族反乱に否定的な論者は同時に、明治政府の上からの近代化が、いかに民情を無視した国家優先の強引なものであったかを強調する論者でもある。しかし政府首脳の専制性はひとまずおいて、明治政府の目指した西欧流近代に即した近代化の方向性は、問題点が多々あったとしても、歴史的進歩の当然な流れであると、このような論者にも是認され、むしろ一層の前進、進歩の継承こそが正しい道であると論じられてきたのではないか。だから、明治政府の専制性が露骨に現れてきたとき、民衆はみずから立ち上がり歴史の前進を期し、そのなかから日本における市民革命の実現を展望すべきであったと考えたがゆえに、士族反乱のあとに盛り上がる自由民権運動に対して、極めて高い評価を与えてきたのではないか。そのため自由民権運動の末期、武装蜂起となって現れた激化事件を、人民の、専制政府に対する当然の抵抗運動であったと、先のような論を展開する者は、称えてきたのではないか。同じ明治政府への反対者といっても士族反乱の一派とはわけが違うのである。(注16)
反乱士族たちがどれだけ歴史的進歩の展望を持っていたか、確かに疑わしい。だが、かれらとて明治初年の現実の中で、自らの主張を貫くために立ち挙がったはずである。そこには明らかにかれらなりの国家展望があった。征韓といい、士族独裁制といい、それらが本当に反乱士族らの目指したものかどうか検討の余地はあると思うが、それは幕末からひき続く問題、端的にいって対外的危機、とのかねあいのなかで考えてみる必要があるのではなかろうか。(注17)
本格的士族反乱の端緒となった佐賀の乱の、先に引用した決起文「夫、国権行はるれば、則、民権随て全し」の国権と民権。士族反乱の徒ですら掲げねばならない題目としてあったこの二つ。国権の確立あって、そののちに民権が整えられる、という発想は、当時、そんなに突飛な発想ではなかったはずである。いかにして国権を確立して、民権の充実に及ぶか。この問題は明治期全体においてあらゆる識者を巻き込んで、考えられた問題であったはずである。反乱士族たちの念頭にあった問題意識も新時代に孤立したものではなかったわけである。
*筆写人より:参考までに、明治初年の士族反乱と農民一揆を年代順に列挙しておきます。(オレンジが士族反乱、紫が農民一揆)
・1874.1 赤坂喰違(くいちがい)の変 右大臣岩倉具視が征韓派の高知県士族武市熊吉らに襲撃された事件。
・1874.2 征韓を主張する征韓党が下野した前参議・江藤新平を擁して起こした士族反乱。
・1874.6 わっぱ騒動 酒田市の過納租税の返還を求めた一揆。県令三島通庸によって弾圧される。わっぱ(木でできた弁当箱)で配分できるほど過納租税があるという意味からついた名称。
・1876.2 伊勢騒動 三重県からおこった地租改正反対一揆で、愛知・堺・岐阜の三県にも波及。
・1876.10 神風連(敬神党)の乱 大田黒伴雄を中心に、熊本士族が廃刀令に反対して挙兵。
・1876.10 秋月の乱 宮崎車之助(しゃのすけ)を中心とする福岡県旧秋月藩士族による反乱。征韓と国権拡張を主張。
・1876.10 萩の乱 前参議前原一誠を中心に山口県士族らがおこした士族反乱。広島鎮台兵により鎮圧。
・1876.11 真壁騒動 茨城県真壁一帯におこった地租改正反対一揆。
・1877.2~9 西南戦争 西郷隆盛を擁しておこした最大の士族反乱。
・1878.5 紀尾井坂の変 内務卿・大久保利通が石川県士族島田一郎らに暗殺された事件。
(『詳説 日本史図録 第6版』山川出版社 より)
原注
・注7:後藤靖「士族反乱と民衆騒擾」(青木書店 一九六七年)、第一章「士族反乱の構造」参照。かぎかっこ内。第一は二六ページ。第二、第三は七四ページ。
・注8:同上「士族反乱と民衆騒擾」(岩波講座『日本史一四 近代Ⅰ』所収 一九七五年)、三〇三ページ。
・注9:小池ウルスラは研究史における士族反乱の位置づけを整理して次の四つの傾向を指摘している。(1)中央集権的統一国家形成途上における藩閥・独裁主義への反対運動(2)維新に貢献した尊王攘夷主義者を主とした封建支配階層の、権力統一過程から脱落しようとする不安、不満の爆発。(3)封建的特権の維持や回復を目指して近代国家の成立に抵抗する保守的運動。これは多くの研究者がとる立場である。(4)直前の(3)の立場に対して士族反乱のなかに進歩性を見いだし、このなかから民権運動の萌芽である「有司専制」への抵抗をみようとする視点。しかし士族反乱については本文で述べた位置づけ、即ち先の整理に従えば(3)に該当する位置づけが研究史において一般的のように見受けられる。小池も多くの研究者がこの立場にたつと指摘している。そして(4)は長年、研究史上主流を占めてきた(3)の立場に対する再検討を促す姿勢から近年、提起された視点である。(1)についていえばこれは強引な中央集権化に対する抵抗運動という、明治初期の政治対立を指摘しているのであって、士族反乱そのものの位置づけを明確化したものとはいえないと思われる。なお(3)の代表者として小池は、井上清とともに後藤を揚げている(「士族解体と士族反乱」 伊藤隆編『日本近代史の再構築』所収 山川出版社 一九九三年)。
・注10:後藤前掲書、同じ章の論述に基づく。本節における士族反乱の研究史上の位置づけは、主として後藤の見解に基づいて、記述している。
・注11:鶴巻孝雄「民衆騒擾と社会意識」(岩波講座『日本通史 第十六巻 近代1』所収
一九九四年)参照
・注12:大阪事件については、松尾章一『増補・改訂 自由民権思想の研究』(日本経済評論社 一九九〇年)、第五章「大阪事件の思想史的位置」を参照。かれらのなかには日清戦争後、朝鮮半島における日本の「国権」保持のため、韓国王宮に乗り込んで王妃を惨殺した閔妃事件の関与者もいるという(上村希美雄『民権と国権のあいだ 明治草莽思想史覚書』葦書房 昭和五一年 三二二ページ)。
・注13:黒龍会編『西南記伝』上巻二(明治四一年)、四二四ページ。正式には「決戦之議」と題されている。
・注14:神風連という、当時にあっても特異な一党についての内実は、渡辺京二『神風連とその時代』(葦書房 昭和五一年)を参照した。
・注15:戦後の代表的な進歩的歴史家羽仁五郎は、その著『明治維新』(岩波新書 昭和三一年)で明治政府の進歩性を高く評価している。また羽仁の教えを受けた井上清も『西郷隆盛』(中公新書 一九七〇年)のなかで、維新以後の日本の開明ぶりを同じく高く評価している。
・注16:激化事件中、等しく論者がその革命性を高く評価している事件は、秩父事件である。しかし近年の研究動向において、秩父事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」とみることに疑問が投げかけられているという(森山軍治郎「秩父事件とフランス革命」 前掲 岩波講座『日本通史 第十六巻 近代Ⅰ』月報)。
・注17:たとえば先に名をあげた自由民権運動きっての急進派馬場辰猪の演説にも、ヨーロッパ帝国主義に対抗するためには、武力を背景としてでも清国に日本との提携を迫る必要性を訴えるものがあるという(萩原前掲書二四六ページ)。
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その2)
宮里立士
目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年(その1)
第二節 研究史における士族反乱の位置(今回)
・・歴史とはそのような価値概念によってきれいさっぱりと整理できるものなのであろうか・・
研究史においては、明治初年に続発した士族反乱とは、征韓論争という「十六世紀的絶対主義と十九世紀的絶対主義との対立」の、十六世紀的絶対主義の側が起こした反乱であり、「当時の国民的課題とは全く相反する」、「一片の近代化の志向性をもみいだすことはできない」(注7)、「歴史に逆行する反革命運動であり、それが敗退するのは歴史的必然」(注8)であった、と位置づけられている(注9)。つまり士族反乱は、維新変革と自由民権運動の間にあって、後二者が歴史の進歩をあらわしているのに対し、ひとり歴史の進歩を阻害する反動であり、後二者とは対蹠的存在なのである。故に両者の関係とは、水と油の関係であるべきであって、もし双方に何らかの関連があるとしても、それは無視してしかるべきもの、その関連がどうしても無視することができないほどに強い場合にのみ、それは維新変化の、自由民権運動の、進歩の度合いの不徹底さを示す要素として歴史的進歩の負の側面と理解されてきた。だが、歴史とはそのような価値概念によってきれいさっぱりと整理できるものなのであろうか。
なぜ士族反乱が反動なのか。それはかれらが明治初年、なによりも優先されるべき近代的国家機構の整備、資本主義の確立、といったことには一顧だにせず、征韓という対外的膨張の即時断行に狂奔し、士族独裁体制の確立を国内的には目指して、明治政府が行った武士の特権の剥奪を、旧に復することを目的としているのみであったからなのである。
そこには、すでに明治政府の主流派指導者すら構想していた民撰議員開設への展望、江戸時代と変わらぬ重い地租負担に喘いでいた農民層への眼差、そして当時最大の外交懸案であった条約改正問題への対処、という近代初頭の日本が真に受け止めねばならない諸問題に対する配慮がひとつもなされておらず、士族中心の侵略主義的発想のみあって、近代日本の歩みについて全く思念が行き届いていないというのだ。氏族反乱は故に、直接生産者たる農民層を排除して行われ、しかも旧藩以来の割拠主義と藩家臣団意識すら克服できず、時期的にも地域的にも極めて近接して決起されていながら、各反乱は連繋することもなく、明治政府によって各個撃滅されてしまった。(注10)
明治維新の絶対主義的部分でも最も救い難い部分が結集して、起こした騒動のように指弾されてきた士族反乱であるが、当時においてかれらが、呉下の阿蒙(いつまで経っても進歩しない人のことを指す言葉――筆写人注)のように、飛び抜けて蒙昧な手合いであったのか。もしそうであるならば、たとえば明治政府の掲げた市民平等の改革に対して、幕藩体制期そのままの身分差別の温存を訴え、あるいは時代錯誤も甚だしい要求を掲げて起こった農民一揆はどう考えればよいのだろう。(注11)自由民権運動の中でも、最も急進的な大井憲太郎一派が武力を以って朝鮮半島に乗り込み、騒乱事件を起こして、それを梃子にして日本における自由民権運動の前進を期した大阪事件はどう捉えればよいのであろうか。(注12)
もちろんこれらの事例は明治前半期における農民闘争の、自由民権運動の、歴史的限界として否定的に評価されている。しかし同じように歴史的限界を背負った士族反乱だけ、なぜ中身に立ち入った検証もなされずに、全否定の対象とされねばならないのか。それは士族反乱が歴史的進歩の方向を向いておらず、どう考えても旧時代の復権を目指した動きにみえるからであろうか。
だが、たとえば佐賀の乱の首謀者江藤新平が、明治政府きっての開明指導者のひとりであり、その決起文が「夫(それ)、国権行はるれば、則、民権随て全し」と書き出されているのは、どう考えればよいのか。(注13)廃刀令に抗議して何ら成算なく立ち上がった神風連の面々には、まず最初から征韓の断行やら士族独裁体制の確立などといった発想すらなかったことをどう説明するのか。(注14)西南戦争に至るまでの西郷隆盛の去就がなぜ朝野を問わず、日本全土注目の的であったのか。士族反乱が士族中心の国家体制を目指したとして、現実的にいって武士勢力の武力闘争の中から生まれて日の浅い新国家を、とりあえず担うことのできたのは、その後身たる士族たちではなかったか。そもそも既得権を何の異議申し立てもできずに奪われた士族が、武力行使というかたちであれ、抗議の意思を表わすことに全く否定的であってもいいのであろうか。
士族反乱を全否定し、黙殺する態度とは、無意識ではあれ、明治政府の敷いた近代化コースのみを日本近代黎明期、唯一の、あるいは至当の、道として追認する発想によってのみ可能となるのではなかろうか。(注15)
もちろん士族反乱に否定的な論者は同時に、明治政府の上からの近代化が、いかに民情を無視した国家優先の強引なものであったかを強調する論者でもある。しかし政府首脳の専制性はひとまずおいて、明治政府の目指した西欧流近代に即した近代化の方向性は、問題点が多々あったとしても、歴史的進歩の当然な流れであると、このような論者にも是認され、むしろ一層の前進、進歩の継承こそが正しい道であると論じられてきたのではないか。だから、明治政府の専制性が露骨に現れてきたとき、民衆はみずから立ち上がり歴史の前進を期し、そのなかから日本における市民革命の実現を展望すべきであったと考えたがゆえに、士族反乱のあとに盛り上がる自由民権運動に対して、極めて高い評価を与えてきたのではないか。そのため自由民権運動の末期、武装蜂起となって現れた激化事件を、人民の、専制政府に対する当然の抵抗運動であったと、先のような論を展開する者は、称えてきたのではないか。同じ明治政府への反対者といっても士族反乱の一派とはわけが違うのである。(注16)
反乱士族たちがどれだけ歴史的進歩の展望を持っていたか、確かに疑わしい。だが、かれらとて明治初年の現実の中で、自らの主張を貫くために立ち挙がったはずである。そこには明らかにかれらなりの国家展望があった。征韓といい、士族独裁制といい、それらが本当に反乱士族らの目指したものかどうか検討の余地はあると思うが、それは幕末からひき続く問題、端的にいって対外的危機、とのかねあいのなかで考えてみる必要があるのではなかろうか。(注17)
本格的士族反乱の端緒となった佐賀の乱の、先に引用した決起文「夫、国権行はるれば、則、民権随て全し」の国権と民権。士族反乱の徒ですら掲げねばならない題目としてあったこの二つ。国権の確立あって、そののちに民権が整えられる、という発想は、当時、そんなに突飛な発想ではなかったはずである。いかにして国権を確立して、民権の充実に及ぶか。この問題は明治期全体においてあらゆる識者を巻き込んで、考えられた問題であったはずである。反乱士族たちの念頭にあった問題意識も新時代に孤立したものではなかったわけである。
*筆写人より:参考までに、明治初年の士族反乱と農民一揆を年代順に列挙しておきます。(オレンジが士族反乱、紫が農民一揆)
・1874.1 赤坂喰違(くいちがい)の変 右大臣岩倉具視が征韓派の高知県士族武市熊吉らに襲撃された事件。
・1874.2 征韓を主張する征韓党が下野した前参議・江藤新平を擁して起こした士族反乱。
・1874.6 わっぱ騒動 酒田市の過納租税の返還を求めた一揆。県令三島通庸によって弾圧される。わっぱ(木でできた弁当箱)で配分できるほど過納租税があるという意味からついた名称。
・1876.2 伊勢騒動 三重県からおこった地租改正反対一揆で、愛知・堺・岐阜の三県にも波及。
・1876.10 神風連(敬神党)の乱 大田黒伴雄を中心に、熊本士族が廃刀令に反対して挙兵。
・1876.10 秋月の乱 宮崎車之助(しゃのすけ)を中心とする福岡県旧秋月藩士族による反乱。征韓と国権拡張を主張。
・1876.10 萩の乱 前参議前原一誠を中心に山口県士族らがおこした士族反乱。広島鎮台兵により鎮圧。
・1876.11 真壁騒動 茨城県真壁一帯におこった地租改正反対一揆。
・1877.2~9 西南戦争 西郷隆盛を擁しておこした最大の士族反乱。
・1878.5 紀尾井坂の変 内務卿・大久保利通が石川県士族島田一郎らに暗殺された事件。
(『詳説 日本史図録 第6版』山川出版社 より)
原注
・注7:後藤靖「士族反乱と民衆騒擾」(青木書店 一九六七年)、第一章「士族反乱の構造」参照。かぎかっこ内。第一は二六ページ。第二、第三は七四ページ。
・注8:同上「士族反乱と民衆騒擾」(岩波講座『日本史一四 近代Ⅰ』所収 一九七五年)、三〇三ページ。
・注9:小池ウルスラは研究史における士族反乱の位置づけを整理して次の四つの傾向を指摘している。(1)中央集権的統一国家形成途上における藩閥・独裁主義への反対運動(2)維新に貢献した尊王攘夷主義者を主とした封建支配階層の、権力統一過程から脱落しようとする不安、不満の爆発。(3)封建的特権の維持や回復を目指して近代国家の成立に抵抗する保守的運動。これは多くの研究者がとる立場である。(4)直前の(3)の立場に対して士族反乱のなかに進歩性を見いだし、このなかから民権運動の萌芽である「有司専制」への抵抗をみようとする視点。しかし士族反乱については本文で述べた位置づけ、即ち先の整理に従えば(3)に該当する位置づけが研究史において一般的のように見受けられる。小池も多くの研究者がこの立場にたつと指摘している。そして(4)は長年、研究史上主流を占めてきた(3)の立場に対する再検討を促す姿勢から近年、提起された視点である。(1)についていえばこれは強引な中央集権化に対する抵抗運動という、明治初期の政治対立を指摘しているのであって、士族反乱そのものの位置づけを明確化したものとはいえないと思われる。なお(3)の代表者として小池は、井上清とともに後藤を揚げている(「士族解体と士族反乱」 伊藤隆編『日本近代史の再構築』所収 山川出版社 一九九三年)。
・注10:後藤前掲書、同じ章の論述に基づく。本節における士族反乱の研究史上の位置づけは、主として後藤の見解に基づいて、記述している。
・注11:鶴巻孝雄「民衆騒擾と社会意識」(岩波講座『日本通史 第十六巻 近代1』所収
一九九四年)参照
・注12:大阪事件については、松尾章一『増補・改訂 自由民権思想の研究』(日本経済評論社 一九九〇年)、第五章「大阪事件の思想史的位置」を参照。かれらのなかには日清戦争後、朝鮮半島における日本の「国権」保持のため、韓国王宮に乗り込んで王妃を惨殺した閔妃事件の関与者もいるという(上村希美雄『民権と国権のあいだ 明治草莽思想史覚書』葦書房 昭和五一年 三二二ページ)。
・注13:黒龍会編『西南記伝』上巻二(明治四一年)、四二四ページ。正式には「決戦之議」と題されている。
・注14:神風連という、当時にあっても特異な一党についての内実は、渡辺京二『神風連とその時代』(葦書房 昭和五一年)を参照した。
・注15:戦後の代表的な進歩的歴史家羽仁五郎は、その著『明治維新』(岩波新書 昭和三一年)で明治政府の進歩性を高く評価している。また羽仁の教えを受けた井上清も『西郷隆盛』(中公新書 一九七〇年)のなかで、維新以後の日本の開明ぶりを同じく高く評価している。
・注16:激化事件中、等しく論者がその革命性を高く評価している事件は、秩父事件である。しかし近年の研究動向において、秩父事件を「自由民権運動の最後にして最高の形態」とみることに疑問が投げかけられているという(森山軍治郎「秩父事件とフランス革命」 前掲 岩波講座『日本通史 第十六巻 近代Ⅰ』月報)。
・注17:たとえば先に名をあげた自由民権運動きっての急進派馬場辰猪の演説にも、ヨーロッパ帝国主義に対抗するためには、武力を背景としてでも清国に日本との提携を迫る必要性を訴えるものがあるという(萩原前掲書二四六ページ)。
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