当ブログの常連執筆者のひとり、宮里立士氏が、先月の三月二六日午後八時半、那覇市赤十字病院にて逝去なさいました。直接の死因は静脈瘤破裂による大量出血。享年四八歳。志半ばでこの世を去らざるをえなかった当人の胸中を思うと、なにをどう言ったらよいのやら、言葉が見つかりません。だれよりも当人がそうでしょう。せめて、手元にある彼の遺稿をアップし、ひとりでも多くのひとびとの目にふれることを願うばかりです。その死を美化する気など毛頭ないのではありますが、その陽気な笑い声と地黒の、クリクリと目のよく動く丸顔とを思い浮かべると、宮里氏はいま極楽浄土にいるに違いないと信じられてならないのです。彼は、この世に残るわたしたちに嫌な後味をなにひとつ残さずに、たったひとつ沖縄の海のような透明な記憶だけを残して、あの世へ旅立って行った人であります。
美津島明
***
明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その1)
宮里立士
目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年
第二節 研究史における士族反乱の位置
第三節 伝統社会の終焉と近代国家の形成
第一章 西南戦争に呼応するまで
第一節 生い立ちと維新に至るまでの活動
第二節 道生館について――増田宋太郎の人間形成
第三節 東奔西走の日々
第四節 皇学校・共憂社・田舎新聞
第二章 反乱士族への道――西南戦争前後
第一節 「討薩」から親西郷党への転身
第二節 征韓論について
第三節 西南戦争への呼応
第三章 決起の理由・檄文の検討を通して
第一節 檄文について
第二節 方今我神州ノ勢ヲ熟視スル二
第三節 此時二際シ宜シク外勢ヲ張リ
第四節 曩日前参議江藤前原氏ノ如キ、国権ノ不立ヲ憂慮シ、
第五節 以テ内ハ一国ノ元気ヲ振起シ、
第六節 今聞西郷公闕下二イタラントス
終章 日本近代のなかにおける反乱士族増田宋太郎
第一節 「国権」と「民権」の関係について
第二節 「一日接すれば・・・・・」――逸話をめぐる考察から
第四節 「情死」をめぐって
*本文中の原注( )は、節ごとにその末尾にまとめてあります。筆記者注は、本文中で( )内にその都度つけます。
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年
″・・・だがそこに確かに、懸命な人間のひとつの生き方があった・・・″
まず、増田宋太郎についてのひとつの逸話から始めよう。
嘉永二年(一八四九)豊前(いまの大分県――筆記者注)中津藩に生まれたかれは、幕末維新期、当時の青年としてはめずらしくはないが、熱烈な尊皇攘夷家であった。しかし、だからといって幕末、尊攘運動において特に奔走したというわけではない。維新回天の年かぞえ年わずかに二十歳で、しかも徳川譜代の中津藩士であってみれば、幕末維新の風雲には馳せ参じ切れなかったのであろうか。ただ藩内で気勢を上げる程度であった。
ところで、中津藩出身者の内、幕末いち早く世に現れた人物に福沢諭吉がいる。三度の洋行を経て、著した『西洋事情』は好評嘖嘖(「さくさく」と読む――筆記者注)とし、東京で慶應義塾を開いていた福沢は、既に洋学の大家であり、新知識人の筆頭ともいうべき存在であった。この福沢は、増田には又従兄にあたるひとでもあった。
逸話とは明治三年(一八七〇)(注1)、福沢が老母を東京へ呼び寄せるため中津へ帰省したとき増田が、この又従兄を暗殺しようとしたというものである。
福沢からすれば、十五歳程年下の「子供のやうに思ひ、かつ住居も近所で朝夕往来」し、「宗(ママ)さん、宗さんといつて親しく」思っていた増田が、「なんぞはからん、この宗さんが胸に一物、恐ろしいことをたくらんでゐて、そのニコニコやさしい顔をして私方に出入りし」ていたその理由が暗殺のための偵察であったとは、よもや思いもしなかった。「いよいよ今夜は福沢を片づけるといふ」晩、福沢宅に客が来た。主客は酒を夜更るまで飲み明かした。増田はその間、外の垣根で中を伺って立っていた。夜遅くまで待っていたのである。しかし、どうしても客の帰る素振りのみえないのに業を煮やし、暗殺を「余儀なくおやめになつたといふ」。
『福翁自伝』に出てくる逸話である。(注2)この逸話は、後の西南戦争(明治十年〔一八七七〕――筆記者注)にあって西郷軍に加担し斃れた士族反乱の徒、増田宋太郎にいかにも似つかわしい話である。が、しかしその一方で増田は中津にあって自由民権運動の先駆けと目された人物でもある。そして西郷軍中、宮崎八郎(宮崎滔天の兄――筆記者注)の熊本協同隊と共に最も民権派的といわれた中津隊を率いて戦っている。となると、これは先の攘夷家増田のイメージとは若干のずれが生じてくる。
明治の民権家の大半が、元をただせば攘夷家であったという事実に鑑みれば、増田の変身も驚くに足らないかもしれない。福沢暗殺未遂事件から西南戦争まで六年半。増田も熱烈な尊王攘夷家から民権家へ転身したのであろうか。が、それではなぜ不平士族の復古的反抗といわれる士族反乱に呼応して立ち上がったのか。
増田は一体、なにを考えていたのだろうか。
明治維新とは、尊王攘夷家たちの開国和親政策への集団的転向により成り立ったものであった。つまり増田の歩んだ道も固陋家から開明家へという、広い意味においては時流に沿った歩みであったわけである。とするならば、増田はなにか勘違いをして士族反乱に呼応したのだろうか。本来明治政府に出仕してもいいようなもの。だが、何分明治政府と繋がり薄い中津藩出身者であったために、つてなくして一旗上げるべく西郷軍に加わったのか。それとも
反政府の気概に偽りはなく、ただ西南日本に生まれた故に士族反乱の徒と共闘しただけで、真実にはその後に盛り上がる自由民権の中に活路を見いだすべき人間であったのか。増田は歴史という舞台で、出どころを間違えて飛び出し、足早に退場しただけの存在なのであろうか。
明治という時代、多くの青年が用意された大舞台に飛び出しそれぞれ、稽古の暇もないながら、それでもみずからの役割を演じ抜いた。増田宋太郎とてその中のひとりといえる。増田のみに限らない。幕末から明治期にかけて、実に多くの奔走家が現れた。“草莽”という言葉に相応しいひとたちであった。(注3)その奔走家たちがわずかなときの差によって、尊王攘夷、倒幕維新、自由民権と、唱える題目を変えて、何かに取り憑かれたように駆けずり廻り、斃れていった。かれらを突き動かしていたものは何だったのか。
それを歴史的概念の中で説明することもできる。対外的危機の克服、近代国家確立のための模索、変革期における政治闘争の熾烈、と、だがたとえば、いまからたどる増田宋太郎の生涯をこれらの概念の枠内で考察するとどうなるか。
確かに増田宋太郎の意識、行動を歴史課程の中に位置づけ分析することは可能であろう。だがこれから論じていくが、それらの概念で考察し、歴史過程の中で位置づけて評価してみたのなら、増田という人物はあまりにオリジナリティに乏しく、ありふれた人物である。明治文明開化を領導した福沢諭吉のように、あるいは明治新社会を拒絶し、己が国学を固守して、旧時代さながらの神国思想を確立した増田の師渡辺重石丸(いかりまろ)のようには、増田は自立した思想をもって時代に臨んだ人物ではなかった。幕末から明治初年の時代精神と、あるときは寄り添い、またあるときはおくれ、新思潮に飲み込まれそうになりながらも、かろうじて己が本然の性を持して生きたひとであった。そこにはもちろん時代との誠実な格闘はあった。が、その格闘の中からみずからの思想的営為を大成させることなく、かれは歴史から消えていった。
増田宋太郎という人間は、時代精神の借り着を着て、ついに自前の思想を持たずに斃れたひとであった。しかしそれを以って増田を単なる歴史の端役として見過ごしていいのであろうか。
幕末から明治の新時代へという、急速に変転する社会の中で、生きることの難しさを「恰も一身にして二生を経(ふ)るが如し」と、『文明論之概略』緒言中に福沢は書きしるしている。(注4)そのことばの噛みしめかたはひとそれぞれであろうけれど、それは維新の変革に際会したひとすべての胸に沁みとおることばであったはずだ。
だが、ひとはたとえ二生を生きねばならないとしても、やはり己れ一身を以って生きて行かねばならず、この一身が、ふたつに裂けてしまうのでもない限り、世の中がいかに変わろうが、その生き方に断絶があるわけはない。
よしんば、生き方に大きな変化があろうとも、それは断絶による変化なのではない。積み重ねられた体験による変化なのだ。そしてその生き方とは、己れ一身の、生きた連続性によって裏打ちされたものなのである。増田は己れ一身で確立した思想というものを持ち合わせていなかったかも知れない。単に借り着を着て奔走しただけかもしれない。しかしながら、かれにはかれにしかできない生き方があった。その生き方を、現在の視点から、無知蒙昧な思考の所産と否定し去ることはたやすい。だがそこに確かに、懸命な人間のひとつの生き方があった。
近代社会とは、伝統社会の束縛から個々の人間の自由奔放な活動が社会に絶え間ない変革を促すところに、その特徴がある。(注5)ならばそして、日本にかろうじて近代が成立したというのなら、それは幕末から明治にかけての奔走家たちの活動に拠るところが大きいとはいえないだろうか。個人の活動の中から社会の変革が起こるのだ、という意識は、かれら幕末から明治にかけての奔走家たちの共有する認識であった。追い求める理想の実現のためのひとつひとつの実践こそが世の中を変えて行くのだ、という確信こそが大きな変革を引き起こす誘因たりえた。たとえその中に、西欧流近代の範疇に収まりきらない理想を追い求めた奔走があったとしても、われわれはその理想を、というよりもそれを追い求めた人間を、嗤(わら)うことなどできはしない。なぜならわれわれは、たとえ西欧流近代からみていかに歪んでいようとも、宋太郎のような人間の生き方によって、新たに扉が開かれた近代社会の中で生きているのだから。そして明治の近代国家とは、つまりそのような生き方の、無数の集積によって形づくられた国家であったのだ。
拠ってたつ立場のちがいなどこの場合関係ない。たとえば自由民権運動の代表的理論家でありながら、明治十九年(一八八六)三十九歳の若さでアメリカ、フィラデルフィアで窮乏のうちに死んだ馬場辰猪のことを萩原延壽(のぶとし)は「性急な歩行者」といった。(注6)それは明治の藩閥政権打倒を夢見るあまり、自らの思想を大成することなく、遂に亡命同然の姿でアメリカへ渡りかの地で永眠した馬場に対する愛惜の言葉である。幕末から明治変革の時代、「性急な歩行者」は数多くいたのである。われわれは増田とてそのなかのひとりに算え入れてもいいのではなかろうか。
原注
・注1:以後、本論は当時の慣行に従って、年表記は元号を主とし、西暦はかっこ書きとする。ただしひとつの節に同年、あるいは二、三年の近接した年表記が出てくる場合、基本的に最初の年表記のみ西暦をかっこ書きし、以下西暦は略している。また同じ年をくりかえし述べるときも略すこととする。なお明治五年(一八七二)を以って、暦は太陰暦から太陽暦に切り替えられている。よって、本論もこの年を以って年月日は太陽暦に拠って表記している。なおこれらか頻繁に用いることになる明治初年の期間であるが、本論では、明治一〇年(一八七七)、西南戦争終結までの期間を指して使うことにする。
・注2:福沢選集第十巻(岩波書店 一九八一年)所収、二二二~三ページ。前段落かぎかっこ内すべて、同ページからの引用。増田はこの前後にも二度にわたって、福沢暗殺を企てたという。第一回目は福沢が東京から中津へ帰省の途中立ち寄った大阪において、増田に兄事する朝吹英二をして(この人は後に慶應義塾に学び経済界の重鎮的存在となる)福沢を刺さしめようとしたもの。第二回は本文中で述べたもの。第三回は福沢が中津出発のとき。同志数人で福沢暗殺を議しているうち紛糾し、気を逸したというもの。『増田宋太郎伝』、『疾風のひと――ある草莽伝』などに記述されている。しかしこれらの暗殺計画がどれだけ本気で計画されたことか、これは後者の著者松下竜一も指摘するように疑問である。本文でみた通り、客が帰らないというだけで暗殺を簡単に止めているのである。松下は中津における反洋学熱を高めることが目的の暗殺計画であって、同志の気勢さえ上がれば、『もはや一福沢を斃すことは無用』と増田は判断していたのではないかと推測している(「福沢諭吉暗殺者としての増田宋太郎」『福沢手帖』第十五号所収 昭和五三年)。なお前記二著については、第一章注1で改めて詳しく紹介する。以後、注に掲げる文献の発行年はすべてすべてその文献の奥付けによって記す。
・注3:草莽とは、「特定の階級をさす階級概念ではなく、むしろ一つの意識または階層をこえて受容された、意識概念・政治的概念であった」との指摘がある(高木俊輔『幕末の志士』中公新書 昭和五一年七ページ)
・注4:福沢選集第四巻所収(岩波書店 一九八一年)、九ページ。つづけて福沢はいう、「一人(いちにん)にして両身あるが如し」と。
・注5:近代社会と伝統社会における人間存在のあり方の違い、近代における「個人主義」の誕生についてはルイ・デュモン『個人主義論考――近代イデオロギーについての人類学的展望』(渡辺公三・浅野房一訳 言叢社 一九九三年)、第一部「近代イデオロギーについて」参照。原書 Louis Dumont, Essais sur l`individualism 1983
・注6:萩原延壽『馬場辰猪』(中央公論社 昭和四二年)
美津島明
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明治初年の反乱氏族増田宋太郎
―――明治日本の「国権」と「民権」――― (その1)
宮里立士
目次
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年
第二節 研究史における士族反乱の位置
第三節 伝統社会の終焉と近代国家の形成
第一章 西南戦争に呼応するまで
第一節 生い立ちと維新に至るまでの活動
第二節 道生館について――増田宋太郎の人間形成
第三節 東奔西走の日々
第四節 皇学校・共憂社・田舎新聞
第二章 反乱士族への道――西南戦争前後
第一節 「討薩」から親西郷党への転身
第二節 征韓論について
第三節 西南戦争への呼応
第三章 決起の理由・檄文の検討を通して
第一節 檄文について
第二節 方今我神州ノ勢ヲ熟視スル二
第三節 此時二際シ宜シク外勢ヲ張リ
第四節 曩日前参議江藤前原氏ノ如キ、国権ノ不立ヲ憂慮シ、
第五節 以テ内ハ一国ノ元気ヲ振起シ、
第六節 今聞西郷公闕下二イタラントス
終章 日本近代のなかにおける反乱士族増田宋太郎
第一節 「国権」と「民権」の関係について
第二節 「一日接すれば・・・・・」――逸話をめぐる考察から
第四節 「情死」をめぐって
*本文中の原注( )は、節ごとにその末尾にまとめてあります。筆記者注は、本文中で( )内にその都度つけます。
序章 明治初年士族反乱のはらむ問題について
第一節 維新変革期における一青年
″・・・だがそこに確かに、懸命な人間のひとつの生き方があった・・・″
まず、増田宋太郎についてのひとつの逸話から始めよう。
嘉永二年(一八四九)豊前(いまの大分県――筆記者注)中津藩に生まれたかれは、幕末維新期、当時の青年としてはめずらしくはないが、熱烈な尊皇攘夷家であった。しかし、だからといって幕末、尊攘運動において特に奔走したというわけではない。維新回天の年かぞえ年わずかに二十歳で、しかも徳川譜代の中津藩士であってみれば、幕末維新の風雲には馳せ参じ切れなかったのであろうか。ただ藩内で気勢を上げる程度であった。
ところで、中津藩出身者の内、幕末いち早く世に現れた人物に福沢諭吉がいる。三度の洋行を経て、著した『西洋事情』は好評嘖嘖(「さくさく」と読む――筆記者注)とし、東京で慶應義塾を開いていた福沢は、既に洋学の大家であり、新知識人の筆頭ともいうべき存在であった。この福沢は、増田には又従兄にあたるひとでもあった。
逸話とは明治三年(一八七〇)(注1)、福沢が老母を東京へ呼び寄せるため中津へ帰省したとき増田が、この又従兄を暗殺しようとしたというものである。
福沢からすれば、十五歳程年下の「子供のやうに思ひ、かつ住居も近所で朝夕往来」し、「宗(ママ)さん、宗さんといつて親しく」思っていた増田が、「なんぞはからん、この宗さんが胸に一物、恐ろしいことをたくらんでゐて、そのニコニコやさしい顔をして私方に出入りし」ていたその理由が暗殺のための偵察であったとは、よもや思いもしなかった。「いよいよ今夜は福沢を片づけるといふ」晩、福沢宅に客が来た。主客は酒を夜更るまで飲み明かした。増田はその間、外の垣根で中を伺って立っていた。夜遅くまで待っていたのである。しかし、どうしても客の帰る素振りのみえないのに業を煮やし、暗殺を「余儀なくおやめになつたといふ」。
『福翁自伝』に出てくる逸話である。(注2)この逸話は、後の西南戦争(明治十年〔一八七七〕――筆記者注)にあって西郷軍に加担し斃れた士族反乱の徒、増田宋太郎にいかにも似つかわしい話である。が、しかしその一方で増田は中津にあって自由民権運動の先駆けと目された人物でもある。そして西郷軍中、宮崎八郎(宮崎滔天の兄――筆記者注)の熊本協同隊と共に最も民権派的といわれた中津隊を率いて戦っている。となると、これは先の攘夷家増田のイメージとは若干のずれが生じてくる。
明治の民権家の大半が、元をただせば攘夷家であったという事実に鑑みれば、増田の変身も驚くに足らないかもしれない。福沢暗殺未遂事件から西南戦争まで六年半。増田も熱烈な尊王攘夷家から民権家へ転身したのであろうか。が、それではなぜ不平士族の復古的反抗といわれる士族反乱に呼応して立ち上がったのか。
増田は一体、なにを考えていたのだろうか。
明治維新とは、尊王攘夷家たちの開国和親政策への集団的転向により成り立ったものであった。つまり増田の歩んだ道も固陋家から開明家へという、広い意味においては時流に沿った歩みであったわけである。とするならば、増田はなにか勘違いをして士族反乱に呼応したのだろうか。本来明治政府に出仕してもいいようなもの。だが、何分明治政府と繋がり薄い中津藩出身者であったために、つてなくして一旗上げるべく西郷軍に加わったのか。それとも
反政府の気概に偽りはなく、ただ西南日本に生まれた故に士族反乱の徒と共闘しただけで、真実にはその後に盛り上がる自由民権の中に活路を見いだすべき人間であったのか。増田は歴史という舞台で、出どころを間違えて飛び出し、足早に退場しただけの存在なのであろうか。
明治という時代、多くの青年が用意された大舞台に飛び出しそれぞれ、稽古の暇もないながら、それでもみずからの役割を演じ抜いた。増田宋太郎とてその中のひとりといえる。増田のみに限らない。幕末から明治期にかけて、実に多くの奔走家が現れた。“草莽”という言葉に相応しいひとたちであった。(注3)その奔走家たちがわずかなときの差によって、尊王攘夷、倒幕維新、自由民権と、唱える題目を変えて、何かに取り憑かれたように駆けずり廻り、斃れていった。かれらを突き動かしていたものは何だったのか。
それを歴史的概念の中で説明することもできる。対外的危機の克服、近代国家確立のための模索、変革期における政治闘争の熾烈、と、だがたとえば、いまからたどる増田宋太郎の生涯をこれらの概念の枠内で考察するとどうなるか。
確かに増田宋太郎の意識、行動を歴史課程の中に位置づけ分析することは可能であろう。だがこれから論じていくが、それらの概念で考察し、歴史過程の中で位置づけて評価してみたのなら、増田という人物はあまりにオリジナリティに乏しく、ありふれた人物である。明治文明開化を領導した福沢諭吉のように、あるいは明治新社会を拒絶し、己が国学を固守して、旧時代さながらの神国思想を確立した増田の師渡辺重石丸(いかりまろ)のようには、増田は自立した思想をもって時代に臨んだ人物ではなかった。幕末から明治初年の時代精神と、あるときは寄り添い、またあるときはおくれ、新思潮に飲み込まれそうになりながらも、かろうじて己が本然の性を持して生きたひとであった。そこにはもちろん時代との誠実な格闘はあった。が、その格闘の中からみずからの思想的営為を大成させることなく、かれは歴史から消えていった。
増田宋太郎という人間は、時代精神の借り着を着て、ついに自前の思想を持たずに斃れたひとであった。しかしそれを以って増田を単なる歴史の端役として見過ごしていいのであろうか。
幕末から明治の新時代へという、急速に変転する社会の中で、生きることの難しさを「恰も一身にして二生を経(ふ)るが如し」と、『文明論之概略』緒言中に福沢は書きしるしている。(注4)そのことばの噛みしめかたはひとそれぞれであろうけれど、それは維新の変革に際会したひとすべての胸に沁みとおることばであったはずだ。
だが、ひとはたとえ二生を生きねばならないとしても、やはり己れ一身を以って生きて行かねばならず、この一身が、ふたつに裂けてしまうのでもない限り、世の中がいかに変わろうが、その生き方に断絶があるわけはない。
よしんば、生き方に大きな変化があろうとも、それは断絶による変化なのではない。積み重ねられた体験による変化なのだ。そしてその生き方とは、己れ一身の、生きた連続性によって裏打ちされたものなのである。増田は己れ一身で確立した思想というものを持ち合わせていなかったかも知れない。単に借り着を着て奔走しただけかもしれない。しかしながら、かれにはかれにしかできない生き方があった。その生き方を、現在の視点から、無知蒙昧な思考の所産と否定し去ることはたやすい。だがそこに確かに、懸命な人間のひとつの生き方があった。
近代社会とは、伝統社会の束縛から個々の人間の自由奔放な活動が社会に絶え間ない変革を促すところに、その特徴がある。(注5)ならばそして、日本にかろうじて近代が成立したというのなら、それは幕末から明治にかけての奔走家たちの活動に拠るところが大きいとはいえないだろうか。個人の活動の中から社会の変革が起こるのだ、という意識は、かれら幕末から明治にかけての奔走家たちの共有する認識であった。追い求める理想の実現のためのひとつひとつの実践こそが世の中を変えて行くのだ、という確信こそが大きな変革を引き起こす誘因たりえた。たとえその中に、西欧流近代の範疇に収まりきらない理想を追い求めた奔走があったとしても、われわれはその理想を、というよりもそれを追い求めた人間を、嗤(わら)うことなどできはしない。なぜならわれわれは、たとえ西欧流近代からみていかに歪んでいようとも、宋太郎のような人間の生き方によって、新たに扉が開かれた近代社会の中で生きているのだから。そして明治の近代国家とは、つまりそのような生き方の、無数の集積によって形づくられた国家であったのだ。
拠ってたつ立場のちがいなどこの場合関係ない。たとえば自由民権運動の代表的理論家でありながら、明治十九年(一八八六)三十九歳の若さでアメリカ、フィラデルフィアで窮乏のうちに死んだ馬場辰猪のことを萩原延壽(のぶとし)は「性急な歩行者」といった。(注6)それは明治の藩閥政権打倒を夢見るあまり、自らの思想を大成することなく、遂に亡命同然の姿でアメリカへ渡りかの地で永眠した馬場に対する愛惜の言葉である。幕末から明治変革の時代、「性急な歩行者」は数多くいたのである。われわれは増田とてそのなかのひとりに算え入れてもいいのではなかろうか。
原注
・注1:以後、本論は当時の慣行に従って、年表記は元号を主とし、西暦はかっこ書きとする。ただしひとつの節に同年、あるいは二、三年の近接した年表記が出てくる場合、基本的に最初の年表記のみ西暦をかっこ書きし、以下西暦は略している。また同じ年をくりかえし述べるときも略すこととする。なお明治五年(一八七二)を以って、暦は太陰暦から太陽暦に切り替えられている。よって、本論もこの年を以って年月日は太陽暦に拠って表記している。なおこれらか頻繁に用いることになる明治初年の期間であるが、本論では、明治一〇年(一八七七)、西南戦争終結までの期間を指して使うことにする。
・注2:福沢選集第十巻(岩波書店 一九八一年)所収、二二二~三ページ。前段落かぎかっこ内すべて、同ページからの引用。増田はこの前後にも二度にわたって、福沢暗殺を企てたという。第一回目は福沢が東京から中津へ帰省の途中立ち寄った大阪において、増田に兄事する朝吹英二をして(この人は後に慶應義塾に学び経済界の重鎮的存在となる)福沢を刺さしめようとしたもの。第二回は本文中で述べたもの。第三回は福沢が中津出発のとき。同志数人で福沢暗殺を議しているうち紛糾し、気を逸したというもの。『増田宋太郎伝』、『疾風のひと――ある草莽伝』などに記述されている。しかしこれらの暗殺計画がどれだけ本気で計画されたことか、これは後者の著者松下竜一も指摘するように疑問である。本文でみた通り、客が帰らないというだけで暗殺を簡単に止めているのである。松下は中津における反洋学熱を高めることが目的の暗殺計画であって、同志の気勢さえ上がれば、『もはや一福沢を斃すことは無用』と増田は判断していたのではないかと推測している(「福沢諭吉暗殺者としての増田宋太郎」『福沢手帖』第十五号所収 昭和五三年)。なお前記二著については、第一章注1で改めて詳しく紹介する。以後、注に掲げる文献の発行年はすべてすべてその文献の奥付けによって記す。
・注3:草莽とは、「特定の階級をさす階級概念ではなく、むしろ一つの意識または階層をこえて受容された、意識概念・政治的概念であった」との指摘がある(高木俊輔『幕末の志士』中公新書 昭和五一年七ページ)
・注4:福沢選集第四巻所収(岩波書店 一九八一年)、九ページ。つづけて福沢はいう、「一人(いちにん)にして両身あるが如し」と。
・注5:近代社会と伝統社会における人間存在のあり方の違い、近代における「個人主義」の誕生についてはルイ・デュモン『個人主義論考――近代イデオロギーについての人類学的展望』(渡辺公三・浅野房一訳 言叢社 一九九三年)、第一部「近代イデオロギーについて」参照。原書 Louis Dumont, Essais sur l`individualism 1983
・注6:萩原延壽『馬場辰猪』(中央公論社 昭和四二年)
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