「公教育における道徳教育」というテーマをめぐって考えたこと(美津島明)
デロリンマンとオロカメン ジョージ秋山『デロリンマン』より
六月一四日(日)に、由紀草一さんの「道徳という不道徳」という教育講演会がありました。私はそれに司会として参加させていただきました。当企画は、「しょ~と・ぴ~すの会」という由紀さん主宰の読書会の特別企画として催されたものです。私が当会に参加したのは、かれこれ15、6年前のこと。当会は二ヶ月に一度催されます。由紀さんは、公立高等学校の英語の教員であると同時に知る人ぞ知るという教育評論家でもあります。また、演劇評論家でもあり文芸評論家でもある、という多才の人です。もちろん著書も何冊かあります。当日は、由紀さんのお話をじっくりと聞いたうえで、参加者(10名)も思うところを述べ、真摯な言葉のやりとりがなされ、文字通りあっという間の四時間でした。
以下は、当会に参加して、私なりに考えたことです。
道徳教育の必要性が叫ばれるのはどういうときか、思い浮かべてみましょう。それは主に、マスコミで少年(たち)による凶悪な殺人事件が報道されるときなのではないでしょうか。世間は、それらの事件から衝撃を受け、秩序感覚を著しく毀損され、狼狽します。そうして、〈このままではいけない。なんとかしなければいけない〉という思いにかられます。そこで、子どもたちに「命の大切さ」を教えることや「心の教育」やらの重要性が強調され、道徳を教科化して生徒たちに教えるべきであるという声が力を得ることになります。
そう考えると、道徳教育の必要性が叫ばれることには、それなりのやむをえざる社会心理的な背景が存することが分かります。それゆえ、そういう声が絶えることは今後も決してないでしょう。
とはいうものの、公教育における道徳教育の現状には、由紀さんが指摘なさったようなさまざまな問題点があります。すなわち、「だれが」・「なにを」・「どのように」教え、生徒を「いかに」評価するかをめぐって、さまざまな問題点があるのです。その一例を挙げましょう。平成二六年十月二一日に中央教育審議会が発表した「道徳に係る教育課程の改善等について(答申)」から引きます。教科化された道徳において、生徒の評価はいかにあるべきかについて、次のように述べられています。
道徳性の評価に当たっては、指導のねらいや内容に照らし、児童生徒の学習状況を把握するために、児童生徒の作文やノート、質問紙、発言や行動の観察、面接など、様々な方法で資料等を収集することになる。その上で、例えば、指導のねらいに即した観点による評価、学習活動における表現や態度などの観察による評価(「パフォーマンス評価」など)、学習の過程や成果などの記録の積み上げによる評価(「ポートフォリオ評価」など)のほか、児童生徒の自己評価などの多種多様な方法の中から適切な方法を用いて評価を行い、課題を明確にして指導の充実を図ることが望まれる。
いかがでしょうか。私の場合、これを目にしたとき、現場の教師の負担や心労に思いを馳せて、暗然とした気分に陥ったものです。ここで要求されていることを生真面目に実行しようとすれば、現場の教師の側のかなりの程度の労働強化を招いてしまうはずです。労働強化は、教師と生徒が信頼関係を築くうえでのマイナス要因にはなっても、プラス要因になることは考えにくいですね。10数年前にさかのぼりますが、中学校の通知表に、観点別評価なるものが導入されて、生徒の学力の評価が複雑化し、教師の仕事量が増えてからの教師と生徒との関係は、どことなくギスギスしたものになったような印象があります。たとえば、授業中の挙手の回数をカウントして生徒の積極性を評価する、などというどことなく馬鹿げた評価法が大真面目に導入されたりしたわけです。これはほんの一例ですが、そういうたぐいの評価法が、教師と生徒の信頼関係にとって決してプラスに働かないことは、容易に想像できますね。生徒の道徳性の評価が具体化され現場に降りてくると、そういう悪い方向性が強化されるのではないでしょうか。
ここでは、これ以上道徳教育の具体的問題点に踏み込みませんが、由紀さんがご指摘なさったさまざまな問題点を直視すると、膨大な時間と人手とお金を使って、無駄なことをやっているという印象が禁じ得なくなってきます。厳しく評するならば、「欺瞞的」と形容してもあながち間違いとも言えないのではないか、とも思えてきます。その意味で、「道徳という不道徳」という演題が適切なものである、という気がしてきます。
さらにもうひとつ指摘しなければならないことがあります。先の川崎中一リンチ殺人事件に関して、稲田朋美自民党政調会長がテレビで「最近、少年犯罪の凶悪化が進んでいる」という意味の発言をしているのを目にしましたが、それは事実に反します。少年による刑法犯・検挙人員は昭和五〇年代半ばからほぼ一貫して減少していますし、また、少年10万人当たりの検挙率も10年前の平成一五年を基準にすると激減していると言っても過言ではない状況です。殺人・強姦・強盗・放火の凶悪犯罪に限っても、同様の傾向が見られます。つまり少年犯罪は、刑法犯やさらには凶悪犯においても明らかに減っているのです。
「だから問題はない」と言いたいわけではありません。事実に反する過剰な危機感は、物事に適正に対処するうえでの障害になっても、助けにはならない、と言いたいだけです。
私は、以上のすべてを踏まえても、道徳教育の必要性が叫ばれる社会心理的不可避性はどうしようもなく残ってしまう、と言いたいのですね。少年による凶悪犯罪によって秩序感覚がおびやかされ、動揺した人心は、統治の観点からも、鎮められなければならないのです。政府は何かをしなければならないのです。そのように動揺した人心の鎮撫は、仮に道徳教育が荒唐無稽なものとして全否定されてしまっても、なお残ってしまう政策課題なのです。そこに、道徳教育議論の真のやっかいさがあるような気がします。
そこで思い出されるのが、最近物議をかもしている、元・酒鬼薔薇の『絶歌』の出版中止要求事件です。酒鬼薔薇の快楽殺人の犠牲になった土師淳君(当時11)の父、守さんが十日、代理人弁護士を通じ、「私たちの思いは無視され、踏みにじられた」とするコメントを公表し、出版の中止と本の回収を求めました。この本を読んだ知人によれば、酒鬼薔薇は、かつて自分が実行した快楽殺人を、もう一度筆で丁寧になぞって快楽を味わい直しているとしか思えないような描写をしているそうです。そういう内容を含む本書の出版の中止を求めるお父さんの気持ちは察するにあまりあります。子どもを凶悪事件で失った親の心の時計は、事件当時で止まってしまうといいます。事件の衝撃によって開いた心の傷口は永遠に塞がることがないのです。本書の出版は、その傷口をあらためて広げる所業なのです。そのことに思いを致すと、言論・出版の自由を葵のご紋のように振りかざして本書の出版を擁護しようとする連中はマトモではないという気がしないでもありません。少なくとも、言論・出版の自由は、すべてに優先する絶対の真理などでは決してありえないのです。私は、この件に関しては、無言でお父さんの側に立ちたいと思っています。
思わず筆が滑ってしまいましたが、ここではそういうことが言いたいのではありません。酒鬼薔薇の所業は、道徳教育でなんとか防げるようなものではないのです。快楽殺人者は、楽しくて気持ち良くてしょうがないから人を殺すのです。そういう病んだ心の持ち主に、いくら言葉を尽くして善悪の区別を説いても効果がないことは火を見るより明らかでしょう。むろん法で罰しても、そういう心性は治りません。ここで私たちは、この世に悪魔が実在することを直視する必要があるような気がします。悪魔に対しては、教育や理を尽くした言葉など無効です。おそらくこれは、伝統社会ならば、エクソシストが登場する領域なのではないかと思われます。言いかえれば、強靭な祈りだけがかろうじて悪なるものと対峙しうる限界状況が現代社会においても存在する。そう言えるのではないかと思われます。
それはもはや政治がどうこうできる領域ではありません。しかし、そういう悪なるものは、それが潜在的に秩序感覚の最大の脅威であるという意味で、個人的なものではなくて、公共空間に深く関わる存在です。公共性に深く関わるもので、政治が決定的に無力な領域が世界には確実にある。それでも人間社会は、悪なるものにどうにか対処して、自分たちの社会の維持を図る必要がある。総体としての人間は、実のところそういうとんでもなくやっかいな課題を潜在的に抱えて生きているのです。道徳教育の話題とずいぶんと遠いところに来てしまったようですが、私が現状で考えられるぎりぎりのところまで考えたことを削除せずに端的に記しておこうと思います。結局、対処することが困難な課題だけが膨らんでしまったような気がします。
*「公教育における道徳教育」の是非をめぐって、由紀草一氏が、突っ込んだ議論を展開しています。ご興味がおありの方は、こちらをごらんください。「道徳という不道徳」(その1)http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/f093ad2e1fc8bc159ee7313d1fc3192b
(その2)http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/98757582624e786a5d4fcaad99784ad4
〔追加〕「道徳という不道徳」(その3)がアップされました。http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/87de07ebf2538f06ec73d474fb629ea5?fm=entry_related コメント欄に、小浜逸郎氏の投稿があり、それに由紀草一氏が返事を書いています。なかなか興味深いやりとりです。
デロリンマンとオロカメン ジョージ秋山『デロリンマン』より
六月一四日(日)に、由紀草一さんの「道徳という不道徳」という教育講演会がありました。私はそれに司会として参加させていただきました。当企画は、「しょ~と・ぴ~すの会」という由紀さん主宰の読書会の特別企画として催されたものです。私が当会に参加したのは、かれこれ15、6年前のこと。当会は二ヶ月に一度催されます。由紀さんは、公立高等学校の英語の教員であると同時に知る人ぞ知るという教育評論家でもあります。また、演劇評論家でもあり文芸評論家でもある、という多才の人です。もちろん著書も何冊かあります。当日は、由紀さんのお話をじっくりと聞いたうえで、参加者(10名)も思うところを述べ、真摯な言葉のやりとりがなされ、文字通りあっという間の四時間でした。
以下は、当会に参加して、私なりに考えたことです。
道徳教育の必要性が叫ばれるのはどういうときか、思い浮かべてみましょう。それは主に、マスコミで少年(たち)による凶悪な殺人事件が報道されるときなのではないでしょうか。世間は、それらの事件から衝撃を受け、秩序感覚を著しく毀損され、狼狽します。そうして、〈このままではいけない。なんとかしなければいけない〉という思いにかられます。そこで、子どもたちに「命の大切さ」を教えることや「心の教育」やらの重要性が強調され、道徳を教科化して生徒たちに教えるべきであるという声が力を得ることになります。
そう考えると、道徳教育の必要性が叫ばれることには、それなりのやむをえざる社会心理的な背景が存することが分かります。それゆえ、そういう声が絶えることは今後も決してないでしょう。
とはいうものの、公教育における道徳教育の現状には、由紀さんが指摘なさったようなさまざまな問題点があります。すなわち、「だれが」・「なにを」・「どのように」教え、生徒を「いかに」評価するかをめぐって、さまざまな問題点があるのです。その一例を挙げましょう。平成二六年十月二一日に中央教育審議会が発表した「道徳に係る教育課程の改善等について(答申)」から引きます。教科化された道徳において、生徒の評価はいかにあるべきかについて、次のように述べられています。
道徳性の評価に当たっては、指導のねらいや内容に照らし、児童生徒の学習状況を把握するために、児童生徒の作文やノート、質問紙、発言や行動の観察、面接など、様々な方法で資料等を収集することになる。その上で、例えば、指導のねらいに即した観点による評価、学習活動における表現や態度などの観察による評価(「パフォーマンス評価」など)、学習の過程や成果などの記録の積み上げによる評価(「ポートフォリオ評価」など)のほか、児童生徒の自己評価などの多種多様な方法の中から適切な方法を用いて評価を行い、課題を明確にして指導の充実を図ることが望まれる。
いかがでしょうか。私の場合、これを目にしたとき、現場の教師の負担や心労に思いを馳せて、暗然とした気分に陥ったものです。ここで要求されていることを生真面目に実行しようとすれば、現場の教師の側のかなりの程度の労働強化を招いてしまうはずです。労働強化は、教師と生徒が信頼関係を築くうえでのマイナス要因にはなっても、プラス要因になることは考えにくいですね。10数年前にさかのぼりますが、中学校の通知表に、観点別評価なるものが導入されて、生徒の学力の評価が複雑化し、教師の仕事量が増えてからの教師と生徒との関係は、どことなくギスギスしたものになったような印象があります。たとえば、授業中の挙手の回数をカウントして生徒の積極性を評価する、などというどことなく馬鹿げた評価法が大真面目に導入されたりしたわけです。これはほんの一例ですが、そういうたぐいの評価法が、教師と生徒の信頼関係にとって決してプラスに働かないことは、容易に想像できますね。生徒の道徳性の評価が具体化され現場に降りてくると、そういう悪い方向性が強化されるのではないでしょうか。
ここでは、これ以上道徳教育の具体的問題点に踏み込みませんが、由紀さんがご指摘なさったさまざまな問題点を直視すると、膨大な時間と人手とお金を使って、無駄なことをやっているという印象が禁じ得なくなってきます。厳しく評するならば、「欺瞞的」と形容してもあながち間違いとも言えないのではないか、とも思えてきます。その意味で、「道徳という不道徳」という演題が適切なものである、という気がしてきます。
さらにもうひとつ指摘しなければならないことがあります。先の川崎中一リンチ殺人事件に関して、稲田朋美自民党政調会長がテレビで「最近、少年犯罪の凶悪化が進んでいる」という意味の発言をしているのを目にしましたが、それは事実に反します。少年による刑法犯・検挙人員は昭和五〇年代半ばからほぼ一貫して減少していますし、また、少年10万人当たりの検挙率も10年前の平成一五年を基準にすると激減していると言っても過言ではない状況です。殺人・強姦・強盗・放火の凶悪犯罪に限っても、同様の傾向が見られます。つまり少年犯罪は、刑法犯やさらには凶悪犯においても明らかに減っているのです。
「だから問題はない」と言いたいわけではありません。事実に反する過剰な危機感は、物事に適正に対処するうえでの障害になっても、助けにはならない、と言いたいだけです。
私は、以上のすべてを踏まえても、道徳教育の必要性が叫ばれる社会心理的不可避性はどうしようもなく残ってしまう、と言いたいのですね。少年による凶悪犯罪によって秩序感覚がおびやかされ、動揺した人心は、統治の観点からも、鎮められなければならないのです。政府は何かをしなければならないのです。そのように動揺した人心の鎮撫は、仮に道徳教育が荒唐無稽なものとして全否定されてしまっても、なお残ってしまう政策課題なのです。そこに、道徳教育議論の真のやっかいさがあるような気がします。
そこで思い出されるのが、最近物議をかもしている、元・酒鬼薔薇の『絶歌』の出版中止要求事件です。酒鬼薔薇の快楽殺人の犠牲になった土師淳君(当時11)の父、守さんが十日、代理人弁護士を通じ、「私たちの思いは無視され、踏みにじられた」とするコメントを公表し、出版の中止と本の回収を求めました。この本を読んだ知人によれば、酒鬼薔薇は、かつて自分が実行した快楽殺人を、もう一度筆で丁寧になぞって快楽を味わい直しているとしか思えないような描写をしているそうです。そういう内容を含む本書の出版の中止を求めるお父さんの気持ちは察するにあまりあります。子どもを凶悪事件で失った親の心の時計は、事件当時で止まってしまうといいます。事件の衝撃によって開いた心の傷口は永遠に塞がることがないのです。本書の出版は、その傷口をあらためて広げる所業なのです。そのことに思いを致すと、言論・出版の自由を葵のご紋のように振りかざして本書の出版を擁護しようとする連中はマトモではないという気がしないでもありません。少なくとも、言論・出版の自由は、すべてに優先する絶対の真理などでは決してありえないのです。私は、この件に関しては、無言でお父さんの側に立ちたいと思っています。
思わず筆が滑ってしまいましたが、ここではそういうことが言いたいのではありません。酒鬼薔薇の所業は、道徳教育でなんとか防げるようなものではないのです。快楽殺人者は、楽しくて気持ち良くてしょうがないから人を殺すのです。そういう病んだ心の持ち主に、いくら言葉を尽くして善悪の区別を説いても効果がないことは火を見るより明らかでしょう。むろん法で罰しても、そういう心性は治りません。ここで私たちは、この世に悪魔が実在することを直視する必要があるような気がします。悪魔に対しては、教育や理を尽くした言葉など無効です。おそらくこれは、伝統社会ならば、エクソシストが登場する領域なのではないかと思われます。言いかえれば、強靭な祈りだけがかろうじて悪なるものと対峙しうる限界状況が現代社会においても存在する。そう言えるのではないかと思われます。
それはもはや政治がどうこうできる領域ではありません。しかし、そういう悪なるものは、それが潜在的に秩序感覚の最大の脅威であるという意味で、個人的なものではなくて、公共空間に深く関わる存在です。公共性に深く関わるもので、政治が決定的に無力な領域が世界には確実にある。それでも人間社会は、悪なるものにどうにか対処して、自分たちの社会の維持を図る必要がある。総体としての人間は、実のところそういうとんでもなくやっかいな課題を潜在的に抱えて生きているのです。道徳教育の話題とずいぶんと遠いところに来てしまったようですが、私が現状で考えられるぎりぎりのところまで考えたことを削除せずに端的に記しておこうと思います。結局、対処することが困難な課題だけが膨らんでしまったような気がします。
*「公教育における道徳教育」の是非をめぐって、由紀草一氏が、突っ込んだ議論を展開しています。ご興味がおありの方は、こちらをごらんください。「道徳という不道徳」(その1)http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/f093ad2e1fc8bc159ee7313d1fc3192b
(その2)http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/98757582624e786a5d4fcaad99784ad4
〔追加〕「道徳という不道徳」(その3)がアップされました。http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/87de07ebf2538f06ec73d474fb629ea5?fm=entry_related コメント欄に、小浜逸郎氏の投稿があり、それに由紀草一氏が返事を書いています。なかなか興味深いやりとりです。
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