美津島明編集「直言の宴」

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 『瞼の母』の片岡千恵蔵はこのうえなく美しい  (イザ!ブログ 2013・9・14 掲載)

2013年12月21日 23時11分24秒 | 映画
『瞼の母』の片岡千恵蔵はこのうえなく美しい



今月の八日(日)、私は池袋新文芸座で長谷川伸原作の映画『瞼の母』を観ました。稲垣浩監督が一九三一年に発表したオリジナルで、もちろん無声映画です。澤登翠(さわと・みどり)さんという活動映画女弁士の語り付きというので、観る気になったのでした。というのは、以前に彼女の語り付きの『麗人』(監督・島津保次郎、主演・栗島すみ子、高峰秀子(当時六歳)出演、一九三〇年)を見て、とても感動したからです。「活動写真って、すごい」と思ったのですね。それからちょっと活弁付きの映画がクセになってしまって、成瀬巳喜男と小津安二郎のその手の作品を何本か観たほどです。活弁付ではなかったのですが、ピアノ伴奏付きの成瀬巳喜男の無声映画『君と別れて』(一九三三年)にとりわけ深く感動しました。いまでもその映画の場面のいくつかがフラッシュ・バックをするほどです。そういう経緯を経て、私の映画観はいささかの変更を余儀なくされてしまったのでした。それをいまここで語ると、話の流れが変わってしまいかねないのでやめておきます。

燕尾服を着た澤登さんが、映画の始まる前にごく短いスピーチをなさっていました。その中で、当映画に対する当時の「この映画では、登場人物のみならず、木の枝も降る雪もなにもかもすべてが演じている」という映画評を挙げていました。

この映画を撮った稲垣浩や主演の片岡千恵蔵は、このときまだ二〇代後半でした。妹の「お登世」役の山田五十鈴に至ってはまだ一〇代前半です。彼らはいずれも監督や俳優としての才能はそのころからずば抜けたものがあったのでしょうが、ともに若さのまっさかりなのでした。だから、画面がとても瑞々(みずみず)しいのです。永遠に瑞々しいのです。そうして、その瑞々しさの中心にいるのが、番場の忠太郎を演じる片岡千恵蔵なのです(江州の番場は、いまの滋賀県にあります)。渡世人から足を洗おうとする仲間の「金町の半次」(浅香新八郎)を励ましながら別れを告げる情深さと淋しさの入り混じった表情、殺陣での凄みのある殺気立った表情、実の母である「水熊のお浜」(常盤操子)との出会いを喜ぶ子供のような表情、彼女に突慳貪にされたときの絶望的な表情、それらすべてがそれこそ瞼に焼きついています。無声映画であるからこそ、場面にふさわしい表情ですべてを表現することが強く求められるという事情があり、それでなおさらそういうことになるのかもしれません。

「水も滴るいい男」という形容句は、このときの千恵蔵のためにあるのではないかと私は思いました。さらには、映画にも神様がいらっしゃるのならば、この映画にこそ神様は宿っているにちがいない、とまで思いました。この映画には永遠の輝きがあるのです。いっしょにこの映画を観た友人は、千恵蔵が画面に登場してからずっと涙がはらはらと止まらなかったそうです。その気持ち、よく分かります。その姿のかけがえのなさが観る者の胸を打つのです。おそらく、私が申し上げていることは、みなさまのお耳に、かなり大袈裟に響いているはずです。それは仕方がないこととあきらめましょう。

私は、この映画を観てはじめて、男優なるものを心から美しいと思いました。シブいとか、魅力があるとか、味があるとか、カッコイイとかは思ったことがありますが、「美しい」と思ったことはこれまでありませんでした。そう感じた自分自身に対して、私は少なからず衝撃を受けました。片岡千恵蔵を美しいと感じる自分を、私はまったく想定していなかったのです。

この映画の命を蘇らせたいちばんの功労者は、活弁士の澤登翠さんです。幸い、彼女自身のプロフィール等を扱った動画と、彼女自身が弁士をしている『番場の忠太郎 瞼の母』のダイジェスト動画が見つかったので掲げておきます。この映画の魅力的な雰囲気をいささかなりとも味わっていただければさいわいです。


心に響く音を届ける匠の技 活動弁士の沢登翠さん


活弁映画『瞼の母』弁士澤登翠


なおこの作品は、一九六二年に加藤泰(たい)監督によってリメイクされており、そのときの忠太郎役は中村錦之助です。また、一九三一年のオリジナル版で、大団円の荒川堤での殺陣の場面で忠太郎に最後に斬られた「素盲の金五郎」役の瀬川路三郎が、リメイク版にも登場し今度は最初の場面で斬られています。なかなか味な演出ですね。



そうそう、リメイク版といえば、『瞼の母』を観る前に、私は一九二九年に辻吉郎監督が作った長谷川伸原作の『沓掛時次郎』のリメイク版を観ました。こちらも加藤泰監督の作品で、タイトルは『沓掛時次郎 遊侠一匹』(一九六六年)。主演は中村錦之助です。なんだか同じような名前が出てきて混乱しそうになりますが、加藤監督の長谷川伸に対する惚れ込みぶりと、役者としての中村錦之助に対する評価の高さがうかがわれます。最初の二〇分間ほどに渥美清が時次郎の子分・身延の朝吉役で登場し、『男はつらいよ』で国民的な大スターになる前の、毒気を交えたユーモアを発散するすごい演技をしているのが観られて、思わぬ拾い物をした気分になれました。朝吉は、非力ながらも任侠道を貫き通そうとして哀れにも命を落とします。また、時次郎が惚れる後家さん(おきぬ)役の池内淳子が熟柿のような濃密なお色気を発散させているのにいたく感心し、彼女の女優としての魅力をはじめて得心した次第です。また、清川虹子がおろく役で出ていて、病弱なおきぬを甲斐甲斐しく面倒見る人情味の厚さと、ヤクザ連中が家に押しかけて来ても鼻息ひとつで蹴散らしてしまう肝っ玉ぶりとを懐深く演じていました。彼女は名女優なのですね。

備忘のために付け足しておきますが、『沓掛時次郎』の設定が、『無法松の一生』のそれにじつによく似ていると思いました。



〔追加〕
中村美律子という歌手が、『瞼の母』を歌っています。ハートをぐいっと掴まれてしまいましたので、掲げておきます。忠太郎の妹のお登世は、木綿問屋の若だんな・長二郎と近く祝言を挙げることになっています。母は、「身内にヤクザ者がいるとなると手塩にかけて育ててきた娘の縁談に傷がつきかねない」と思い、心を鬼にして忠太郎に邪慳にするのです。娘が掻き口説くのにほだされて改心し、母は娘と忠太郎を探すのですが、忠太郎は男の意地を張ってそっと姿を消します。これが原作。映画では、忠太郎が母と抱きあうところで終わります。


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