「空気を読む」ということは人間関係を円滑にするうえで必要なことではある。
しかしあまり読みすぎると、「お前の軸はどこにあるのだ」という厳しい叱責がどこからともなく飛んでくる。またそうでなければおかしい。
最近の若者は「保守化」しているとよく言われる。
裏を返せば、既存の権力(例えば自民党など)を何の疑いもなく信用もしくは信頼しているということなのか?
ファシズム分析の古典として名高いエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」によれば、
自由と理性が拡大する時代であるはずの近代において、権威主義への傾倒が生ずる理由は、近代的自由の裏面には、「寄るべの無さ」「孤独」があるからだという。
確かにこの20年近く、日本の国力はピークを過ぎ衰退に向かっているのではないかという兆候が多すぎる。
政治家は「成長」、「成長」と叫べども国債という借金のみが膨れ上がり、その借金は次世代に引き継がれる。
そのあたりの「空気を読んで」納得しているのか。
こんな状況を、「変えようという気力」もなく、権威ある勢力に従えば何とかなると考えていたら甘いのではなかろうか?
おかしなことをしでかして言い逃れに終始する人間を放置して、その人間を批判する人たちを逆に「批判ばかり」と嫌悪を感じるあたり、
この国の道徳的気力の減退を感じ取るのだ。
おかしいことはおかしい、と当たり前に言える社会でなければならない。
その姿勢は、近代的自由を自ら進んで投げ捨てて権威に服従しているのだ。
そのことによって「偽りの安心」を求めているのだろう。