足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたよらに子ろが言はなくに
〔万葉仮名〕 阿之我利能 刀比能可布知尓 伊豆流湯能 余尓母多欲良尓 故呂河伊波奈久尓
ご存じの通り、湯河原の温泉は万葉集の歌に詠まれているのであります。
そして、「出湯(いでゆ)」を詠んだ歌としては、万葉集“唯一の歌”なのであります。
そのことを誇りに、万葉公園が整備されており、歌碑も存在しています。
観光案内などで、よく有りますヤン、「~~と言われております」てな言い回し。
わたしゃねぇ、あの言い回しを耳に、目にすると、無性に腹が立つんですワ。
あんたは言ってないんですか?ただの噂なんですね?真相を明かす気なんてないんですね?それでもそれを吹聴しているんですね、その自覚は多少有っても「え~~い、言ったもん勝ち!」て感覚なんですね?と。
我が、終の棲家と思い定めつつある湯河原は、そんな温泉場じゃありません。
言い切っております、“唯一”と。
小梅堂店主といい、この件といい、湯河原のお人は言い切るのがお好き、
と言うわけではなくて、佐々木信綱博士の研究の成果として、定着している事実なのであります。
「足柄の土肥」は湯河原の古名であって、西伊豆の土肥を指すものではない、と。
『出づる』の万葉仮名が「伊豆流」なのは、ご愛敬……。
さて、歌意についてですが、解明できないほどではないにせよ、多少難解なようで、
ちょっと調べてだけでも、2種-4通りくらいに類別できるようです。
a)わき出る温泉が揺れる。そのように心が揺れているとは、あの娘は決して言わないことだ
b)足柄の土肥の河辺に噴出する温泉の湯煙、それが中空に漂い揺らぐようにあの娘は私との関係を不安げには言わなかったが、私は心配だ・・・
c)足柄の土肥の谷間に湧き出る湯のように少しも不安なことなどあの娘は言わないのに
c)’二人は、足柄(あしがら)の土肥(とい)に湧く温泉のように、絶えるなんてことはない、とあの娘は 言うのだけれども
a )b)は「揺れる想い」の比喩として、「温泉」が登場するのに対して、
c)では「絶えることのない想い」の比喩として、「温泉」は登場しています。
またa)は「温泉の湯」が揺れる、b)は「湯煙」が揺れる、と解釈されています。
いずれにしても「だいじょうぶよ!」と言われているのに安心できない男心、
普通そういう心配は東尾理子の方が抱くんじゃないの?とは思いますが、
そこは3通りの解釈とも一致しているんですね。
ところがここに、もうひとつ別系統の解釈を見つけてしまいました。
「萩谷朴博士の解釈か?」と一瞬疑ってしまったほど、異色です。(分かってもらいたい、この感想!)
足柄の土肥の河内(湯河原を指す)で
お湯に入って、湯煙を見ていると
遠くにいる 彼女のことが思いだされて、切なくなる
温泉は比喩ではなく実景となり、
「女の言葉への不安」は「会えないことによる素直な恋しさ」へと純化しているんですな。
ちょ~~っと、キモ!
湯河原の人々は「万葉集に読まれている出湯は湯河原だけ」と主張するのであって、
「万葉集に読まれている温泉地は湯河原だけ」とは主張なされない、と言われております。
なぜかといえば、たとえば伊香保などは地名としてなら、湯河原の1首をはるかに凌駕する9首に詠まれているのであります(しかも湯河原は土肥と詠まれているし)。
“東歌総数は230首。国が銘記された歌は95首で、そのなかで最も多いのが上野国の26首、以下、相模16首、常陸12首、武蔵10首である。上野国が際立っている。その中で9首は伊香保の地名を含む歌である。”
という記述がどこかにありました。どこだったっけ?まあいいや。
① 伊香保ろの 八尺の堰塞に 立つ虹の 顕ろまでも さ寝をさ寝てば
② 上毛野 伊香保の嶺ろに 降ろ雪の 行き過ぎかてぬ 妹が家のあたり
③ 上毛野 伊香保の沼に 植ゑ子水葱 かく恋むとや 種求めけん
④ 伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありといへど 吾が恋のみし 時無かりけり
⑤ 伊香保嶺に 雷な鳴りそね わが上には 故は無けれど 児らによりてそ
⑥ 伊香保世欲 奈可中次下 思ひとろ 隈こそしつと 忘れ為なふも
⑦ 伊香保ろに 天雲い継ぎ かぬまづく 人とおたはふ いざ寝しめとら
⑧ 伊香保嶺の 阻の榛原 わが衣に 着き寄らしもよ 一重と思えば
⑨ 伊香保ろの 阻の榛原 ねもころに 将来を な兼ねそ 現在し善かば
「伊香保風吹く日吹かぬ日ありといへど……」なんざ~乙ですな。私の奥菜恵さんへの思いを言い当てられたようで。
「これはキモくはないんですか?」
キモくないと言われております。
〔万葉仮名〕 阿之我利能 刀比能可布知尓 伊豆流湯能 余尓母多欲良尓 故呂河伊波奈久尓
ご存じの通り、湯河原の温泉は万葉集の歌に詠まれているのであります。
そして、「出湯(いでゆ)」を詠んだ歌としては、万葉集“唯一の歌”なのであります。
そのことを誇りに、万葉公園が整備されており、歌碑も存在しています。
観光案内などで、よく有りますヤン、「~~と言われております」てな言い回し。
わたしゃねぇ、あの言い回しを耳に、目にすると、無性に腹が立つんですワ。
あんたは言ってないんですか?ただの噂なんですね?真相を明かす気なんてないんですね?それでもそれを吹聴しているんですね、その自覚は多少有っても「え~~い、言ったもん勝ち!」て感覚なんですね?と。
我が、終の棲家と思い定めつつある湯河原は、そんな温泉場じゃありません。
言い切っております、“唯一”と。
小梅堂店主といい、この件といい、湯河原のお人は言い切るのがお好き、
と言うわけではなくて、佐々木信綱博士の研究の成果として、定着している事実なのであります。
「足柄の土肥」は湯河原の古名であって、西伊豆の土肥を指すものではない、と。
『出づる』の万葉仮名が「伊豆流」なのは、ご愛敬……。
さて、歌意についてですが、解明できないほどではないにせよ、多少難解なようで、
ちょっと調べてだけでも、2種-4通りくらいに類別できるようです。
a)わき出る温泉が揺れる。そのように心が揺れているとは、あの娘は決して言わないことだ
b)足柄の土肥の河辺に噴出する温泉の湯煙、それが中空に漂い揺らぐようにあの娘は私との関係を不安げには言わなかったが、私は心配だ・・・
c)足柄の土肥の谷間に湧き出る湯のように少しも不安なことなどあの娘は言わないのに
c)’二人は、足柄(あしがら)の土肥(とい)に湧く温泉のように、絶えるなんてことはない、とあの娘は 言うのだけれども
a )b)は「揺れる想い」の比喩として、「温泉」が登場するのに対して、
c)では「絶えることのない想い」の比喩として、「温泉」は登場しています。
またa)は「温泉の湯」が揺れる、b)は「湯煙」が揺れる、と解釈されています。
いずれにしても「だいじょうぶよ!」と言われているのに安心できない男心、
普通そういう心配は東尾理子の方が抱くんじゃないの?とは思いますが、
そこは3通りの解釈とも一致しているんですね。
ところがここに、もうひとつ別系統の解釈を見つけてしまいました。
「萩谷朴博士の解釈か?」と一瞬疑ってしまったほど、異色です。(分かってもらいたい、この感想!)
足柄の土肥の河内(湯河原を指す)で
お湯に入って、湯煙を見ていると
遠くにいる 彼女のことが思いだされて、切なくなる
温泉は比喩ではなく実景となり、
「女の言葉への不安」は「会えないことによる素直な恋しさ」へと純化しているんですな。
ちょ~~っと、キモ!
湯河原の人々は「万葉集に読まれている出湯は湯河原だけ」と主張するのであって、
「万葉集に読まれている温泉地は湯河原だけ」とは主張なされない、と言われております。
なぜかといえば、たとえば伊香保などは地名としてなら、湯河原の1首をはるかに凌駕する9首に詠まれているのであります(しかも湯河原は土肥と詠まれているし)。
“東歌総数は230首。国が銘記された歌は95首で、そのなかで最も多いのが上野国の26首、以下、相模16首、常陸12首、武蔵10首である。上野国が際立っている。その中で9首は伊香保の地名を含む歌である。”
という記述がどこかにありました。どこだったっけ?まあいいや。
① 伊香保ろの 八尺の堰塞に 立つ虹の 顕ろまでも さ寝をさ寝てば
② 上毛野 伊香保の嶺ろに 降ろ雪の 行き過ぎかてぬ 妹が家のあたり
③ 上毛野 伊香保の沼に 植ゑ子水葱 かく恋むとや 種求めけん
④ 伊香保風 吹く日吹かぬ日 ありといへど 吾が恋のみし 時無かりけり
⑤ 伊香保嶺に 雷な鳴りそね わが上には 故は無けれど 児らによりてそ
⑥ 伊香保世欲 奈可中次下 思ひとろ 隈こそしつと 忘れ為なふも
⑦ 伊香保ろに 天雲い継ぎ かぬまづく 人とおたはふ いざ寝しめとら
⑧ 伊香保嶺の 阻の榛原 わが衣に 着き寄らしもよ 一重と思えば
⑨ 伊香保ろの 阻の榛原 ねもころに 将来を な兼ねそ 現在し善かば
「伊香保風吹く日吹かぬ日ありといへど……」なんざ~乙ですな。私の奥菜恵さんへの思いを言い当てられたようで。
「これはキモくはないんですか?」
キモくないと言われております。