今日の画像は、(ビリーパック)河島光広先生と(金魚屋古書店出納帳)芳崎せいむ先生。
僕がまだ、小学生の頃の話だ。
藤子不二雄@先生の(まんが道)の巻末広告に紹介されていた探偵漫画の(ビリーパック)。
黒っぽい背表紙で表紙も斬新。
近くの本屋では、大人向けの棚に置いてあった。
買って読んで見ると非常に面白い。
随分昔の作品らしいが、古さをあまり感じなかったし当時探偵物は珍しかった。いっぺんで虜になってしまった僕は、次の日、おこづかいをはたいて残り3冊をいっきに買う。
当時のおこづかいが月500円の時に一冊380円もしたから、おやつの駄菓子は我慢しなければならない。
それからの僕は、(ビリーパック)の作品世界に夢中になってしまい、思わず出版元である少年画報社に連絡を入れて、担当編集者を訪ねていったほどだった。
その時に対応してくれたのが桑村誠二郎氏。
(週刊少年キング)で(サイボーグ009)を担当し、(ヤングコミック)編集長として青年誌で日本一の売り上げを記録した伝説の編集者である。
当時は、(週刊少年キング)の編集長を更迭され、吉田竜夫先生の(忍者部隊月光)を増刊号にまとめるなど、かつての名作を復刊する仕事を担当していた。
僕は、(ビリーパック)のオリジナル単行本を見せてもらい、そのコピーを部下である戸田利吉郎さんにとって貰う。
そう、後に(少年画報大全)の担当役員であり、現在少年画報社の社長となったあの戸田さんにだ。
22年後、再び訪れた少年画報社で戸田さんと再会し、本来米澤嘉博氏に依頼され、そのまま手付かずだった企画に新人の僕が代役として大抜擢されることになる訳だから宿命的なものを感じざるをえない。
桑村さんとは、(少年画報大全)発売後に再会を果たす。
当時編集プロダクションとして(ヤングキング)の編集や、望月三起也先生の版権管理の窓口をしていたサードハウスで私は、編集の実務や版権管理について半年間学んでいく。
ただ、当時少年画報社の編集局長だった筧悟さんからは、
桑村さんと本間くんとでは、お互い我が強すぎて絶対長くは続かない
と予言されていた。
その予言は的中する。
どうやら、私は、漫画家さんの裏方に徹する編集者というよりも、漫画コレクターであり、出版プロデューサーであり、漫画史研究者である今のライフスタイルの方が向いているようだ。
神奈川県立歴史博物館で行われたFIFA ワールドカップでのサッカー漫画の展示監修を請け負う際、桑村さんと意見が対立し再びフリーとなる。
この展示は、(金魚屋古書店)で知られる漫画家の芳崎せいむ先生と一緒に見にいった思い出がある。
(少年画報大全)が発売された後の少年画報社のパーティーの席上で、戸田さんから
お前さんに逢いたがっている漫画家さんがいる
と紹介されたのだ。
芳崎先生と二人で神奈川県立歴史博物館を見学した際、私の行きつけの古本屋を案内したり、背取りの話やTVチャンピオン少年マンガ王選手権出場の裏話などと共に、(ビリーパック)の話に興味を持たれたようだ。
私が、添乗員をしていた学生時代にトレンチコートを買ったのは、(ビリーパック)に憧れてである。
その頃は、冬だけでなく一年中着ようとしたのだが、季節が変わり夏が近付いて汗をかきながら着ていたら旅行会社の皆に笑われた話をした。
その時、2002年のアジアマンガサミットのTシャツを上着のシャツの下に着ていたのだが、
そんなTシャツ一枚で歩いていたら、(まんがばか)と書いて歩いているようなものだから流石に普段は着ては歩けない
などと話しをしたものだ。
当時、金魚屋の斯波さんは、京極夏彦さんをモデルにしていると芳崎さんから聞いた。
芳崎さんは、ボーイズラブ系の作品も描いていたため、漫画オタクですら格好よく描いていた。
斯波さんをもっとコミカルな感じにした方が良いのではないか
など個人的な感想を話した。
そして、芳崎さんに(ビリーパック)の復刻版4冊を貸すことになる。
(金魚屋古書店出納帳)が少年画報社から二冊の単行本にまとまった時、サイン入りで本を送ってきてくれた。
第10話のマンガキングスペシャルコンテストの話の中で突如壁に
この奥右つきあたり(ビリーパック)問題。お手上げだ誰か頼む
やった解いたぜ!河島光広は永遠だ!!
賛成!! その通りです。
の落書きが作品の中に登場するのは、その日の私の(ビリーパック)に対する発言のせいなのかもしれないな。
僕がまだ、小学生の頃の話だ。
藤子不二雄@先生の(まんが道)の巻末広告に紹介されていた探偵漫画の(ビリーパック)。
黒っぽい背表紙で表紙も斬新。
近くの本屋では、大人向けの棚に置いてあった。
買って読んで見ると非常に面白い。
随分昔の作品らしいが、古さをあまり感じなかったし当時探偵物は珍しかった。いっぺんで虜になってしまった僕は、次の日、おこづかいをはたいて残り3冊をいっきに買う。
当時のおこづかいが月500円の時に一冊380円もしたから、おやつの駄菓子は我慢しなければならない。
それからの僕は、(ビリーパック)の作品世界に夢中になってしまい、思わず出版元である少年画報社に連絡を入れて、担当編集者を訪ねていったほどだった。
その時に対応してくれたのが桑村誠二郎氏。
(週刊少年キング)で(サイボーグ009)を担当し、(ヤングコミック)編集長として青年誌で日本一の売り上げを記録した伝説の編集者である。
当時は、(週刊少年キング)の編集長を更迭され、吉田竜夫先生の(忍者部隊月光)を増刊号にまとめるなど、かつての名作を復刊する仕事を担当していた。
僕は、(ビリーパック)のオリジナル単行本を見せてもらい、そのコピーを部下である戸田利吉郎さんにとって貰う。
そう、後に(少年画報大全)の担当役員であり、現在少年画報社の社長となったあの戸田さんにだ。
22年後、再び訪れた少年画報社で戸田さんと再会し、本来米澤嘉博氏に依頼され、そのまま手付かずだった企画に新人の僕が代役として大抜擢されることになる訳だから宿命的なものを感じざるをえない。
桑村さんとは、(少年画報大全)発売後に再会を果たす。
当時編集プロダクションとして(ヤングキング)の編集や、望月三起也先生の版権管理の窓口をしていたサードハウスで私は、編集の実務や版権管理について半年間学んでいく。
ただ、当時少年画報社の編集局長だった筧悟さんからは、
桑村さんと本間くんとでは、お互い我が強すぎて絶対長くは続かない
と予言されていた。
その予言は的中する。
どうやら、私は、漫画家さんの裏方に徹する編集者というよりも、漫画コレクターであり、出版プロデューサーであり、漫画史研究者である今のライフスタイルの方が向いているようだ。
神奈川県立歴史博物館で行われたFIFA ワールドカップでのサッカー漫画の展示監修を請け負う際、桑村さんと意見が対立し再びフリーとなる。
この展示は、(金魚屋古書店)で知られる漫画家の芳崎せいむ先生と一緒に見にいった思い出がある。
(少年画報大全)が発売された後の少年画報社のパーティーの席上で、戸田さんから
お前さんに逢いたがっている漫画家さんがいる
と紹介されたのだ。
芳崎先生と二人で神奈川県立歴史博物館を見学した際、私の行きつけの古本屋を案内したり、背取りの話やTVチャンピオン少年マンガ王選手権出場の裏話などと共に、(ビリーパック)の話に興味を持たれたようだ。
私が、添乗員をしていた学生時代にトレンチコートを買ったのは、(ビリーパック)に憧れてである。
その頃は、冬だけでなく一年中着ようとしたのだが、季節が変わり夏が近付いて汗をかきながら着ていたら旅行会社の皆に笑われた話をした。
その時、2002年のアジアマンガサミットのTシャツを上着のシャツの下に着ていたのだが、
そんなTシャツ一枚で歩いていたら、(まんがばか)と書いて歩いているようなものだから流石に普段は着ては歩けない
などと話しをしたものだ。
当時、金魚屋の斯波さんは、京極夏彦さんをモデルにしていると芳崎さんから聞いた。
芳崎さんは、ボーイズラブ系の作品も描いていたため、漫画オタクですら格好よく描いていた。
斯波さんをもっとコミカルな感じにした方が良いのではないか
など個人的な感想を話した。
そして、芳崎さんに(ビリーパック)の復刻版4冊を貸すことになる。
(金魚屋古書店出納帳)が少年画報社から二冊の単行本にまとまった時、サイン入りで本を送ってきてくれた。
第10話のマンガキングスペシャルコンテストの話の中で突如壁に
この奥右つきあたり(ビリーパック)問題。お手上げだ誰か頼む
やった解いたぜ!河島光広は永遠だ!!
賛成!! その通りです。
の落書きが作品の中に登場するのは、その日の私の(ビリーパック)に対する発言のせいなのかもしれないな。