稀有な偉人
賀川豊彦牧師 & essay(記録)
「賀川豊彦」と言う人を知っていますか。
ボクが10人に聞けば10人共に知らない、聞いたこともないという。
明治42年クリスマスの日、21歳の賀川豊彦は在学する神学校の近くにあった神戸・新川の最貧民窟に居を移した。
前年殺人があり借り手のいない3畳で板の間だけの部屋に引っ越し、苦難の中で延べ15年間、路傍伝道と貧民救済活動に奔走する。
途中、宣教師の薦めでアメリカのプリンストン大学神学部へ留学する。そこで学んだのは貧民救済の為、それを防ぐ根本的な防貧活動が必要だと知り、後に初の労働組合、農業協同組合、漁業組合、医療組合、生活協同組合を創設、また健康保険、失業保険などの組織化を図り先頭に立った。
また被災者340万人と言う未曽有の関東大震災では、いち早く救済活動を展開した事を知る。日本で初のボランティア活動を組織したのもこの時の事。
その他、著作「死線を越えて」他は、国内外累計400万部以上という当時最大のベストセラー作家ともなった。著作の多くは翻訳されて世界へ流布され、海外でその活動は大きく評価された。
また延べ死者310万人と言う悲惨な太平洋戦争では、日本が無条件降伏をした直後に、焦土と化した日本の地に降り立った連合軍総司令官の姿、天皇陛下と並ぶ写真を知る。
そのマッカーサー元帥が後の回顧録に残している文面がある。それは賀川豊彦がマ元帥に招かれた時に「このままでは一千万人の国民が餓死する。至急食料品と医療品を送って欲しい」と訴えた時の事。
マ元帥は「自分と日本政府との間には交渉というものはない。天皇陛下も日本政府も私の命令にただ従えばそれでよいからだ。しかし自分の自由にならない日本人が一人いる。それはドクター・カガワである。今世界は日本の賀川豊彦牧師を聖者として尊敬しており、私が彼に指一本加えれば、私の占領政策は世界の非難の的になりかねないからだ」と記している。
その後アメリカの輸送船団が日本へ食料品・医薬品を次々と送ってきた。小麦粉はパンになり、粉ミルクは学校給食にも出たが、当時小学生で不味かった記憶がある。しかし、その支援のお陰で国民は最低限救われたのである。
彼はまた世界連邦建設に尽力し、吉田茂はじめ政財界人、アインシュタイン博士やラッセル卿らとの交流、ルーズベルト大統領はじめ世界の指導者とグローバルに交わるなど、誠に稀有な日本人であった。
後に賀川豊彦は海外でインドのガンジー、アフリカのシュバイツァーと共に世界の三大聖人と称され、ノーベル文学賞2回、平和賞4回も推薦され、最終選考の途中、72歳で昇天した。その功績を称え、アメリカのワシントン大聖堂には賀川豊彦の銅像が建っている。
ボクは高校時代に尊敬する人物の発表会で「賀川豊彦」を取り上げたが、それ以来忘れていた。だが街道歩き旅や列車旅をしている時に、偶然賀川豊彦の足跡を随所で知り、再び興味がわき、「80歳の生きがい探訪記」として取り上げた。 現在その資料収集と共にその足跡を辿り訪ねつつある。
肇&kirihara 自由essay&詩人クラブ No.128
PS 付記
このブログをUPした直後、賀川豊彦関連の書を検索していると、「金子みちひと」と言う名とその履歴があった。見てみると賀川豊彦が提唱していた「神の国運動」を活動している現職の国会議員の方と知った。面白い方がいるなと更に検索すれば、兵庫県川西市の小さな町の教会の牧師で社会事業をしている方とか。更に東大法学部卒の元外務省のエリート職員とか。何でまた? その職を投げうって牧師に、国会議員(日本維新の会・全国比例区とか)で、しかも賀川豊彦の精神を受け継いで活動されているとか? 一度お会いしてみたい方だととても興味を持った次第。


春ももうすぐですね