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今日までmyブログ「箕面の森の小さなできごと」からの再掲で森に浸る。
伊能忠敬と箕面
<4000万歩の男 箕面の瀧を見る!>
先日は 箕面・外院の森-旧参道-茶園谷-自然4号路-ビジターセンターから2号路-滝道-へと歩いてきました。 しかし、森の中を何キロ、何歩歩いたのか? 分からなくなってしまいました・・ と 言うのも、長年身につけて共に歩いてきた万歩計が、とうとう壊れてしまったようです。(これは昔、上の娘が父の日にとキャップやスティックと共にプレゼントしてくれて、大事に使っていただけに残念です)
そこで私の一歩は一体何センチなのか? 測って見る事にしました。 左足の先端から、一歩踏み出した右足の先端まで・・ しかし、何回測ってもまちまちで定まりません・・どうも意識しすぎると、自然にはいかないようです。
ところが、それを遠くから見かねたハイカーの人が教えてくれました・・ 「自分の身長から100cmを引いた数字が、その人の約一歩の歩幅だよ 」 とのこと。 自慢ではありませんが、足よりも胴の方が長い私は、一歩が66cmと分かりました。
そんな事を教えてもらいながら自分の歩幅に納得し、また森の光景を思いだしながら、帰路に着きました・・ しかし、少々まだ早い時間なので涼みがてら、いつもの古本屋に立ち寄ることにしました。
何しろ少ない小遣いなものですから、もっぱら1ドル本に凝っているのです。 でも、掘り出し物が続いていて、最近はやみつきになっています。
「4000万歩の男」 井上ひさし著 (講談社文庫)が、目にとまりました。 手にとって見ると、江戸時代に日本中を歩いて、初の全国地図を作り上げた人 伊能忠敬(いのうただたか) のこととか・・ しかも、55歳から勉強して、その後17年にわたり蝦夷地(北海道)から九州まで全国をくまなく歩き、今のような測量機器がない時代に、歩測などを用いて・・ と 言うところに釘付けになりました・・ 歩測?
私の一歩は66cmと分かりましたが、その本を見ると伊能忠敬の一歩は69cmだったとか 私より少し足が長いようです。
その江戸時代の老人が、4000万歩(27600km)も歩いて測量したとは・・ もうビックリしてしまいました。
しかも後ろの解説には、その初の日本測量地図は現在の地図と比べても実に正確だったというから、伊能忠敬の天文・測量技術、そしてその健脚振りには唖然とするばかりのショックを覚えました。
そして、その本棚の横には 「伊能忠敬のいた日本」 渡辺一郎著(ちくま新書) もありましたので早速それらをゲット! 今週はこの計数ドルの本に夢中でした・・
ところがページが進むにつれて、またビックリする記述が目に入りました。 まさかその伊能忠敬が、江戸時代に、この ”箕面を測量し、滝を見物していた・・” とは、知りませんでした!?
200年以上昔の江戸時代に、日本中を歩いて地図を作った男が、この箕面を歩いた歩数も4000万歩の中に含まれているのかと思うと、俄然親しみを覚えてくるのでした。
全く箕面とは何の関わりもない本だと思って読んでいたのに ”箕面の滝を一覧・・” なんて、伊能忠敬の日記に書いてあるのを発見すると、もうワクワクしてしまいました。
それは文化6年(1809年)8月27日 江戸を出発した伊能忠敬の第7次測量で、九州へ向かう途中、江戸から中山道を通り、京都から山陽道測量時のこと・・ その伊能忠敬日記の一部を、転記してみます。
「・・・11月7日、郡山本陣宿 泊まり (*現在の大阪府茨木市宿川 )」「前日6日は摂津の広瀬村 (*現在の大阪府三島郡島本町)境まで測ったのち、男山八幡に参詣、ついて明智光秀の古戦場、天王山へのぼって山々の方位を測り、山上の観音寺に参詣したのち山崎宿に戻る。 京都代官、小堀中務の手代、大山崎の神主達が挨拶に出た・・」
「8日、七つ半、夜明け1時間前に測量開始地点に向けて出発。 夜明けの六つ時に郡山(* 茨木の宿川)から測量を始めた。 豊島郡芝村を通る (* 現在の箕面市萱野交差点・・ 国道171号線と新御堂筋の交差点周辺・・ イオン箕面の南あたり ) 芝村は忠臣蔵の義士・萱野三平の出生地で碑もある。 子孫は繁栄して50石の高を持ち、大坂にも屋敷があるとのこと。 先手が残した杭に側線を接続して、この日の測量を終わる。 その後、箕面山の滝を一覧して岩本坊に寄る。(* 岩本坊とは私には不明?)8日は 瀬川宿泊まり(*旧西国街道の瀬川宿は、現在の「みのお自動車学校」の西側あたりとか・・) 郡山より瀬川まで2里5町39間4尺 」
「9日は昆陽宿 (* 現在の伊丹市昆陽)でお昼を食べる。 昆陽寺をへて 西宮宿泊まり。 瀬川宿より西宮宿まで2里5町32間、大坂・町奉行の支配下・・」
ここより伊能忠敬は西国街道・山陽道を測量して、鹿児島城下に到着したのは翌年の7月24日だった 旨。 伊能忠敬が箕面を測量し、箕面の滝を一覧した時はなんと64歳の時だったのですから、当時の年齢では隠居老人もいいところです。
200年前、江戸時代の箕面の滝はどんな風だったのだろうか? それにしても当時の道路事情の中、同世代とは思えない伊能忠敬の情熱と健脚振りには誠に恐れ入りました。
(* この7月に京都東寺の羅城門から江戸・西国街道歩き旅を始めたのも、この文に刺激を受けたからだが、真夏の間の歩き旅は一旦西宮宿で止め、また涼しくなったら九州・大宰府まで歩く予定。 果たして伊能忠敬の万分の一でも歩けるのかな?)
自分の足と比較するのもなんなんですが、”馬の脚 と ドンカメの足” の違いに、ただただ平伏するのみです・・ トホホ!