今回は環境の話からそれますが、
僕の任地ミクロネシア連邦チューク州は、第二次世界大戦の舞台になりました。
当時、チューク州はトラックという名前で呼ばれ、トラック諸島には日本軍の南洋庁の支庁の一つ、トラック支庁が置かれていました。
たくさんの日本人、兵士、学校、病院、軍事施設、艦船、飛行場、軍用機 などなど がありました。
1944年2月17日から18日にかけて、アメリカ軍による空襲があり、
トラック島の全施設が壊滅し、基地機能は完全になくなり、日本人の戦死・戦傷者は約1万5000人にのぼりました。
この攻撃後、トラック島はアメリカ軍の戦略目標から外れ、日本本土と隔絶された状況下で終戦を迎えました。
終戦までの間、トラック島の人々は備蓄物資の倹約と自給自足に努めましたが、多くの兵士分の食糧を調達するのは物理的に難しく、多くの兵士が栄養失調に陥りました。
戦後、チューク州の本島であるウェノ島に慰霊碑が建立されました。
戦後65年目の今年の終戦記念日(8月15日)に、チューク在住のJICA関係者と共に慰霊碑を訪れ、日本時間の正午12時に合わせて、みんなで黙祷をしました。
慰霊碑①
慰霊碑②
日本軍の通信指令本部 (新しく塗装され、現在は高校としてそのまま使われている)
大砲①
大砲②
防空壕①
防空壕②
防空壕からの眺め
銃弾跡
病院跡①
病院跡②
貯蔵庫
桟橋
沈められた艦船「Fujikawa Maru」(映画タイタニックに使われました)のマスト① (シュノーケルしながら撮影)
「Fujikawa Maru」(沈められる前)
沈められたゼロ戦 (シュノーケルで撮影)
まだまだあります。
興味がある人は是非チュークへ。
宮城 匡志