京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

祇園祭2024(前祭)

2024-10-17 20:48:26 | まち歩き

ブログ更新をすっかり忘れていた。

2024年の祇園祭(宵山・前祭)の覚え書き。今年の宵山は長刀鉾を見学。

ちまきを購入後、2階に保管されている引退した見返りや剣、衣裳などを見せていただくことができた。

二階からは渡廊下を通って、鉾内部を見ることができる。

すっかり忘れていたのだが、長刀鉾は女人禁制で、渡廊下に足を踏み入れようとする女性が次々と法被を着た保存会の若者に足を止められていた。今どき、とも思うが。

大丸入口には青い大きな暖簾が掲げられ、祭の気分を盛り上げてくれる。ショーウインドウには瀧尾神社の龍頭が飾られ、店内にはミニチュアの長刀鉾と超ミニチュアの山鉾模型。

 

 

前祭で、雨除けのビニールが外された長刀鉾。

四条烏丸交差点に移動した長刀鉾。

囃子方、禿と順に梯子を上り、お稚児さんが剛力の肩に抱えられて上っていく。あの高所で観衆に振り返るのには、見ている方がはらはらする。

巡幸の終盤、御池通新町の交差点で辻回し。ここにも大勢の見物客がいて、外国人観光客は、家族で関電のマークの付いたボックスの上に立ち、写真を撮っていた。壊れるかも。何かしらの注意書きが必要か?

 

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梛神社 2024夏越の祓

2024-07-03 17:17:12 | まち歩き

6月30日、半年の厄を落とそうと出かけてみた。夏越の祓はあちこちで行われているが、今回は梛神社へ。四条通に面した鳥居である。

梛神社には同じ境内に隼神社も存在する。ここでは元祇園と言われる梛神社について記したい。

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貞観十一年(八六九)三月朔日、京都に疫病が流行し、その悪疫を薙払い疫を鎮めるために、牛頭天皇(御名 素盞嗚尊)を播磨国広峰より勧請して四条の坊城へ神輿を入れ奉られました。此の地に数万本の梛の木があり、源 某と言う者が此の地に居住し、神霊を朱雀大路に近い梛の林中に祭祀しました。
後に八坂の郷に御遷座のとき、当地の住人は花を飾った風流傘を立て、棒を振り、楽を奏して神輿をお送りしました。これが祇園会の起源ともいわれ、古来より祇園会に傘鉾の役人は壬生村より出る定めになっていると伝えられています。

         梛神社HP(https://motogion-nagijinja.or.jp/about/nagi/)

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また「播磨国飾摩より牛頭天王を勧請し……(中略)……のちに今の祇園社(八坂神社)に遷座されたことから、『元祇園社』と呼ばれるようになったと言われています」ともある。梛神社は四条通と坊城通の南西角に位置し、この四条通を東に進むと、祇園社(八坂神社)に行き当たる。その距離およそ3.1㎞。神輿に神霊を遷して練り歩くのに、不都合な距離ではない。また、平安時代、四条大路と坊城小路(大極殿正門の朱雀門から始まる朱雀大路[現・千本通]の一つ東の筋)の一帯といえば、ごく近くに朱雀院もあるが、結構な街中であったのだろうか。それとも、すぐ南に壬生寺があり、周りの坊条区画は施設が確定していない(「平安京の主な施設と邸宅」京都アスニー説明文)し、梛の林が本当に存在したのだろうか。

梛の木は、実家に植えていたが、それほど一般的ではないように思う。葉脈が縦にだけ走る肉厚の艶のある葉。榊と同様、美しい常緑の葉は神社にふさわしいようだ。

ご神木の梛の木は、二つの御本殿の間に植わっている。下の写真の茅の輪の、右端の紙垂奥に見えるのがそれである。

上は、東の鳥居から見たところ。茅の輪をくぐるための行列である。境内にも人が多く、あまり撮影はできなかった。

茅保全のための協賛金として、2本100円を支払い、机に置かれた茅の山から自分で茅を選んで持ち帰ることができる。ときどき神職さんが補充しておられた。

帰宅後、水に浸して柔らかくし、小さい茅の輪を作って玄関にかけている。

 

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詩仙堂のサツキ(5月22日)

2024-06-20 15:19:14 | まち歩き

投稿するのをすっかり忘れていたが、備忘録代わりに。

2024年5月22日のサツキは、見頃を少し過ぎていた。

 

次の写真は、南の庭に下りて振り返ったところ。階段左手のサツキが以前よりもさらに減ってほかの植物に取って代わられていた。

 

下の写真は、2013年6月2日のもの。

次は2005年5月31日。

自然の樹木なので、形の変化は仕方ないが。見頃は、確実に早くなっている。

 

庭をさらに下りた西南の隅に、見覚えのない小さいお地蔵様が数体。

小さな変化を見つけることも楽しい。

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大徳寺興臨院 春の特別公開

2024-05-12 15:47:25 | まち歩き

大徳寺興臨院の2024年春季特別公開は、3/9(土)~6/16(日)の期間に開催されている。総門からまっすぐ進んだところに興臨院の門がある。

特別公開のリーフレットで、方丈庭園のサツキの写真が掲載されていたので、ちょうどいい時期になるのを待っていた。「花だより」に掲載されている寺社の中で大徳寺から最も近い仁和寺(大徳寺より1㎞ほど南)で、5月第1週にサツキが咲き始めとあったので、そろそろかと思い、先週末に行ってみた。

室内の撮影は禁止だが、建物から外を撮影することはできる。

写真ではわかりづらいが、わずかながら3輪ほどは咲いていた。

花だより|【京都市公式】京都観光Navi (kyoto.travel)

今確認すると、5/10付更新で、仁和寺のサツキは見ごろ終了となっている。

花頭窓から庭を見る。

花頭窓を背に、門と波型連子。

右手に赤く見える木は、濃紫(のむら)紅葉という名だと聞いた。

「ノムラモミジの葉の特徴は、新芽の時点で濃い赤色をしていることと、葉が大きく切れ込みが深いこと。」(春にも赤い葉が楽しめるノムラモミジ|育て方西や剪定方法・普段の手入れ方法も解説 (meetsmore.com)

ノムラモミジは、方丈西側に1本、北側にも2本ほど植えられていた。

方丈北の東側にあるノムラモミジは松と近接しているのに、どちらの木もよく育って見上げるばかりの大木。その樹上辺りで、ウグイスが鳴き続けていた。探したがウグイスを見つけることはできなかったので、録音かと思うほど。かなり上手な歌い手だ。ピッチがだんだんと上がり、しばらく休んでは、また低いピッチから鳴き始める。1オクターブ近くの声域。

方丈東側には茶室に続く飛び石がある。茶室「涵虚亭」も公開されていて、外側から拝観できる。この飛び石が続く左手に、にじり口が見える。拝観は水屋側の入り口からで、その入口は板間、右手には床の間、床の間の右端は袖壁になっている。これを「洞床」というらしい。何のための袖壁?花瓶も香炉も置くことができない。何か目的があるのだろうけれども。

興臨院は畠山家の菩提寺として建立され(その名は畠山義総の法名から採られた)、前田利家による本堂屋根修復の後、前田家の菩提寺になったとのことである。屋根の軒丸瓦は三つ巴、飾り瓦は五七の桐紋。お茶室襖や玄関の襖にも桐紋。前田家の家紋はもともと加賀梅鉢紋だが、利家は秀吉から桐紋と菊紋を下賜されたらしい。下賜されても加賀梅鉢紋を使用していたという話もあるが、修復時、瓦に桐紋を入れていたのだろうか。

方丈北東の部屋は「日本で最初の床の間」のある書院。利家公の肖像画掛け軸がかかっていた。

「室中の上部が響き天井となっている」と由緒書にあるが、見上げてもよくわからない。室中には入れないので試してみることもできない。礼の間、室中、檀那の間の襖には平成9年に描かれたという襖絵が。檀那の間の襖絵は寒山拾得で、昭和に復元されたという庭の石組(二人が、あるいは寒山が暮らしたという深山を模したもの)とリンクしていた。

GWのすぐ後ということもあって拝観する人が少なく、ゆったりと見ることができた。じゅうぶん堪能した頃、徐々に人が増えてきて、気がつけばウグイスの声も間遠になっていた。

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大徳寺黄梅院 春の特別公開

2024-05-06 15:19:44 | まち歩き

大徳寺塔頭黄梅院2024年春の特別公開は、3/30(土)~5/19(日)の日程で行われている。こちらも特別公開事業は京都春秋の運営で、リーフレットには破頭庭の写真。その写真にあまり魅力を感じなかったので期待していなかったのだが、建物に入るまでのよく手入れされた前庭、苔の美しい庭園、禅宗らしい枯山水の庭園は、見応えがあった。

黄梅院の名の由来は、禅宗五祖(達磨大師から数えて五代目)と言われる弘忍(ぐにん/こうにん)の出身地、黄梅県(現 湖北省黄岡市黄梅県)から採ったものであるらしい。箱根の早雲寺に北条氏政の正室(1543-1569 法名:黄梅院)の菩提寺が同名で建立されたことからも、当時、禅宗において黄梅の名が使われることがあったとわかる。

入口を入って右手に、鐘楼や庫裡を寄進した小早川隆景などゆかりのある人物名の入った石碑が4基ある。黄梅庵(黄梅院の前身)は、そもそも信長の父、信秀(法名 萬松院殿桃巌道見大禅定門)の菩提を弔うために建立されたことから、「萬松院殿」の石碑が、別格であるようにみえる。

左手奥には小さな鐘楼。

さきの入り口から高尾紅葉の大木の下、石畳を進むと、右手奥に唐門がある。唐門は貴人の入り口であるため、締め切りである。この位置からだと、枝が伸びすぎていて唐門の様子は判然としないが、唐門・方丈の屋根はともに最も格式が高いと言われる檜皮葺。

さらに進んで小さな門をくぐり、受付を済ませて前庭を見ながら行く。

写真撮影が可能なのは、次の写真の入り口までである。

この前庭には、七角形の葉をした低木が多く植えられ、ヒイラギモチに似ているが、何の木なのかわからない。天が平たく、小ぶりで艶のあるしっかりした葉。

信長の菩提寺とするため秀吉は黄梅庵を増改築したが、結局別に総見院を建立し、黄梅庵の本堂・唐門を改築後、名称は黄梅院に改められた。

内部には「直中庭」「破頭庭」「作仏庭」がある。

「直中庭(じきちゅうてい)」は千利休作庭と言われ、目立つ場所に秀吉の千成瓢箪を模した池がある。池には伏見城遺構の石橋がかかり、瓢箪の口近くには加藤清正が朝鮮から持ち帰ったという灯籠(総見院の井戸の石も同様。一体どれだけ持ち帰ったのか)、比叡山の不動三尊石、鶴石亀石、庭を横切る渡廊下の反対側(北側)には、多賀大社(?うろ覚えなので、違うかも)から分祀された祠と、秀吉手製という蹲(直径60㎝はある石をくりぬいたもので、石工でなければ作れそうにない)など、さまざまいわれのあるものが。

「直中」は『論語』から採られたらしい。

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葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子曰、

吾黨之直者異於是、父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣

  『論語』巻第七 子路第十三 十八(岩波文庫)

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最終部分、「正直さはそこに自然にそなわるものですよ」(同書口語訳)とある。父は子のために隠し、子は父のために隠すという行為の中に正直さが備わるとは、なんと難しい。

塀を隔てた東側には「破頭庭(はとうてい)」。ここが、リーフレットや立て看板の写真の庭である。本堂手前に大海を表す白川砂、奥に陸を表す苔。庭に面した本堂南側は、東から「礼(らい)の間」「室中(しっちゅう)と仏間」「檀那の間」があり、檀那の間の正面辺りに観音菩薩・勢至菩薩に見立てた「聴聞石」が立っている。仏間の正面ではなく少しずらした所からお釈迦様の話を傾聴する姿。白川砂は規則正しく横に細く・太く箒目があり、静かな海の様子を表しているという。砂の北東角だけ箒目が扇形になっており、川の河口を表しているらしい。その川は、本堂北にある「作仏庭(さぶつてい)」の立石の滝から庫裡への廊下の下を通り、流れてきたようだ。また、川は作仏庭を東から西に流れ、ぐるりと建物をまわっているようにも見える。川の流れは波打つ箒目によって表現され、小舟や島を表す岩石に遮られたところは、箒目は曲線を描いている。本堂北側には、東から「書院の間」、僧侶の寝室である「眠蔵(めんぞう)」、「衣鉢(いはつ)の間」が配されている。仏間の裏手が僧侶の寝室となっており、床から60㎝ほどのところに板絵の入った仏間への出入り口があった。有事の際に仏様のお顔だけ外して持って逃げる、あるいは作仏庭に設けられた小さい井戸にお顔を避難させるための間取りと伺った。解説の方がとても詳しくわかりやすくて助かった。ただ、情報量が多すぎて、覚えきれず。

破頭庭の東側にある唐門(入ってすぐ右手に見えた、締め切りの門)まわりには波型連子(弓欄間)が施され、きれいだった。採光と通風に優れているし、禅宗らしい簡素な造りでもある。

書院は「自休軒」と呼ばれ、武野紹鴎作の茶室「昨夢軒」が北側にある。ここには「貴人床*(きにんゆか)」と呼ばれる床の間があり(解説より)、現在の御住職の手になる掛け軸「生死涅槃(尚)如昨夢」が掛かっていた。昨夢の語は大乗経によるらしいが、手元に参照できるものがなく、確認できなかった。確認できたら追記するつもりである。

【2024.5.9追記】

・読み仮名追加

・*印「貴人床」について、リーフレットより転記する。「昨夢軒の席は貴人床になっていて、書院自休軒の中に組み込まれているところから囲え込み式と言われている」。これだけではどんなものかわからないので解説員の方に伺うと、「床の間」とのお返事。また別の方は「貴人畳は知っているけれども、貴人床は何のことだろう」と。Webで調べてみたが、どういうものかはっきりとはわからなかった。

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