京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

大徳寺総見院春の特別公開

2024-05-05 20:23:54 | まち歩き
大徳寺総見院の春の特別公開は、3/30(土)~5/6(月)の日程で行われている。本坊同様、京都春秋が特別拝観を運営されていた。
 
快晴の2日、織田信長菩提寺という総見院に出かけた。信長一周忌に合わせ、その菩提を弔うため、秀吉によって建立された。総見院という名称は、信長の戒名(総見院殿贈大相国一品泰巌大居士 )に由来する。
信長の木造等身大坐像を実際に見るのが目的である。木像は吊欄間のある本堂の室中に安置され、多少薄暗い中ではあるが迫力がある。顎がしっかりとしており、教科書に掲載されていた緑の袴を身に着けた若い頃の肖像画とは雰囲気が違う。吊欄間の東側には、黒っぽい衣冠束帯姿の肖像画が掛けられており、これも違う。木像の作者(康清)も、肖像画の作者(狩野永徳)も信長と同時代人で実際に会ったことがあるとされているのに、また、どちらも当時の著名な芸術家であるのに、この違いは何だろう。
 
狩野永徳筆の信長肖像画は、大徳寺本坊と総見院に一枚ずつあるようだが、そのどちらかの絵が、本来は片身替わりの衣装だったことがわかっている(2011年6月)。左右の袖色が違う片身替わりは当時の流行で、新しいもの好きの信長にはぴったりだ。
 
日経新聞:目立たれては困る 信長の肖像画、秀吉が改変か 刀少なく、服装も地味に - 日本経済新聞 (nikkei.com)
im:狩野永徳の織田信長像、当初は派手だった | ニュース | アイエム[インターネットミュージアム] (museum.or.jp) 
 
信長坐像は、秀吉が、二体作らせたうちのひとつだという。沈香で造られたというひとつは、葬儀の際に遺体の代わりとして火葬されたらしい。棺に入れたのなら、そちらは坐像ではなく立像だったのだろうか。また、沈香は貴重なものだし、等身大像を造ることができるほどの大きな香木が存在したとも思えない(正倉院所蔵の香木は156㎝×径43㎝、重量11.6㎏)。一部香木を使用した、ということか。
 
「2体彫られたうちの1体は、葬儀の際に荼毘にふされますが、香木によって作られたその木像の薫りは洛中一帯に広がったと言われます。」
京都市観光協会 総見院|【京都市公式】京都観光Navi (kyoto.travel) 
 
 
写真左は正門。右は、通用口で、ここから左側約10mほどが「親子塀」と言われる二層の塀で、創建(1583年)当時のものということである。
親子塀は内側と外側で二重に塀が造られ、内部に人が入れるほどの空洞があるらしい。通用口の塀は、下部約80㎝、上部約60㎝、高さ2m未満であることが確認できた。下の写真は、通用口から、親子塀上部を撮影したもの。
明治の廃仏毀釈以降、堂宇や宝物が失われ、さきの木像や鐘は本山に避難させたらしい。木像は1961年本山より戻り、鐘は鐘楼とともに現在も塀のすぐ外側にある。鐘楼と鐘は創建当時のものというから、塀を新しく内側に作って、鐘は総見院のものではない体としたのだろうか。現在も、鐘は「本山に預けている」ことになっているらしい。
下の写真は、木像を本山から戻す際に載せた輿。外廊下上部に吊り下げられている。黒漆と赤漆が使用されているのだろうか。大切に取り扱われたことがわかる。
 
 
総見院には駒札がなく、市によるオフィシャルな解説は、上の「京都観光Navi」のみのようだ。フィールド・ミュージアム京都の「大徳寺」には、総見院は掲載されていなかった。
 
北山杉の台杉や小さめに仕立てられた低木など、上品な庭。入口傍にある侘助椿が有名らしいが、花の季節は過ぎていた。
 
加藤清正が朝鮮出兵の帰国時に持ち帰ったと伝わる石で造った井戸は、深く暗い。現在も地下水の流れがあり、水はとどまっていないのだという。
 
信長一族の墓所は境内北西にあり、「比叡山が見える」との解説が。境内外、西側の道路から、確かに比叡山を望むことができた。
 

 
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大徳寺本坊伽藍特別公開

2024-04-26 09:50:40 | まち歩き

大徳寺本坊伽藍の特別公開が、4/25(木)~6/2(日)の日程で開催されている。一昨日のテレビで経蔵初公開と聞いて、公開初日の昨日、行ってみた。

大徳寺通沿いの駐車場に挟まれた総門から入る。天気が良すぎて太陽光が光背のよう。

受付でツアー開始時間を聞いて、お支払いを済ませ、イベント用名札を首にかけ、ツアー開始。大徳寺七堂伽藍(三門、仏殿、法堂、方丈、鐘楼、経蔵、浴室)のうち、方丈、浴室以外を順に巡る。

まず、三門「金毛閣」から。写真は、勅使門外側より撮影したもの。

上は、ツアー後に囲いの外から撮影したもの。向こう側に勅使門が見える。次の写真はツアー後に西側階段付近を撮影したもの。この三門は、1589年平屋で創建されたものを、修復の際、千利休の寄進で2階建てとしたらしい。寄進した利休の木造を2階に安置したところ、秀吉の怒りを買った、とか。さまざまな事柄が自刃の理由として取りざたされているが、これもその一つ(ツアー解説より)。

三門の手前で解説を受け、立入禁止の砂利敷を避け、両脇の平板部分を行く。三門直下では二階天井に描かれているという龍図のパネルを見せていただく。二階には上がれないため、パネルはきちんと見るべきだった。Webでざっと探してみたが、写真が見当たらず、後悔。

次の写真は仏殿である。

仏殿前のイブキの大木には洞があり、先日の産寧坂の桜倒木が思い出される。ただしこれは地面にしっかり根を張っている(コンクリートや石に邪魔されていない)と思われ、何本かの支えもある。

下は、ツアー後に西から撮影した仏殿。

仏殿の天井には飛天が描かれているというが、かなり褪色していてよく見えなかった。金色の仏像は、ほこりのためか部分的に黒っぽくなっていた。

仏殿から法堂までは明月橋(この漢字で合っているのか?)という名の渡廊下があり、両脇は椅子状になっている。仏殿北側入口から僧が入る際の待機場所であるらしい。そっと歩いても、ミシッと音がする。

仏殿の天井には雲龍図。何度も手を叩いて鳴き龍の音を楽しんだ。建物上部に透かしがたくさんあるのに、音が返ってくるのが不思議だ。墨絵で力強い姿、格好がいい。

国宝、唐門の孔雀の羽には驚かざるを得ない。翼の浮き具合、それぞれの羽の傾き、確かにこれはみごとである。聚楽第で「日暮門(すべての彫刻を鑑賞すると日が暮れてしまうほどの門)」と言われたその門を移築したものらしい。ところで、上京区には日暮通――あの佐々木酒造の前を南北に通る道――という通り名がある。日暮通の名は、この日暮門に由来するらしい。聚楽第の正門であった日暮門は、現日暮通の下長者通~上長者通の辺りにあったと言われている。この間は約100m。かなり範囲は限定されているが、現在は狭い一方通行の道路となっており、その名残を求めることはできない。

この唐門は方丈前庭に面しており、方丈修復事業が終了する再来年には、この裏側の様子も見ることができる(白砂があるため近くに寄ることはできないが)。

最後に、初公開の経蔵へ。八角の回転する経蔵を発明したという傳大士と二人の息子の像がある(ツアー解説)。「天地玄黃」から始まる千字文がそれぞれ一字ずつ書かれた引き出し(横5個×縦9個×8面)が計3600あり(書いてから、数が合わないことに気がついた)、現在所蔵されているお経は、その半分とか三分の一とか……(解説を覚えていない)……。テレビでは、一つの引き出しに3点ほどのお経が収蔵できると話していたように思う。お経というと巻物であるようにぼんやり思っていたが、奉書を畳んだような映像が流れていた。ツアーでは動かすことはもちろん触ることもできない。

ツアー中、伽藍内部での撮影ができないため、一日経つと、細部を忘れてしまっている。すぐに書くのはなかなか事情が許さない。

解説を含め総じて興味深いものであったが、方丈庭園も見られないというのに3000円のツアー代金は高すぎるだろう。この半額程度なら、納得がいくのだが。

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平岡八幡宮

2024-04-19 21:21:32 | まち歩き

3月15日~5月6日、平岡八幡宮で春の特別拝観が行われている。

平岡八幡宮は椿、花の天井、そして山城国最古(809年)の八幡宮として知られる。ご神体は弘法大師自筆の僧形八幡神像。一帯は神護寺旧境内で、大師は神護寺守護神として描いた、ということである。本殿は1407年に焼失後、足利義満(1358-1408)により 再建、仁孝天皇による修復(1826年)、現宮司による一部修復(2014年)を経て現在に至っている。

参拝の際に受け取ったリーフレットに神護寺所蔵の同伽藍図コピーが記載されているが、これは室町時代の絵図であるらしく、現存する社殿とは趣を異にしている。また、清滝が平岡八幡宮の右上に描かれており、東西南北もはっきりしない。

1780年と時代は下るが『都名所図会』も確認しておく。ここで描かれた「八幡宮」が、平岡八幡宮のことだろうか。確かに神護寺から見て東南に位置するが、図絵ではもっと隣接している。

『都名所図会』神護寺絵図:km_01_06_053.jpg (1926×1285) (nichibun.ac.jp)

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高尾山神護寺は光仁帝の御宇和気の清麻呂奏聞し建立有りしなり……(中略)……

八幡宮は経蔵の巽にあり

『都名所図会』高雄山神護寺解説画像 (nichibun.ac.jp)

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拝観には宮司さんがつきっきりでお庭から内陣の説明までしてくださった。本殿内陣の格天井に描かれた44枚の「極彩色の花絵」の説明が最も興味深かった。平岡八幡宮のある梅ケ畑地域はかつて薬草を栽培していた場所でもあり薬草の絵が多いこと、ラピスラズリが使われていること、義満を表す牡丹の絵が上座中央にあること(義満の野望に関するお話も)。格縁には黒漆が塗られており、個人的には漆塗りの縁は初見で珍しかった。花の天井は直近の修復はされていないというが、奥の紅葉の絵などは色鮮やか。この色をよく保っているものである。「極彩色」というよりも、上品な色付けと見た。さすがに内陣での撮影はできず、花の天井は実際に出かけて見上げるしかない。

内陣の奥(神棚と言っていいのか?)一段高くなったご本尊などを祀る手前の左右の長押に、熨斗袋から紅白梅と白玉椿がそれぞれ描かれている。金を使用して華やかではあるが、この絵は全く好みではなかった。花天井は1827年綾戸鐘次郎藤原之信という画工によるものと知られていたが、2014年の部分修復で「山本探淵」の名が発見されたとのこと。熨斗袋の絵は、彼の手によるものらしい。

本殿内陣を出ると、社殿屋根中央の蟇股部分に、修復された琴引き弁財天が見える。

同じく社殿屋根左右の飾りには瓢箪の透かしがあり、「秀吉が寄進した証左の千成瓢箪」と説明を受けた。

 

ここには白玉椿伝説なるものがあるらしい。願い事をすると、白玉椿(形の良い白椿)が一夜で開花し願いが成就した、という伝説である。『日本書紀』にみえる土蜘蛛征伐の椿より、古来、邪気を払うものとされてきた、とのこと(八幡宮リーフレット)。『日本書紀』現代語訳をざっと見たが、該当する記述は見つからなかった。

代わりに椿が神聖な木である、という記述が『古事記』に見つかった。ひとつは仁徳天皇の時代についての「64 妬み深い大后と八田若郎女」に、もうひとつは雄略天皇の時代についての「78 袁杼姫の歌・天語歌」にある。

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大后のイハノ姫の怒りはなお収まらず……(中略)……難波の堀江をさかのぼらせ、河から河へと山城の国までのぼっていった。その時、次のような歌をうたった。

つぎねふや 山城川を 川のぼり 我がのぼれば 川の辺に 生ひ立てる 烏草樹の木 其が下に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が花の 照り坐し 其が葉の 広り坐すは 大君ろかも

                  *下線部は、さんずい偏に「斥」で一字

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その時、大后のワカクサカベノ王は、次のような歌をうたった。

大和の この高市に 小高る 市の高処 新嘗屋に 生ひ立てる 葉広 斎つ真椿 其が葉の 広り坐し 其の花の 照り坐す 高光る 日の御子に 豊神酒 献らせ 事の 語り言も こをば

              『現代語訳 古事記』福永武彦訳(河出文庫)*ルビ省略

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椿の木が神社にあることに納得。椿はツバキ科ツバキ属、神道で使われる榊はモッコク科サカキ属ではあるが、常緑低木で、葉に厚みと艶があるところ、葉の形状(縁にギザギザがないところ)が似ている。

椿を見に行ったのに、ほとんど咲いていなかったのは残念。宮司さんによれば「去年咲きすぎたから、今年はどこも椿は咲いていない」「咲いても鹿が花を食べにくる」「落ちた椿まで食べてしまう」とも。14日には北山通と北大路通の間にある府立植物園に鹿が数頭侵入し、一日半の間休園になった。鹿は平岡八幡宮のような山の方だけではなく、川伝いに下りてきて食べ物を探す。高野川の川辺で数年前に一度見かけたことがあると思い出した。

宮司さんが、もう少しゆっくり話してくれたら、なお良かった。毎度の解説にご本人は慣れてしまっているのだろう。話についていくのが大変だった。

なお、JRバスの停留所「平岡八幡前」は、冒頭の写真の鳥居のすぐ前にあるが、Google Mapsや乗換案内アプリを使用すると、次の停留所「梅ケ畑清水町」を勧めてくる。そこで降りると西側の鳥居が近く、徒歩で行く距離はかなり短くなるのだ。もっとも、参道の高尾紅葉や椿の小道を見ながら歩くのがいいのだが。

 

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御所の八重桜

2024-04-18 20:48:37 | まち歩き

京都御所の下立売御門から、桜がのぞいていた。

今まさに満開である。桜の下には外国人の方々を含め、20人ほどの見物人が。

4月に入ってから、桜・桜……で食傷気味、そろそろいいかなと思っていたところだった。10本ほどだろうか、大木の枝えだにぎっしりとついた八重桜。ありがたいことに、蜂は飛んでいない。枝を分け入ると、黄砂で曇っていた空も見えなくなるほどの花の海である。

桜を見逃した方は、急いでこちらへ。

桜の左奥に下立売御門を見る。枝が重すぎて、地面にもたれかかっていた。

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本法寺

2024-04-11 21:06:46 | まち歩き

春季特別寺宝展(2024.3.14-4.15)開催中の本法寺へ。

堀川通に面した入口は地味で、入りづらい。どうやら、小川通に面した入口が正門らしい。

写真の右手に市の説明板がある。

雨に打たれて少し読みづらいが、山号は叡昌山、1436年日親上人が開山した、とある。受付で入手した説明文から、当時は「弘通所」といい、東洞院綾小路にあったらしい。破却後、四条高倉で再建、再破却の後、三条万里小路で復興、法華法難によって堺へ避難、一条戻橋近辺で再興、秀吉による寺地移転で現在地へ、という経緯を辿っている。

上の写真は、仁王門を入って振り返って撮影したもの。気持ちのいい風が吹く日、満開の桜の花びらが風に乗って降ってきた。

本堂前の桜も満開。

多宝塔の姿は美しい。

唐門の奥は書院と収蔵庫で、右手前にあるのは開山堂。撮影場所は、本堂前である。

本堂の左手前に「光悦翁手植之松」と「畫聖等伯像」がある。この銅像は、等伯が七尾から京へのぼる様子をうつしたものらしい。

本堂を西南から撮影したもの。本堂西を通ると方丈の拝観入り口がある。

中央に見えるのは光悦垣。下の写真は、垣の間から撮影したもの。立派な建物である。

受付を済ませ、建物内に入って屏風絵やお庭を拝観。お庭は撮影できる。

唐門の前に広がるのは、「十(つなし)の庭」。9個の石と、見る人の心にある石を併せ「十の庭」である。妙蓮寺の「16羅漢の庭」と同じ考え方。なお。「十」を「つなし」と読ませるのは、「ひとつ、ふたつ……ここのつ」と数えるのに、「十=とお」であって「つ」がつかない、という意味らしい。ここは、巴の庭の修復時(1972年)に作庭されたとのこと。50年を超えるだけあって、松も苔も時の蓄積を感じさせる。

宝物館からさらに奥に進むと、光悦垣があり、その向こうに「巴の庭」が広がる。

上の写真左に小さく見えている花手水。

洋花は少し不つり合いか。「巴の築山」が三つあるから「巴の庭」と名づけられたそうだが、その形はよく分からない。蓮池の形は面白い。

巴の庭のすぐ手前に「光悦の蹲踞」がある。もともとは巴の庭の一角を占めていたが、渡廊下の新設などで庭が縮小されたか?それともつくばいと燈籠を移動させたのか?

書院に隣接して宝物館があり、通常ならレプリカ展示の等伯筆「佛涅槃図」が、この期間特別に展示されている。これが見たかった。

10m×6mもの大作。釈迦入滅を悲しむ天上の神仏、僧侶や在家の人々、動物たちが、月夜の沙羅双樹のもとに描かれている。象が描かれた部分に見覚えがある。馬の顔つきや、猿の毛並みがすばらしい。描表装(表装部分はお弟子さんの筆)の美しい作品である。ここでは、詳しく解説してくださる方もいて、どう見ればいいか、よくわかる。等伯自身が描きこまれていると言われること、早逝した息子の供養のために描いて本法寺に奉献したこと、「自雪舟五世長谷川藤原等伯」とサインされていること。「藤原」の意味はよくわからないのだが。2階からは上部を見ることができ、満足度が高かった。

また、その2階には等伯の「波龍図」屏風もあり、これがとても良い。水墨画の龍は力強い筆致で、まさに今、海に下りて波立った一瞬を切り取ったかのようだ。想像上の生き物なのに、この生き生きとした絵。等伯のサインは入っていないから真筆かどうか議論はあるだろうが、誰の絵でも、いいものはいい。

また、開山堂では尾之屋宝永堂の切絵展が開催されていた。本法寺所蔵の国宝や伽藍を題材とした切絵も多く、かっこいい。外国人に特に受けがよさそうだ。

方丈の北側にもごく小さい門がある。小川通に面した東の仁王門と、この北門には、寺宝展の看板が置かれていた。

堀川通沿いの西の門には、南行きの車から見えるように車道近くに大きな看板が出ていた。門の近くに上と同じ看板があれば、通りかかった歩行者にもわかりやすいのに、と思う。

 

最後に、寺紋について。五七桐と五三桐の両方が見られた。正式には五七桐らしいが、格が高すぎて遠慮して五三桐を使うようになった、という話もある。法衣には五七桐があしらわれている、とのこと。

 

 

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