嵐電の駅名にもなっている蚕の社。正式名称は、木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)。本殿の東隣に蚕養(こかい)神社があって、そちらの通称で呼ばれるようになった。
三条通沿いには石造りの春日鳥居が建てられていたが、三条から少し北に上がった神社入り口には総丸太の神明鳥居。
この神社で有名なのは、本殿西側にある三鳥居である。南、北西、北東に面して鳥居が三角形に組み合わさったものだ。これは、京都御苑内厳島神社・北野天満宮内伴氏神社と共に、京の三鳥居と呼ばれている。
本や雑誌掲載の 写真でおなじみの三鳥居は明神鳥居で、想像していたよりもずっと大きい。竹垣で囲われていて近くには寄れなかったが、高さは少なくとも5メートルはある。この鳥居の中央、石が寄せられ、紙垂のついた棒があるところから、かつて水がこんこんと湧き出ていたらしい。
20年ほど前の近隣の下水道工事以来、池の水が涸れてしまった、という話だ。地下水豊富な京都で湧水が涸れた、というのは、下鴨神社の御手洗池と同様。そして、この神社がある森は「元糺の森」と呼ばれ、三角鳥居のある石垣に囲まれたこの場所は「元糺の池」と言う。つまり、ここが本来の「糺の森」であった。この池で禊をして穢れを落とし、あるべき姿にただす、そういう場所だったのだろう。嵯峨天皇の時代に、この森の名称が現在の下鴨神社境内、糺の森へ遷ったのだ、と由緒書きにある。この神社の神紋がフタバアオイなので、なるほどそうかもしれないと思う。
拝殿の提灯に描かれたフタバアオイと、同じく拝殿幕のフタバアオイは違う意匠だ。ずっと昔に京の西方で勢力を持っていた新羅系渡来 氏族の秦氏と、京の北東で勢力を持っていた賀茂氏には、どういう関係があったのだろうか。秦氏は菩提寺として広隆寺を建て、松尾寺と伏見稲荷を建て、蚕養神社を建てた。太秦の地名も、彼らの土地であったことの証左だ。一方の賀茂氏は、現在の上賀茂近辺もとは奈良・葛城山麓の豪族だったという。拮抗する勢力が手を結ぶには、古今東西、婚姻と決まっている・・・・・・。『秦氏本系帳』『鴨県主家伝』というものがあり、姻戚関係、賜姓と、異なる記述があるらしい。直接確かめていないので、これ以上は書けない。
秦氏と景教を関連づけ、三角鳥居はダビデの星の象徴(三角を組み合わせて星)という説もある。他にもいくつかキリスト教と関連づけた事象はあるが、その真偽はともかく、もしもここに裏の意味があるのなら、考えた人はすごい、と思ってしまう。府内に多いハタ関係の名字は、今に続く秦氏の広がりを感じさせるけれど、個人的に知っている彼ら・彼女らは、京都独特の雅な顔、つまり、うりざね顔に引目の顔立ち。だから、秦氏がユダヤ人の末裔という説には与しない。
[2010.9.8追記]
『都名所図会』の「木島社」の項を引用する。
「木島社ハ太秦のひがし森の中にあり天照御魂神を祭る瓊々杵尊大己貴命ハ左右に坐す蠶粮社ハ本社のひがしにあり糸わた絹を商ふ人此の社を敬す西の傍に清泉あり 世の人元糺といふ名義ハ詳ならず中に三ッ組合の石柱の鳥井あり老人の安坐する姿を表せしとぞ 當所社司の説 石鳥居 八角の柱なり森の入り口にあり・・・(略)・・・」
江戸時代には、「元糺」の由来ははっきりとせず、三角形に組まれた鳥居は老人の安座する姿という説があった。この説は、説得力に欠けるように思うが。
日文研HP「都名所図会」:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_302.html
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます