疏水沿いも、鴨川沿いも、御所も、桜は満開。今日は少し風が冷たいけれど、京都は今が花見どき。
あちこちの桜を見ながら、四月の公開は第一・第二土日だけという安楽寺へ。浄土宗の寺。
ここは、“承元(建永)の法難”の契機となった、松虫鈴虫事件の舞台である。浄土宗黎明期、鹿ケ谷山中に草庵を結んだ法然の高弟・住蓮と安楽の、六時礼讃の哀調が評判になっていた。後鳥羽上皇寵愛の女御・松虫鈴虫姉妹は、上皇の熊野参詣中こっそり草庵に赴き(1206年=建永元年12月)、住蓮・安楽に頼んで剃髪、出家した。それが上皇の逆鱗に触れ、二僧は斬首(1207年=建永2年2月)となった。かねてから浄土宗の広まりには、叡山も(1204年「延暦寺奏上」対・天台座主)、南都も(1205年「興福寺奏上」対・朝廷)危機感を持っていた。上皇は、この事件の後、“専修念仏停止(せんじゅねんぶつちょうじ)”の勅命(1207年=建永2年2月)を出し、同2月18日に法然を土佐(実際は讃岐)、親鸞を越後へ配流と決定。事件への連座を口実として、鎌倉新興仏教である浄土宗の勢いを殺ぐ意図があったのだろう。他に5人が流罪、2人が死罪となっている。建永2年は10月25日を以て承元(1207~1210年)と改元するため、この弾圧事件は、両方の元号の名で呼ばれる。
松虫鈴虫のその後。僧の斬首を知って自害したという説もあるが、ここでは、紀伊の国・粉河寺で身を潜めた後、瀬戸内海の生口島にある光明坊で 念仏三昧の余生を送った、とされている。松虫は35歳、鈴虫は45歳で往生したとのこと。
写真上の石塔は、一基をさまざまな角度から写したものである。道路に面した西面には「浄土禮讃根源地」(写真上・左)、参道に面した北面には「圓光大師霊場」(写真上・中)、山門を背にした東面には「圓光大師化縁跡地/住蓮山安楽寺」(写真上・右)、南面には「志ゝケ谷御庵室」(写真上・左)。普通は、寺の名前が一番目立つ所、即ち道路に面して刻まれているものだが、これは違う。住蓮・安楽による六時礼讃声明の美声で、人々を浄土宗に帰依せしめた、ということが重要なのだろう。寺で頂いたリーフレットに依ると、当時の草庵は、この場所よりもっと東の山中にあったそうだ。赦免されて数年後、帰洛を許された(1211年11月17日)法然上人が、二人の菩提を弔うため、旧地に草庵を復興し「住蓮山安楽寺」と名づけたのだとか。1532~1555年に、現在地に移転したという。
なお、この寺の旧公式HP(2001~2009年)掲載の「本堂の形態の変遷」項目に、『都名所図会(初版)』と『花洛名勝図会』が参考文献として挙げられている。『都名所図会(初版)』では「入母屋造茅葺の前堂と入母屋造瓦葺後堂の2つの建造物が本堂として南北に並んで」いるらしい。この初版(1780年)は未確認だが、再版(1786年)の該当絵図を、日文研HPで確認した。方形裳階瓦葺の本堂に方丈。初版から再版の6年の間に、本堂は改築されているのだ。また『花洛名勝図会(1864年)』も、日文研HPで確認できる。こちらは、本堂の後ろに、現在の内陣となる部分が増築されていることがわかる。石畳や庭の様子も、現在の状態に近い。
安楽寺旧公式HP「安楽寺ハガキ伝道」:(http://www.kyoto.zaq.ne.jp/anrakuji/anrakuji/hagakibox/hagakidendou3/hagakidendou3.htm)
国際日本文化研究センターHP「都名所図会」:(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_221.html)
国際日本文化研究センターHP「花洛名勝図会」:(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/karaku/page7t/km_04_04_036t_02.html)
写真上・左は、門を入って正面の方丈。写真上・右は、石畳を左に折れて正面の本堂。本堂内では30分毎に寺の縁起や仏像についてのお話がある。お話を聞いてから、書院へ廻る。さつきの庭が目に入る。書院の縁側に座ってみると、東山を借景としていることがわかる。
本堂の軒丸瓦は、三つ巴。本堂に置いてあった仏具の台には竜胆車が描かれていた。
この寺の御本尊は阿弥陀如来だが、阿弥陀三尊形式で、観音菩薩・勢至菩薩が両脇にいる。両菩薩像の前には「くさの地蔵」「龍樹菩薩像」。「くさ」とは、湿疹のことで、このお地蔵さんにお願いすれば皮膚病が治るという信仰があったことから、その名で呼ばれているらしい。お礼参りに奉納したという柄杓が、本堂の壁に沢山かかっていた。内陣に入って、これらの仏像を間近で眺めることができた。天井近くには四天王の絵があった。そう言えば、山門の階段下には「洛東十二番くわん世音」の石柱(写真右)があった。「洛東十二番」は、この観音菩薩像のことだろうか。
外陣には、住蓮・安楽・松虫・鈴虫の木像、法然上人張子像、親鸞聖人旅姿像、十一面観音菩薩像。さきの「洛東十二番」は、こちらか?法然上人像は、張子とは思えないほど、大きさもあり、重厚な雰囲気。張子に使用した紙は、上人が残した書簡などらしい。こういうものは初めて見た。
4時半に閉門。哲学の道から東へ一本入ったところながら、観光客は、この時間まだそぞろ歩き、「もう閉まってる」という声も。
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