Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

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輪旅 冬枯れの伊賀盆地を走る!

2012-12-18 08:32:49 | 自転車旅
《輪旅 冬枯れの伊賀盆地を走る!》
12月、今年のプランもほぼ最終に・・・関西の自転車仲間と伊賀盆地を走ってきました。タイトルは望年ラン・・・来年も一緒に走りましょうと!

コースは時計回りで伊賀上野~大山田~青山~名張~月ヶ瀬~伊賀上野。布引山脈の山裾を縫って伊賀の田舎町を走り抜けました。途中、伊賀街道や初瀬街道とも交差して・・・まだまだ素敵な所は多く残っているようです。
http://latlonglab.yahoo.co.jp/route/watch?id=ef73e046a33cfb83808915f56b416305


(大山田付近の田舎風景)
おなじみのメンバーが伊賀上野駅に集合・・・5人、丁度良い人数かと。ベテランばかりですので安心・・・阿吽の呼吸で走り始めます。先ずは関西本線に沿って北東へ・・・

じきに佐那具へ・・・ここは奈良時代、伊賀の国府があった場所です。国庁を発掘したという場所には看板がありました。街中には府中神社もあります。


(伊賀街道・大山田にて)
名阪国道を横切り、旧の大山田村へ・・・ここから素敵な田舎風景が始まりました。大山田村とは・・・かつては伊勢の津城と伊賀の上野城を大名・藤堂高虎も行き来したという伊賀街道(伊賀越奈良道とも)が通っていました。宿場でもあった平田には植木神社が・・・7月末に執り行なわれる植木神社の祭礼「祇園祭」には三基のだんじり(山車)も曳行されるそうです。

服部川と聞けば忍者服部半蔵・・・服部、百地、藤林が伊賀忍者御三家?だそうだ。東京の半蔵門も伊賀に関係ありか・・・


(出合から名張へ向かう道)
川北で県道2号に入り、馬野方面へ・・・いよいよ待望の田舎道が・・・小さな峠を越えて伊賀上津、伊勢路へ・・・ここの集落も素敵・・・かつての初瀬街道の宿場だったのでしょうか。中心地には常夜灯が建っていました。

次に奥鹿野へ・・・道はますます辺鄙に・・・福川、ここで左折し、諸木、腰山、霧生へと行く予定であったがタイムオーバーで変更・・・真っ直ぐに老川、種生(たなお)へ・・・ここはあの兼好法師(吉田兼好)が「徒然草」を書いた場所とも。

出合より県道691号に入り、ちょっとした峠を越えて名張へ・・・ここがまた素敵な場所でした。伊賀コリドール(回廊の意味)道が出来たため、かつての県道は忘れ去られようとしていました。

夕やみ迫る名張の町をかすめ、赤目口駅より宿へ向かう。這う這うの体で「楽らふ」へたどり着きました。


(峠にて)
翌朝、奈良の大先輩とは別れ、笠間峠へ向かいました。これがなかなかの峠道で、朝食のおかゆが裏目に!??・・・途中から見下ろす名張の町が素敵・・・地蔵さんが祀られた峠も素敵。


(冬枯れ)
上笠間へ降り立ち、右折して葛尾へ・・・この道がまたいい・・・いわゆる簡易舗装でガードレールもない一車線幅の田舎道はいうことなしでした。途中には磨崖仏も・・・


(笠間峠への上り)
毛原廃寺・・・以前より気になっていた場所です。道の横に食堂(じきどう)の基壇が無造作に・・・水田を開墾するときに集めたようです。金堂跡や西塔跡、中門跡は更に下にありました。金堂あと・・・それは民家の敷地にそのまま残っていました。宗教にかかわる遺物のため、崇りを恐れて触らなかったのでしょうか。1300年もの間・・・


(毛原廃寺の基壇)
毛原廃寺の史実は今も不明なようです。基壇の規模からすると唐招提寺規模の寺院があったとも。充分にその威容を残った基壇は物語っていました。


(名張の町を見下ろす)
葛尾で名張川に出合い、左折。月ヶ瀬の五月橋(山添村?)を目指します。更に国道25号、裏道を拾って上野市内へ。


(上野で豆腐田楽を)
鍵屋の辻を通り、「わかや」へ・・・締めは上野名物の豆腐田楽で・・・お腹がふくれれば二日間の自転車旅も楽しかったことばかり・・・またの再会を願って解散としました。

輪旅 別所温泉から野倉道祖神へ!

2012-12-08 22:28:53 | 自転車旅
《輪旅 別所温泉から鹿教湯温泉へ!》
今回の訪問地は信州の鎌倉と呼ばれる別所・・・温泉でも有名で、終わりかけの紅葉を楽しみながら走りました!?現実は、雨具を着てのサイクリングとなりましたが・・・

千曲川沿いに広がる平野・・・上流から佐久平、塩田平、善光寺平というそうです。かつて信濃の中心地は塩田平、今の上田市あたりにあったようです。信濃国府、信濃国分寺があったことでもその証明に・・・戦国時代に活躍した真田氏の拠点、上田城は必見の場所かと。


(北国街道海野宿にて)
以前、奈良の大先輩と北国街道を走ったことがあります。信濃追分から直江津まで二泊三日で・・・北国街道は、佐渡の鉱山で採れた金を江戸へ運んだルートだと記憶をしています。

想像以上に当時の街道筋の面影が残っていて、感動しました。


(名物のクルミ味噌でいただく蕎麦)
海野宿・・・地元の豪族「海野氏」が支配。通りの真ん中を流れる用水、うだつの上がる家並み、時間が止まったような空間が感動です。


(別所温泉・北向観音)
雨の中、別所へ移動。歴史のある温泉地・別所は塩田平の南に位置します。別名、信州の鎌倉・・・鎌倉時代、鎌倉北条氏が三代に渡って統治・・・その時代に仏教文化が栄えたためだそうです。

北向観音・・・別所で一番有名な場所・・・長野善光寺が南向きに対し、別所は北向きのため北向観音というそうです。本尊は千手観音、境内の愛染かつらは小説の舞台になったとも。


(安楽寺・八角の三重塔)
別所の三楽寺・・・安楽寺、常楽寺、長楽寺(廃寺)・・・安楽寺の国宝八角三重塔は国内で唯一の建物だそうです。重厚な茅葺の常楽寺には国重文の石津造多宝塔が・・・別所の寺院は重みがありました。


(野倉の道祖神へ)
二日目は快晴・・・別所より野倉を通って鹿教湯温泉へ向かいました。この道がまた素晴らしい・・・信州らしい雰囲気の中、仲間とのお喋りを楽しみながら走ります。この時期、紅葉したカラマツが落葉を始め、ハラハラと降り注ぐ中を走るのも格別な感があります。

野倉の夫婦道祖神は有名・・・十二単衣を着た夫婦のほほえましい道祖神は一見の価値ありでした。


(大明神岳への道)
カラマツの落葉を踏みしめながら自転車を走らせます。標高が上がるにつれて雪雲のようなものが流れてきます。その合間に注いでくる太陽の光は温かく、ありがたみを感じる瞬間です。今回の旅の主催者、S氏がコーヒを沸かしてふるまってくれました。こんな心遣いが嬉しいひと時でした。


(ベテランサイクリスト)
大明神岳の下で県道・丸子信州新線と合流・・・ちょっと先で分かれる林道は保福寺峠へ続いているとか。凍える身体を我慢しながら鹿教湯への道を豪快に下って行きました。

鹿教湯で国道254号に・・・あとは旧丸子町へ向かって快走・・・千曲川の手前で解散。それぞれが思い思いの帰路に着きました。

今回の宿、別所温泉の宿「中松屋」はとても素敵な宿・・・まさしく美人女将の宿でした。またいつか訪れてみたいなと・・・

祭り旅 小江戸・栃木から秩父の夜祭りへ!

2012-12-07 21:57:13 | 祭り旅
《祭り旅 小江戸・栃木から秩父の夜祭りへ!》
小江戸と呼ばれる町があります。川越、栃木、佐原、大多喜、厚木、遠江掛塚、近江彦根・・・栃木市は吹上藩の城下町、日光例幣使街道の宿場町でもあるそうです。巴波川に沿った蔵の景色は一見の価値ありでした。明治期は栃木の県庁所在地だったとも。

翌日は秩父市へ・・・300年以上の歴史を誇るという念願の秩父夜祭を見るためです。全山が石灰岩という武甲山の麓に広がる盆地・・・三大曳山祭りといえば、京都祇園祭、飛騨高山祭、秩父夜祭だそうです。豪壮な六台の山車と羊山から打ち上げられる花火・・・秩父神社の妙見さんと武甲山の蔵王権現が年に一度出合う祭礼とも。

今宵の宿は「比与志」・・・部屋に戻り、街中で仕入れた「武甲正宗」の生原酒に酔い、祭りの余韻を楽しんだのは言うまでもありません。「秩父錦」は次回のお楽しみに・・・

前夜は館林のSさん宅にお邪魔し、お世話になる。スタートは岩舟町役場、北にそびえる岩舟山の山頂には三重塔で知られる高勝寺があるそうです。太平山の山裾に沿って・・・途中、鷲巣の神社では祭礼に出くわし、奉納の舞を見学させていただきました。その後、ふるまいの豚汁を頂く。


(日光例幣使街道を走る)
日光例幣使街道(中山道倉賀野宿より分岐)・・・徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するため、京の都より勅使(朝廷の使い、公家?)が日光東照宮へ通った道。日光杉並木もその一部だそうです。

その道が商業で栄えた栃木市を通っていました。趣のある街道沿いには代官屋敷や往時の商家が並んでいました。


(巴波川沿いの蔵)
巴波とうずまと読む・・・往時、栃木は江戸との舟運(巴波川から利根川へ)の起点となり、北関東の商都として大いに栄え、その代表が塚田家、木材の廻船問屋として財をなし、今も豪壮な土蔵造りの蔵が残っているのだそうです。


(旧栃木町役場)
明治期、県庁は栃木市にあった・・・しかし、歴史の流れの中で宇都宮へ・・・結果、県の名前として栃木が残ったとのことです。今も町役場や栃木病院といった大正時代の洒落た西洋建築が残っているのが嬉しく感じられます。


(秩父三十四ヶ所観音霊場めぐり)
二日目は秩父市へ・・・以前、塩山~大弛峠~川上村梓山(泊)~三国峠~中津川林道~秩父市~正丸峠~名栗(泊)~青梅~あきる野~高尾へと走ったことがあります。その時、いつかは秩父夜祭も観たいなと!

古くは知々夫国とも・・・和同開珎が造られた場所とも。産業は木材と絹織物・・・大正時代よりは武甲山で採れる石灰岩でセメント製造も盛んに(秩父セメント)露天掘りのため、武甲山の形が大きく変わってしまったのは致し方ない・・・のかも!?


(荒川を渡る)
秩父でもう一つ有名なのが秩父三十四ヶ所観音霊場めぐり・・・なんと岡崎と鈴鹿ナンバーが来ていたのにはびっくり・・・信仰心のなせる業?なのでしょうか。

霊場めぐりの一部を回り、荒川に掛かる橋(地図にはあった)・・・は無く、飛び石を渡って対岸へ。ちょっとしたハプニングでした。


(今宵の宿・比与志にて)
市内の外周をポタリング後、宿へ。「比与志」は素敵な宿でした。古民家風の造りは落ち着きがあり、とてもリラックスができます。薪ストーブはとても暖か・・・!


(秩父鉄道・秩父駅前にて)
夕方、いよいよ祭り見物に・・・全国から集まったのではという数の屋台がずらっと・・・観光客はうん十万人かも。先ずは祭り見物場所の確保・・・見どころを予測して街中を歩きます。


(豪壮な下郷笠鉾の山車)
出発は秩父神社前より・・・六台の山車がゆっくりと御旅所まで曳いて行かれます。見せ場は門での方向転換・・・数メートルの柱が山車を持ち上げ、大きく傾いた状態で向きを変えます。数トンはあるかと・・・拍子木の音が街中にこだまし、東にそびえる羊山から打ち上げる花火が祭りを盛り上げてくれます。なぜかハイライトの団子坂は近づくことさえできませんでした。

三日目・・・初めて通る雁坂トンネルを抜け、甲府市より帰路へ着きました。

※例幣使街道とは・・・ゆすりの語原!??
京の朝廷の使いが、日光東照宮に毎年御幣を捧げるために通った道です。東照宮の例祭に合わせ、四月一日に京を発ち、四月十日に上州に入り、翌日にこの道を通り、十五日に日光に到着したとされています。禄の低い公家が例幣使であったことから、道々金品を強要したり、籠をゆすって落ち金銭を要求したといいます。このことから金品を要求することを「ゆする」と言うようになったとされます。(とあるサイトより)