《祭り旅 小江戸・栃木から秩父の夜祭りへ!》
小江戸と呼ばれる町があります。川越、栃木、佐原、大多喜、厚木、遠江掛塚、近江彦根・・・栃木市は吹上藩の城下町、日光例幣使街道の宿場町でもあるそうです。巴波川に沿った蔵の景色は一見の価値ありでした。明治期は栃木の県庁所在地だったとも。
翌日は秩父市へ・・・300年以上の歴史を誇るという念願の秩父夜祭を見るためです。全山が石灰岩という武甲山の麓に広がる盆地・・・三大曳山祭りといえば、京都祇園祭、飛騨高山祭、秩父夜祭だそうです。豪壮な六台の山車と羊山から打ち上げられる花火・・・秩父神社の妙見さんと武甲山の蔵王権現が年に一度出合う祭礼とも。
今宵の宿は「比与志」・・・部屋に戻り、街中で仕入れた「武甲正宗」の生原酒に酔い、祭りの余韻を楽しんだのは言うまでもありません。「秩父錦」は次回のお楽しみに・・・
前夜は館林のSさん宅にお邪魔し、お世話になる。スタートは岩舟町役場、北にそびえる岩舟山の山頂には三重塔で知られる高勝寺があるそうです。太平山の山裾に沿って・・・途中、鷲巣の神社では祭礼に出くわし、奉納の舞を見学させていただきました。その後、ふるまいの豚汁を頂く。
(日光例幣使街道を走る)
日光例幣使街道(中山道倉賀野宿より分岐)・・・徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するため、京の都より勅使(朝廷の使い、公家?)が日光東照宮へ通った道。日光杉並木もその一部だそうです。
その道が商業で栄えた栃木市を通っていました。趣のある街道沿いには代官屋敷や往時の商家が並んでいました。
(巴波川沿いの蔵)
巴波とうずまと読む・・・往時、栃木は江戸との舟運(巴波川から利根川へ)の起点となり、北関東の商都として大いに栄え、その代表が塚田家、木材の廻船問屋として財をなし、今も豪壮な土蔵造りの蔵が残っているのだそうです。
(旧栃木町役場)
明治期、県庁は栃木市にあった・・・しかし、歴史の流れの中で宇都宮へ・・・結果、県の名前として栃木が残ったとのことです。今も町役場や栃木病院といった大正時代の洒落た西洋建築が残っているのが嬉しく感じられます。
(秩父三十四ヶ所観音霊場めぐり)
二日目は秩父市へ・・・以前、塩山~大弛峠~川上村梓山(泊)~三国峠~中津川林道~秩父市~正丸峠~名栗(泊)~青梅~あきる野~高尾へと走ったことがあります。その時、いつかは秩父夜祭も観たいなと!
古くは知々夫国とも・・・和同開珎が造られた場所とも。産業は木材と絹織物・・・大正時代よりは武甲山で採れる石灰岩でセメント製造も盛んに(秩父セメント)露天掘りのため、武甲山の形が大きく変わってしまったのは致し方ない・・・のかも!?
(荒川を渡る)
秩父でもう一つ有名なのが秩父三十四ヶ所観音霊場めぐり・・・なんと岡崎と鈴鹿ナンバーが来ていたのにはびっくり・・・信仰心のなせる業?なのでしょうか。
霊場めぐりの一部を回り、荒川に掛かる橋(地図にはあった)・・・は無く、飛び石を渡って対岸へ。ちょっとしたハプニングでした。
(今宵の宿・比与志にて)
市内の外周をポタリング後、宿へ。「比与志」は素敵な宿でした。古民家風の造りは落ち着きがあり、とてもリラックスができます。薪ストーブはとても暖か・・・!
(秩父鉄道・秩父駅前にて)
夕方、いよいよ祭り見物に・・・全国から集まったのではという数の屋台がずらっと・・・観光客はうん十万人かも。先ずは祭り見物場所の確保・・・見どころを予測して街中を歩きます。
(豪壮な下郷笠鉾の山車)
出発は秩父神社前より・・・六台の山車がゆっくりと御旅所まで曳いて行かれます。見せ場は門での方向転換・・・数メートルの柱が山車を持ち上げ、大きく傾いた状態で向きを変えます。数トンはあるかと・・・拍子木の音が街中にこだまし、東にそびえる羊山から打ち上げる花火が祭りを盛り上げてくれます。なぜかハイライトの団子坂は近づくことさえできませんでした。
三日目・・・初めて通る雁坂トンネルを抜け、甲府市より帰路へ着きました。
※例幣使街道とは・・・ゆすりの語原!??
京の朝廷の使いが、日光東照宮に毎年御幣を捧げるために通った道です。東照宮の例祭に合わせ、四月一日に京を発ち、四月十日に上州に入り、翌日にこの道を通り、十五日に日光に到着したとされています。禄の低い公家が例幣使であったことから、道々金品を強要したり、籠をゆすって落ち金銭を要求したといいます。このことから金品を要求することを「ゆする」と言うようになったとされます。(とあるサイトより)