《輪旅 飛騨古川祭りへ!!》
飛騨の祭りといえば高山祭りが有名である。しかし、もうひとつ凄い祭りがあることはあまり知られていない。高山祭りが「静」とすれば古川祭りは「動」、その勇壮な祭りは、長い冬に耐えた飛騨人が待ちかねた春にエネルギーを爆発さえるかのようにパワーに満ち溢れている。
「起し太鼓」その名の語源は、本祭りが始まるのを町の人を起こして歩くところから来ているとか。その歴史は300年あまり、一度は見てみたい郷土の祭りである。
桜が満開の宮川緑地公園よりスタートする。外人客でにぎわう朝市の中を抜け、陣屋前でA氏と合流。彼の先祖は飛騨国府町の出身とかで、今回はそのルーツを辿る旅だそうだ。
観光客でごった返す三之町筋を避け、高山市内を見下ろすのに絶好の展望台となる北山公園(桜山)へ上る。ここは飛騨山脈の乗鞍岳も遠望できるお奨めスポットでもある。
旧の丹生川村を抜け、恵比寿峠へ向かう。10分も走れば飛騨の田舎風景が広がり、観光では訪れることのできない旅気分を存分に味わう。高原野菜の栽培が盛んなようで、ビニールハウスが点在していた。
小さな峠を越えれば折敷地の集落へと入ってゆく。その寒村は荒城(あらき)郷と呼ばれ、今も自然とともにゆっくりと時間が過ぎているようであった。
国府町へ下り、安国寺の前より十三墓(大坂)峠の上りに入る。十三墓という地名の由来は戦国時代、ここであった戦いに敗れた武将13名が葬られたところから来ているとか・・・峠の向こうには座禅草の咲く湿原があった。
石仏岩のところで左折し、巣山林道へ入る。この道は越中東街道といい、赤坂峠を越えて越中のブリや塩が飛騨高山へ運ばれたという。
流葉で国道41号に出会い、数河峠を越えて今日の宿へ入る。民宿・池田荘のご子息はスキーの国体選手だそうで、トロフィーや賞状が多数飾ってあった。
豪勢な夕食の後は古川祭り見学へ。大型バスでの無料送迎が嬉しい。
先ずは古川の町並み観光へ。情緒ある瀬戸川沿いの小道をそぞろ歩く。満開の桜はライトアップされ、老舗の料理旅館を冷やかす。「八ツ三館」「蕪水亭」いずれも明治初期の創業とか。
明日の祭りの山車を準備する人たちを会話を交わす。江戸期に造られた山車は、飛騨の匠(左甚五郎が有名)が精魂込めたもので、時価にすれば3億円以上とか。
瀬戸川沿いに鯉の遊泳を楽しみながらメイン会場へと出る。下穿きに晒しを巻いた若衆が続々と集まってきた。
祭りといえばお酒、古川の造り酒屋、蒲酒造場の「白真弓」と渡辺酒造店の「蓬莱」の樽酒が振舞われていた。木の香りがしみ込んだ樽酒は独特な香りと美味しさがある。
いよいよ起し太鼓の始まりである。その勇壮さはライブで見たものだけは感じることができる。太鼓の上で二人の若衆が晒しでぐるぐる巻きにされ、一体となった。
この祭りの見応えは、起し太鼓が街中を練り歩くのに対し、街角で付け太鼓の若者がぶつかっていく迫力が凄い。その祭りが延々と午前1時過ぎまで続くそうだ。
翌日も快晴。宿の前に立つと、南西方向に白い山々が見えた。それは白山連峰で、意外と近いことがわかる。
国道を古川に向かって下り始める。途中、袖峠越えのグループと別れ旧河合村の角川を目指す。袖峠にはまだ雪が残り、自転車を押す羽目となった。
河合村・・・あの有名な小説「あゝ野麦峠」の主人公、政井みねの出身地でもある。富国強兵、殖産興業の名の下、飛騨の多くの娘たちが諏訪・岡谷の製糸工場へと送られた。
角川を過ぎ、稲越川に沿って湯峰峠へ向かう。宮川の堤防道路を走れば古川の街は近い。岐阜市内より一ヶ月は遅い桜が満開であった。桜トンネルの下で記念写真を撮る。
街中に入ると、ちょうど本楽祭の屋台巡行であった。動く陽明門といわれる9台の屋台が揃った様は絢爛豪華の一言であった。
古川で食事といえば「キャビング」お勧めのきゃびんぐ定食やビーフカレーを味わった。
♯祭りの後の寂しさは♭・・・明日からの現実に帰るべく、飛騨高山へ自転車を走らせ、帰路に着いた。
アバウトなコースマップ
http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=631884795a5a0d81ac9590dacf9432c0
飛騨の祭りといえば高山祭りが有名である。しかし、もうひとつ凄い祭りがあることはあまり知られていない。高山祭りが「静」とすれば古川祭りは「動」、その勇壮な祭りは、長い冬に耐えた飛騨人が待ちかねた春にエネルギーを爆発さえるかのようにパワーに満ち溢れている。
「起し太鼓」その名の語源は、本祭りが始まるのを町の人を起こして歩くところから来ているとか。その歴史は300年あまり、一度は見てみたい郷土の祭りである。
桜が満開の宮川緑地公園よりスタートする。外人客でにぎわう朝市の中を抜け、陣屋前でA氏と合流。彼の先祖は飛騨国府町の出身とかで、今回はそのルーツを辿る旅だそうだ。
観光客でごった返す三之町筋を避け、高山市内を見下ろすのに絶好の展望台となる北山公園(桜山)へ上る。ここは飛騨山脈の乗鞍岳も遠望できるお奨めスポットでもある。
旧の丹生川村を抜け、恵比寿峠へ向かう。10分も走れば飛騨の田舎風景が広がり、観光では訪れることのできない旅気分を存分に味わう。高原野菜の栽培が盛んなようで、ビニールハウスが点在していた。
小さな峠を越えれば折敷地の集落へと入ってゆく。その寒村は荒城(あらき)郷と呼ばれ、今も自然とともにゆっくりと時間が過ぎているようであった。
国府町へ下り、安国寺の前より十三墓(大坂)峠の上りに入る。十三墓という地名の由来は戦国時代、ここであった戦いに敗れた武将13名が葬られたところから来ているとか・・・峠の向こうには座禅草の咲く湿原があった。
石仏岩のところで左折し、巣山林道へ入る。この道は越中東街道といい、赤坂峠を越えて越中のブリや塩が飛騨高山へ運ばれたという。
流葉で国道41号に出会い、数河峠を越えて今日の宿へ入る。民宿・池田荘のご子息はスキーの国体選手だそうで、トロフィーや賞状が多数飾ってあった。
豪勢な夕食の後は古川祭り見学へ。大型バスでの無料送迎が嬉しい。
先ずは古川の町並み観光へ。情緒ある瀬戸川沿いの小道をそぞろ歩く。満開の桜はライトアップされ、老舗の料理旅館を冷やかす。「八ツ三館」「蕪水亭」いずれも明治初期の創業とか。
明日の祭りの山車を準備する人たちを会話を交わす。江戸期に造られた山車は、飛騨の匠(左甚五郎が有名)が精魂込めたもので、時価にすれば3億円以上とか。
瀬戸川沿いに鯉の遊泳を楽しみながらメイン会場へと出る。下穿きに晒しを巻いた若衆が続々と集まってきた。
祭りといえばお酒、古川の造り酒屋、蒲酒造場の「白真弓」と渡辺酒造店の「蓬莱」の樽酒が振舞われていた。木の香りがしみ込んだ樽酒は独特な香りと美味しさがある。
いよいよ起し太鼓の始まりである。その勇壮さはライブで見たものだけは感じることができる。太鼓の上で二人の若衆が晒しでぐるぐる巻きにされ、一体となった。
この祭りの見応えは、起し太鼓が街中を練り歩くのに対し、街角で付け太鼓の若者がぶつかっていく迫力が凄い。その祭りが延々と午前1時過ぎまで続くそうだ。
翌日も快晴。宿の前に立つと、南西方向に白い山々が見えた。それは白山連峰で、意外と近いことがわかる。
国道を古川に向かって下り始める。途中、袖峠越えのグループと別れ旧河合村の角川を目指す。袖峠にはまだ雪が残り、自転車を押す羽目となった。
河合村・・・あの有名な小説「あゝ野麦峠」の主人公、政井みねの出身地でもある。富国強兵、殖産興業の名の下、飛騨の多くの娘たちが諏訪・岡谷の製糸工場へと送られた。
角川を過ぎ、稲越川に沿って湯峰峠へ向かう。宮川の堤防道路を走れば古川の街は近い。岐阜市内より一ヶ月は遅い桜が満開であった。桜トンネルの下で記念写真を撮る。
街中に入ると、ちょうど本楽祭の屋台巡行であった。動く陽明門といわれる9台の屋台が揃った様は絢爛豪華の一言であった。
古川で食事といえば「キャビング」お勧めのきゃびんぐ定食やビーフカレーを味わった。
♯祭りの後の寂しさは♭・・・明日からの現実に帰るべく、飛騨高山へ自転車を走らせ、帰路に着いた。
アバウトなコースマップ
http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=631884795a5a0d81ac9590dacf9432c0