Club野風増   岐阜・本巣100夢プロジェクト!

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輪旅 石仏の里・当尾へ!!

2009-04-25 21:37:13 | 自転車旅
《輪旅 石仏の里・当尾へ!!》

 京都の南端、奈良との境に当尾はある。奈良時代、都となった恭仁京や山城国の国分寺もこの近くにあった。その時代、当尾には多くの寺院があり、多くの仏教文化が栄えたという。

 多くの石仏群、浄瑠璃寺、岩船寺・・・旅好きが最後に行き着く場所・・・当尾はそんな魅力に満ち溢れていた。

 剣豪の里、柳生からスタートする予定であったが、何やら賑わしい様子・・・報道関係のクルマやら、空にはヘリが・・・大事件があったようである。十兵衛さんも嘆いていることかと・・・

 旧柳生藩家老屋敷、芳徳寺、十兵衛杉、一刀石・・・見所の多い柳生ではあるが、少し先へ移動することにした。


(狭川辺りにて)

 大柳生より走り始め、白砂川沿いに下ってゆく。川沿いの静かな道は、日陰も多く、とても寒く感じた。下狭川町より集落となり、長閑な山間の寒村風景が広がって嬉しくなった。

 大和造りというのか、重厚な瓦屋根の農家は見ごたえがある。集落の中をうねうねと上っていった。

 途中より、県道47号へ入り、岩船寺へと向かう。この辺り、産廃関係の施設が多くあり、それだけが気がかりであった。


(弥勒磨崖仏)

 石仏巡り・・・先ずは、弥勒磨崖仏に出会う。線刻というのか、優しさを感じさせるラインが心を癒してくれる。如来、菩薩・・・仏像に対する知識がもっとあればなと感じた。

 そこより、右手の山道に入ってシングルトラックを楽しむ。かつての参拝道なのか、途中にも仏像があった。

 岩船寺・・・729年(天平元年)聖武天皇の勅願で行基が建立したのが始まりで、806年(大同元年)智泉大徳が報恩院を建立した。813年(弘仁四年)嵯峨天皇が皇子誕生を感謝し、堂塔伽藍が整備され岩船寺となった。

 最盛期には39の坊舎をもつ大寺院となったが、1221年(承久三年)承久の変により大半が焼失した。それ以後、再興された堂塔も再度の兵火により次第に衰え、現在は本堂と三重の塔のみとなった。・・・とあるサイトより

 再度、弥勒磨崖仏のところへ戻り、そこより下っていった。当時の面影が残る素敵な道が続いていた。わらい仏、阿弥陀地蔵、藪の中三尊、首切り地蔵、大門石像群と回る。


(浄瑠璃寺にて)

 浄瑠璃寺・・・永承二年(1047)に、当麻出身の僧義明が薬師如来を安置して開基したことを伝えています。浄瑠璃寺の名は、東方浄瑠璃浄土の主、薬師瑠璃光如来に因んだものです。その後、平安時代末期になって九体阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂を建立し、庭園を整備して今日の姿になりました。・・・とあるサイトより

 本堂、三重塔、木造阿弥陀如来坐像九体、木造四天王立像・・・国宝の多さにも驚かされた。こんな山間の山里に巣晴らし寺院があるなんて・・・

 あ志び之店・・・浄瑠璃寺門前にある食事処がまた素敵であった。名物のとろろ定食、鍋焼き定食を味わう。

 帰り・・・再度、岩船寺まで戻り、県道47号、県道33号「天理加茂木津線」にて大柳生へと走った。

 自転車旅の楽しみ・・・その機動力の良さを活かし、マイナーな場所でも気軽に行けるのが嬉しい。奈良の周辺、京都の周辺にはまだまだ隠れた魅力ある場所が多くあるようだ。これからもそんな自転車旅を続けたいなと感じたプチツーリングであった。

アバウトなコース(一部は変更)
http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=03ce76e1ac811ae947e783d3cff6f4e8

フォトアルバム
http://album.pentax.jp/166909111/albums/79545/






輪旅 山梨の桃源郷へ!!その2

2009-04-23 21:01:29 | 自転車旅
《輪旅 山梨の桃源郷へ!!その2》

 甲府駅前で、関西、関東のサイクリング仲間と合流する。それぞれがお気に入りの自転車を組み立て、ツーリングの準備を始めた。

 先ずは甲斐善光寺へ・・・高さ27mもある金堂と、朱塗りの山門は立派であった。

 石和へ向かう。山梨といえばほうとう料理・・・有名だという「小作」を探し、昼食とした。禅僧が中国よりもたらしたといい、信玄が野戦時の食料として用いたとか。基本と云われるかぼちゃほうとうを味わった。


(小作のかぼちゃほうとう)

 甲斐国分寺を訪れる。現在の笛吹市に位置し、国府もこの近くにあったようだ。国分寺跡には、五重塔の礎石となる14個の石が、奈良時代のロマンを感じさせてくれる。金堂跡は発掘中であった。少し北へ行ったところに国分尼寺跡がある。

 甲斐国一ノ宮・・・浅間神社を訪れる。駿河の浅間神社はせんげんと読むが、甲斐ではあさまと読む。冨士山の北に位置し、貞観7年(865年)、富士山大噴火の翌年に富士山を鎮めるために祀られたとか。

 勝沼といえばワイン。その歴史は古く、明治10年に最初の醸造場が造られたとか、およそ135年程の歴史があることになる。未知のワイン造りはフランスに学んだそうだ。岩崎醸造と山梨ワインを訪問した。

 今日の宿は、塩山の「水上荘」。山裾の坂を上り詰めたところに宿はあった。その建物はとても立派で、座敷蔵の前に設えられた囲炉裏で、豪勢な夕食を頂いた。5人でビールを17本、日本酒を4合・・・それで九千円・・・とても値打ちであった。


(水上荘の炉端料理)

 翌日のコースは、山梨フルーツライン・・・甲府盆地の南東の山裾を行くルートは、絶好の展望コースでもある。眼下に、ピンクに染まる桃源郷を見下ろし、盆地の向こう側には残雪に覆われた北岳や農鳥岳がずっと望まれた。


(桃の開花)

 勝沼ぶどうの丘の下を通り、一ノ宮桃源郷を横切ってゆく。昨日からの山火事がまだ続いているようで、ヘリコプターが頻繁に飛び交っていた。

 飽きるほど、桃源郷を満喫し、風土記の丘の下で解散とした。二日間とも快晴に恵まれ、桃の花は満開・・・宿はとても素敵で、これ以上の自転車旅は望めない・・・それほどに充実した二日間であった。素敵な自転車仲間に最大の感謝を申し上げたい。

 解散後、笛吹川サイクリングロード、釜無川サイクリングロードをつないで、スタート地点となる信玄堤へと戻った。

 新府桃源郷、台ヶ原宿の「七賢」、山高神代桜、躑躅ヶ崎館跡、ほうとう料理、甲斐国分寺跡、甲斐国一ノ宮、勝沼ワイナリー、民宿「水上荘」、一ノ宮桃源郷・・・どれもが素敵な思い出となった。





輪旅 山梨の桃源郷へ!!その1

2009-04-20 22:08:36 | 自転車旅
《輪旅 山梨の桃源郷へ!!その1》

 甲斐の国、山梨といえば武田信玄。その足跡を辿って山梨を訪れてきた。

 新府城跡・・・信玄の後継者、勝頼が最後の砦として城を築くが、信長や家康の攻撃を受け、未完に終る。こののち、勝頼は自害したという。現在の城跡は神社となり、北側に広がる景色は素晴らしかった。

 新府桃源郷・・・噂には聞いていたが、桃の花が一斉に開いた畑は、まさしく桃源郷であった。一面がピンクに染まり、その背景には、雪を被った八ヶ岳や南アルプスが・・・最高のロケーションであったことは云うまでもない。


(新府桃源郷と八ヶ岳)

 県道17号を北上する。適度な田舎道で、サイクリングには持って来い・・・左手には、鳳凰三山や甲斐駒が大きく望まれる。伝統的な山梨の家屋も残っていた。

 花水坂を下り、台ヶ原宿へと向かう。ここは、かつての甲州街道の宿であったとか。歴史的な建物も残り、見応えがある。特にお勧めは名酒「七賢」の山梨銘醸。その建物自体も凄く、伝統の重みがひしひしと伝わってくる。

 日本酒とくれば、次はウィスキー・・・サントリーの白州ディスティラリーは近いが、次回のお楽しみとする。


(山高神代桜)

 日本の三大桜といえば、根尾の淡墨桜、福島の三春滝桜と山梨の山高神代桜とか(Wikipediaでは議論中に!?)樹齢2000年と云われる実相寺の老木は、枯れ死寸前までいったとか・・・その太い幹には、人間には真似の出来ないオーラが漂っていた。背景の甲斐駒がまた素晴らしかった。


(神代桜と甲斐駒ヶ岳)

 次に訪れたのが、萬休院の舞鶴松・・・人出の少なさにいぶかるが、その結果は意外であった。鶴が舞うように枝を広げた松は、何と三年前に松くい虫の被害で枯れ死したという。桜と松、その対比が楽しみだったのだが・・・

 次に訪れたのが、徳島堤(とくしませぎ)。今から300年前に造られたという灌漑用水を訪れてみた。釜無川に架かる穴山橋の上流から取水された水は、甲府盆地の西側の山裾を南に流れていた。ちょっとした高台となる用水路沿いの道は、絶好のサイクリングロードで、正面には富士山が・・・左手には甲府盆地が・・・振り返れば八ヶ岳がという絶好のロケーションであった。

 途中、人だかりにつられてゆくと、桜の大木が田んぼの真ん中にポツンと・・・「王仁塚の桜」というそうだ。最近のブームか、無名な一本桜に人気があるそうで、シニアのカメラマニアが殺到していた。背景の八ヶ岳を入れて撮るのが定番?とか。

 その先に武田八幡神社があった。潜れない?鳥居と門の横を抜け、武田菱の幕が張られた本殿にお参りをした。

 翌日、先ず訪れたのが甲府城跡(舞鶴城)。江戸時代、武田一族の支配下にあった甲斐の国を、徳川義直(徳川御三家、尾張徳川家の始祖)が統治したという。その石垣は立派で、天守台から眺める甲府の町は必見である。

 次に、信玄の居城「躑躅ヶ崎館」に向かう。「人は城 人は石垣 人は堀. なさけは味方 あだは敵なり」信玄は、多大な労役を伴う城造りはせず、質素な館を城にしたという。しかし、それなりの堀はあったが・・・

 信玄といえば、風林火山。武田軍の旗指物(軍旗)に記された「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山 / 疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」はあまりにも有名である。近くにある信玄墓にも寄ってみた。

フォトアルバム
http://album.pentax.jp/166909111/albums/75731/
動画
http://zoome.jp/nosanjin/diary/18/

続きは、その2へ・・・






伊賀上野 童仙房から多羅尾、御斎峠へ!!

2009-04-03 21:17:10 | 自転車旅
《伊賀上野 童仙房から多羅尾、御斎峠へ!!》

 童仙房・・・その名前を知ったのは随分前で、ようやく憧れの地を訪れることができた。その場所は、京都府の最南端、南山城村に位置する。明治の初年ごろ、廃藩置県によって行き場を失った士族(氏族)のために開拓が行われたという。136戸、500人近い人達が入植したとか。

 先ずは伊賀国一ノ宮「敢国神社」を訪れる。諸国一ノ宮巡り・・・奈良時代、地方の国へ赴任した国守の最初の仕事は、一ノ宮から順番に参拝することであったとか。

 佐那具・・・昔、ここは伊賀国の国府があったところで、かつては府中村といったそうだ。今、そこには府中神社が祀られていた。

 伊賀国分寺・・・名阪国道、友生インター近くに国分寺跡があった。今では笹原となり、立派な石碑だけが建てられていた。


(童仙房 ないおん寺にて)

 関西線佐那具駅の近くよりスタートする。桜の満開には早かったが、気持ちの良い春の田園風景の中を走り貫ける。上野市街には藤堂高虎が築城(結果、城は未完に終り、現在の天守閣は昭和の時代に造られたとか)したという上野城が小さく望まれた。

 新居の辺りより山間へと入って行き、徐々に高度が上がってくる。「和銅の道」という碑が気になった。ゴルフ場を回り込んだ辺りで右折をし、中矢の集落より三国越林道へ入る。

 この三国というのは、三重、京都、滋賀を言うらしい。今回の輪旅は、三県を走るプランでもあった。入り口より5キロあまりは延々とした上りで、久し振りの峠ツーリングに脚が悲鳴を上げた。眺望は最高、ぐんぐんと高度を上げ、伊賀盆地の風景が眼下に広がってゆくのが気持ちよい。

 展望台となる東屋で一服とする。クルマはほとんど通らず、雄大な景色を独り占めしながら、パンをかじった。

 三県境の展望台があるというピークを越え、童仙房へと下って行った。地形が複雑なため、アップダウンがしばらく続き、少し不安になる。通るクルマもなく、道を尋ねる相手もいない。


(多羅尾にて)
 
 林間より初めての水田に出会ってほっとする。水田は里が近い証拠、ちょっと横着をして、デジカメの動画を撮影しながら先へと進んだ。やがて民家が現れ、期待通りの風景に出会えて満足をした。

 着いたところは野殿の集落とあった。童仙房の中心地はもう少し先のようだ。さらに長閑な風景の中を走って、小学校のある場所へと出た。ここは5番という字名とか、開拓時、京都の府庁に近い順に番号が振られ、そのまま現在の字名になっているそうだ。

 4番の大神宮、ないおん寺、童仙房山荘を訪れてみた。この辺りは、宇治茶の生産も盛んなようで、手入れの行き届いた茶畑が美しい。折り返し、小学校のところより左折して9番を目指す。

 しばらくは山間を走るコースとなる。樹林の下が笹原なのが標高の高さを感じさせる。時より現れる別荘風の建物が???これが京都の軽井沢と云われるゆえんであろうか。

 途中、高麗寺を訪れる。その装飾を施された本殿?は朝鮮辺りのものであろうか。デザインや色使いは日本的ではなかった。

 最終の字名となる九番へ至る。偶然居合わせた方と立ち話をする。昭和28年8月、この辺りは未曾有の大洪水に襲われたそうだ。一帯は河原状態となり、10日間ほど牛を連れて裏山へ避難したという。その立派な大和造りの建物の柱は、その災害時に倒れた大木を運び出した物が使われているとのことであった。


(御斎峠にて)

 小さな峠を越えて滋賀県の多羅尾へと出る。多羅尾といえばあの名探偵の多羅尾伴内・・・ではなく、甲賀武士である多羅尾氏の出生地。江戸時代に代々が代官を務めたという名家でもあったとか。代官所跡を訪れてみた。陣屋跡には、今も末裔が居住されているそうだ。

 次に、訪れたのが御斎峠(おとき峠)。本能寺の変の時、堺にいた徳川家康は、反信長派の襲撃を恐れ、三河へ逃げ帰った時のルートでもあるという。「神君伊賀越え」多羅尾氏や服部半蔵、伊賀、甲賀忍者の手助けを受け、宇治田原郷ノ口、裏白峠、朝宮、小川、御斎峠を越えて音羽、加太峠、伊勢の白子浜へ向かい、船で伊勢湾を渡って岡崎城へ戻った(逃げ帰った?)という。

 伊賀盆地の夜景が美しいという峠から一気に下り、さらに、諏訪、音羽、波敷野、馬場へと走る。このルートをあの家康公も通ったという。この道は、自転車にとっても最高のロケーションであった。伊賀の田舎風景が色濃く残っている。

 阿山町馬場に出、ここで右折して佐那具を目指す。伊賀から甲賀辺りの風景は、とても魅力がある。距離的に大阪や名古屋の通勤圏とはならず、未だに昭和3、40年代の景色を感じさせる民家や田園は、大いに心を癒してくれるものであった。

コースはこちら・・・
http://route.alpslab.jp/watch.rb?id=4c9621f1e8c9d019093547e09c0c993e

動画はこちら・・・
http://zoome.jp/nosanjin/diary/17/

野風増アウトドア塾のホームページ
http://www.wellworks.jp/nofu-zo/